第弐骨 頭《こうべ》⑧

    ■陸


 電話先のお宅は、バス停から十分ほど車を走らせた所にあった。

「ああぁ、本当だ。こりゃあナナだ」

「ナナだよう、お父さん」

 出迎えてくれたのは五十歳前後と思われる夫婦で、二人は小犬を見るなり、冷たくなった体を大事そうにタオルに包み、抱きしめて号泣した。

「……道路沿いのバス停の屋根の上に、載っていたんです」

「なしてそったら所に!?」

 どうしてそんな所に──という意味だろう。海沿いの街だからか、少し方言のきつい口調でおじさんが言った。

「さあ……」と僕が言いかけると、櫻子さんが「鳥だ」と短く答えた。

「鳥?」

「おそらくカラスかとんびの仕業だろう」

「はあ?」

「エサとして運ぼうとしたものの、重くて運びきれず、くわえていた下肢を一本だけ残してそのまま落としていったんじゃないかな」

「カラスか……」

 おじさんが低くうめく様に呟いた。

「ただ、足の欠損以外に目立った外傷はない。最近雨が降った様なので、出血の跡を肉眼で確認することが出来なかったが、片足を失った事による失血性ショックか、落ちた衝撃によるめつ症候群が死亡の原因じゃないかと思う」

「ざめつ……?」

「体内の筋肉細胞組織の内側は、ミオグロビンというタンパク質や、外側の二十倍もの濃度のカリウムを含んでいる。それが激しい打撲や圧迫などの衝撃を受けると、大量に細胞の外に流れ出すんだ。なかでもこのカリウムというヤツは、心臓を止める作用があってね。リンパや血液中に入った大量のカリウムが心臓に一気に流れ込むことで、ショック症状が起きる。これが挫滅症候群だ」

「つまり……ショック死という事ですか?」

「そうだな。たとえばれきの下敷きになっていた人間が、救助直後に亡くなるケースがあるが、これも同じ挫滅症候群だ。二時間以上圧迫され、手足などの末端に感覚が無くなっている場合は、むやみな救助は避けた方が良い。保温や水分補給などにとどめ、可能なら医師等の補助のもとに行うべきだ」

 それはわかったけれど、別に今この人たちの前で、そんな話をしなくてもいいんじゃないだろうか? と、黙り込んでしまったナナちゃんの飼い主夫妻を見て、慌てて僕がその場を和ませる為の言葉を探していると、櫻子さんが短く息を吐いた。

「……まぁ、つまり何が言いたいかと言えば──犬というのは、非常に表情筋の豊かな生き物だ。だがこの小犬のなきがらを見る限り、そう苦しそうな顔では無いように思う。だから小犬は苦しむ間もなく、速やかに死に至ったのではないだろうか? 挫滅症候群は死ぬまで一日以上かかる筈だ。苦しむ時間も長い。従って、死因は前者ではないかと推測される。失血性ショックであれば、この小さな身体ならすぐにくだろう」

 少しねたような響きは、おそらく照れているからなのだろう。それが櫻子さんにしては珍しく、夫妻への慰めの言葉だった事に気がついて、僕はほっとした。おばさんもやっと彼女の言葉の意味がわかって、「ああ……」とえつを洩らした後、ナナの身体をぎゅっと抱いた。

つらい思い、しなかったんなら、いいねぇ……」

「先週、祖母ばあちゃんが亡くなってねえ、こっちはほら、やれ葬式だなんだと忙しくて、気がついたらナナがいなくなってて。いや~……ナナは祖母ちゃんに一番懐いてたから、きっと祖母ちゃん捜していなくなったんだぁ、って言ってたんですよ」

「それでカラスにやられたんでないべか」

 おじさんの言葉の後を継ぐように言いながら、おばさんはタオルの上からごしごしとナナの背中をさすっていた。そうすれば、温かくすれば、まるでナナの魂が戻ってくるんじゃないかっていうように、あるいは冷たくなった身体を、少しでも温めてやりたいというように。

「もともとあっちゃこっちゃと行く子だったけど、カラスにさらわれるなんて! またはんかくさい犬だよ、ナナは!」

 おばさんは、動かない愛犬を叱るように言ったけれど、その涙でれた声には確かな愛情が含まれていた。

「もしかしたら祖母ちゃんを一人で逝かせんのが、可哀想だったのかもしんねえなあ……」

 しんみりと言ったおじさんの言葉に、ナナがどれだけこの一家に可愛がられていて、そしてナナ自身も家族に愛を振りまいていたかというのがよくわかる。

「わざわざ寄ってくれて。本当に、ありがとうございます」

「いえ、悲しいお知らせをしてしまう形になってしまって、逆に申し訳ない気持ちで一杯なんですが……」

 夫婦が僕らに向かって頭を下げて来たので、慌てて僕も頭を下げた。

「いやあ、お陰で祖母ちゃんと一緒に弔ってやれます」

 うつむいたおばさんのひざに、ぽたぽたと涙の滴が落ちるのを見ながら、僕は今日はよく頭を下げられる日だな、と不意に思った。がいこつから始まって、とにかく頭に縁がある。

 長居しても仕方ないので、僕らがいとまを告げようとすると、夫婦はせめてお茶でもと勧めてくれた。そこまで甘えるのも悪いし、なんだか気まずいし、何より櫻子さんが余計なことを言いだしたら厄介なので、「旭川から来てるので」と断ると、「それじゃあ早く帰った方がいいよな」とおじさん達も納得してくれた。時計はもう既に十八時を回りつつある。

 おじさん達は、せっかく旭川から来てくれたのに、こんな事で寄らせてしまって申し訳ないと、せめてお土産を持って行くように勧めてくれた。山路さんといい、増毛の人は本当に人思いの人柄らしい。

「タコの頭も持ってくかい? すごい柔らかくて美味うまいよ」

「あ……じゃあ、いただきます」

 遠慮するのも逆に悪い気がして、僕はご厚意に丸々甘えることにした。自家製だという鮭トバ、スルメ、そして冷凍したでだこ、三平汁に丁度良いという塩辛い本漬けのぬかニシン……帰ったらばあやさんがびっくりしそうだ。

「なんだか、僕らの方がすっかりお世話になってしまって」

「なんもなんも」

 標準語だと「何も」とか「いえいえ、どういたしまして」になる、この「なんも」という言葉は、同時に「気にする事ないよ」「大丈夫だよ」という、なんとも言えない優しさが含まれていて、僕は大好きだ。

「じゃ、美味おいしく頂きます。遅くまで失礼しました」

「もう暗いから、気ぃつけて帰って下さい」

「はい、ありがとうございます」

「またこっち来たら、寄っていって下さいな」

「はい、是非」

 おばさんの言葉にそう答えて、帰りは僕の方から先に頭を下げた。社交辞令なのか、それとも本気で言っているのかわからなかったけど、改めて訪ねるのは、ナナの死を思い起こさせてしまう気がするし、話題に困る気がする。それでもまた会えたらいいなあと、僕は思った。

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