第壱骨 美しい人③

    ■弐


 母と約束したのは、櫻子さんのお屋敷から車で十数分の所にあるアパートだった。

 バスで行くつもりが、丁度前方から走ってきたタクシーが空車なのに気がつき、櫻子さんがすぐに車を止めてしまった。

 お陰で予定よりも早く着いたので、僕はなんとかアパート近くのコンビニで、お昼ご飯におにぎりを食べることが出来た。明太子とツナマヨと梅の三つ。明太子は無駄に辛くて、ツナマヨは塩けがキツすぎ、梅は少しも酸味がなかった。けして美味しいとは思えないその味に、ばあやさんの生姜焼きが心底恋しくて、僕の機嫌がちょっとだけ悪くなった。

 とはいえ、味に関係なく腹はくちくなる。おにぎり三つをぺろっと完食し、お茶でのどをしめらせていると、母さんが現れた。流行のポンチョコートを着ているけれど、旭川の寒さに合わせて厚着をしている為か、ちょっと太めの体型が余計に強調され、ダルマのようだ。僕は我が母の姿に、ちょっとガッカリした。

「あらま!」

 顔を合わせるなり、母はぎょっとしたように口元を手で覆った。それはこっちの台詞せりふだと思いながら、仕方なく僕は櫻子さんを紹介することにした。

「ええと、母さんこの人は──」

「知ってるわよ! 九条さんの所のお嬢さんじゃない!」

 無理矢理少し離れたところに引きずっていったかと思うと、母が声を潜めて僕の横腹を軽くポコポコと殴ってくる。

「え? 知ってるんだ?」

「当たり前でしょ! 私達が住んでるナンコウ地区一帯は、もともと九条さんの土地をお借りしてたもんなのよ。戦後から少しずつ手放されたみたいだけど、それでもここらじゃ有名な地主さんじゃないの!」

「まぁ……家が大きいっていうのは知ってるけど」

 確かに櫻子さんのお屋敷は大きい。今はばあやさんと二人でしか住んでないのに、部屋は十室もあるという話だ。そしてそれ以上に驚くのはその広い庭で、イルカ二頭とミンククジラの子供が一頭、ヒグマ一頭、鹿と馬をそれぞれ三頭ずつ埋めてもまだまだ余裕があるという。

おおだんさんが亡くなる前に色々と整理されたみたいだから昔ほどじゃないにせよ、九条さんの所のお嬢さんと言えば、お前、立派なお嬢様だよ」

「へぇ……」

「『ヘェ』じゃ無いわよ! なんでそんな人を連れて来たのよ!」

「いや、だって本人が来たいって」

「はぁ?」

 声を潜めてそんな話をしている僕らを、櫻子さんは不思議そうに見た後、辺りを観察しはじめた。

「まぁ……とりあえず櫻子さんの事は、気にしないで良いから」

「気にしないって、そんな訳に行かないでしょ!」

「いいんだよ、放っておいて。どうせ櫻子さんは、自分のしたいように、好きな事をするから」

「好きな事って……」

「ほんと、子供みたいに我がままな人だから」

「聞こえているぞ、少年」

 僕を見ず、アパートの窓を視線の先に捕らえたまま、ムッとしたように櫻子さんが言った。新築で建てるのではなく、中古物件をリフォームして貸し出すのが主流の、母が管理しているアパートは、相変わらずどこか無難な印象で個性が無い。

「はははは……聞こえてましたか」

「でも君の判断は間違ってはいない、私はいないものと思ってくれ」

 けれどそう言う櫻子さんに、母さんは慌てたみたいにまごまごした。

「あ……あの、ですけれど、寒いですし、なんでしたらそこでお茶でも……」

 櫻子さんと目があったらしい母さんは、慌ててアパートの斜め前にある一軒のカフェを手で指し示した。てのひらを上に向けて、低姿勢にも程があるってぐらいの低姿勢だ。

「お気遣いなく」

 けれど櫻子さんはきっぱり断って、僕の腕をつかんだ。困惑する母を尻目に、今度は櫻子さんにずるずる連行されていく。

「そんな事より、いつまで待たせるつもりだ? 早く行こう」

「駄目ですよ、家族の人を待たないと。勝手にかぎなんて開けられないに決まってるじゃないですか」

「じれったいな。何処の部屋だ?」

 櫻子さんが、不機嫌な兎のようにダンダン!と左足で地団駄を踏んだので、僕は慌てて母に「何処の部屋?」と問うた。

「ああ、二階の一番手前よ。みずしまさんっていう、若いお嬢さん」

「──え?」

 途端にガツンと硬い物で頭を思いっきり殴られたような、鋭い衝撃が僕を襲った。

「水島さん……?」

「ええ、もうすぐ結婚するから、引っ越しする予定だなんて言ってたのに、中で変なことになってなきゃいいけど……」

「そんな……」

 てっきりまたお年寄りなんだと思ったのに、部屋のあるじは若いお嬢さんだって? しかも水島さんだって?

「まぁ、若い人だし、家族の取り越し苦労だと思うんだけどね」

「そ……そうだよ、ね……」

 そうだ、取り越し苦労であって欲しい。なぜなら僕は確かにその『水島さん』と面識があった。もちろん面識が無い人なら、どんな事になってもいいっていう訳じゃない。でも知り合いとなると、そのショックは更に大きくなる。まさか水島さんに何かトラブルだなんて、そんな事考えたくもない。

「そんなはず無いよ、きっと……」

 僕は彼女のほっそりとして清廉としたたたずまいを思い出して、自分に言い聞かせながらも、急に指先が震えるような激しい不安にとらわれた。

「二階の手前──あそこか? カーテンが引いてあるな」

「そう……ですね」

「こんな時間から部屋を暗くする道理はないだろう。という事は、夜のうちに出かけたまま帰っていないか、もしくは日が昇る前に死んだかのどちらかだな」

「そんな興味本位の推理はやめてください!」

 僕の剣幕に驚いたらしい櫻子さんが、珍しくそれ以上は口をつぐんだ。

「ちょっと、九条さんのお嬢さんになんて口を……」

 母さんが慌てたように間に入ってきたので、僕は「ああもう!」と母さんの肩を摑んで、二人の間から押し出した。

「それより、もう一時半過ぎてるんじゃないの? 家族の人は? まだ来ないの!?」

「そろそろだと思うんだけど……」

「電話で確認するとか出来ないのかよ!」

「だってそんな、せかすのもちょっと……」

「少年」

「はい?」

 そういう僕らのやり取りを見ていた櫻子さんが、不意にすっと前方を指さした。彼女の指先が示す方向、黒い人影が一つ、道路を渡って走ってくるのが目に入る。

 その人も僕らに気がついたようで、さらに足を速めた。小走りに駆けてきたのは、白いダウンコートの前を、寒そうに両手でかき合わせた女の人だった。身長は百六十cm前後で、流行なのだろうか、白い肌にやけに明るいオレンジ色の頰紅をつけているので、華やかな印象を受ける。髪は短いけれど緩く波打っていて、一見しておしゃれな人だと僕にもわかった。

「あの……こちらの大家さんですか?」

「はい。ここを管理しているたてわきです」

 母さんが答えると、女の人が慌てて胸元を摑んでいた手をほどき、さっとコートの襟元を正す。コートの下は、どうやらピンク色の白衣だけらしい。パンツタイプとはいえ、けして暖かいとはいえない今日の天気では、その格好は寒いんじゃないかと思った。

「お待たせしてしまってすいません」

 僕らの前にたどり着くなり、彼女はそう言って頭を下げた。コートが揺れて、『水島』とかかれた胸の名札がのぞく。彼女が再び頭を上げると、かすかに甘い香水の薫りが僕の鼻孔をくすぐった。

「ええと、貴方あなたが水島さんのご家族の方?」

「はい。妹のよしです。母も同行したがっていたんですが、一昨日おととい雪道で転んで腰を痛めてしまって……」

「ああ~、一昨日は道路がツルツルでしたもんねえ」

 母さんはさも心配しているような、痛ましそうなおおな口調で言いながら、けれどすぐに「余所よそ様のお部屋を開ける事になるので、一応身分証明書かなんか確認させていただける?」と彼女に聞いた。

「免許証で良かったですか?」

「ええ、お名前とお写真さえ確認させていただければ」

 コートのポケットから、好美と名乗った女の人が、サイフを取り出した。ブランド物の長ザイフだ。彼女は寒いせいかぎこちない手つきでそれを開けて、中から免許証を取りだした。

「水島……好美さん、ね……。ええ、確かに」

「これでいいですか?」

「あと、お母様のお名前を伺っていいかしら」

「母ですか? 水島ですけど……」

「美しいに、時代の代に、子供の子ね?」

「はい」

「ごめんなさいねぇ、一応ね、契約をした際の保証人の方のお名前を確認したくて」

「いえ……」

 場合が場合だからか、母の入念な身元確認も仕方ないとそう納得しているそぶりではあったものの、好美さんはチラチラと二階の部屋に視線を泳がせ、一刻も早く部屋を確かめに行きたそうにしていた。そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、母はかばんから出した書類の確認を始める。好美さんの不安が僕にも良くわかって、「じゃあ、一応ね、同意書を書いていただきたいんだけど……」と言って書類を差し出した母さんに、僕はイライラした。

「眼科か?」

 唐突に、櫻子さんが言った。

「はい?」

 ボールペンを母から手渡されながら、好美さんが不思議そうにまばたきをした。

「君の働いている病院だ」

「……どうしてですか?」

「その靴で来たという事は、ここからそう遠くない病院だろう」

 櫻子さんにそう言われて彼女の足下を見ると、彼女は赤いクロックスを履いていた。今日は雪が降っていないとはいえ、こんな冬に履く靴じゃない。

「タクシーでここを通ったときに、近くに病院を二軒見た。内科小児科と眼科だった。ピンク色の白衣は小児科の看護師に多いから、最初は小児科なのかと思ったが……」

 そこで櫻子さんが、トントン、と自分の目の横を人差し指でたたいた。

「…………?」

「目の周りだ。化粧の上に、微かに丸い跡がある」

 母に言われるまま書類にサインをしながら、好美さんは更にげんそうに顔をゆがめた。

「おそらくレーザーフレアセルメーターの跡だろう。眼科の看護師は患者よりも機械の面倒を見なきゃいけないと、以前眼科に移った知り合いの看護師がらしていた」

「それは……確かにそうかもしれませんね。最初の頃は、私も随分戸惑いました」

 サインを終えた好美さんは、ふっと息を吐き出すと、引きつった愛想笑いを浮かべた。多分、櫻子さんが何者なのか思いあぐねているんだろう。

「へえ、じゃあ、やっぱり眼科の看護婦さんなの!」

 空気を読まない雰囲気で、母さんがびっくりしたような声を上げた。

「はい……そこのアイクリニックの……」

 好美さんがうなずいたので、母さんはさも感心したように「へぇ、すごいですねぇ、私はわかりませんでしたわ」と、大げさに言いながら櫻子さんを見たけれど、櫻子さんはそれを無視した。彼女は別に、誰かに賞賛されたくて色々なことをいい当てるんじゃない。ただ、そこに本当のことが隠れているから、それを少しばかり覗き込みたくなるだけなのだ。

 櫻子さんが、唯一尊敬している叔父おじさんに言われたって言う言葉を、聞かせてもらったことがある。

『真実っていうのは骨に似ている。皮膚と脂肪と肉の中に隠されていても、ちゃあんとその奥で、全部を支えているんだ。物事にはどんな時もちゃんと理由と関連があるんだよ。生き物の身体に骨と筋肉があるようにね』──と。

 だから櫻子さんは知りたくなるんだ。彼女は、骨が大好きだから。動物の肉をぐように、世の中の隠された部分を剝ぎ取って覗き込まずにいられないんだ……。

「じゃあ、そろそろ上に行きましょうか」

 母さんは櫻子さんに無視された事をどうやら快くは思わなかったようで、ちょっと怒ったような、赤い顔をしていた。それでも櫻子さんは母さんにとって、おべっかが必要な相手なんだろう、「それでは私達は仕事がありますので、九条さんはやっぱり喫茶店にでも……」と丁寧にそう言って、また櫻子さんに無視された。

「二階だな。行こう」

 櫻子さんはしかめっ面の母さんは目に入らない様子で、一番最初にアパートの階段を上がっていた。そのすぐ後ろに僕、好美さん、そして母さんが続く。

「ここか、一番手前」

 最初に二階にたどり着き、横並ぶ二つのドアの真ん中辺りに立っている櫻子さんに、僕はとりあえず頷いて見せた。ドアに表札は出ていなかったけれど、水島さんの部屋は、向かって左側のドアの部屋だ。櫻子さんは黒い革手袋のまま、無造作にドアに手を伸ばした。

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