第壱骨 美しい人②

 近所の子供達から、ようかい扱いされているばあやさんは、いつも気配を消して動き回るので、時々本当に人間じゃないのでは?と不安になる。とはいえ、そんな妖怪のようなばあやさんがれてくれる紅茶は、いつも美味しい。普段あまり飲み慣れないし、紅茶の葉の種類や違いなんてまるでわからないけれど、少なくとも母さんが淹れてくれた紅茶を、こんな風に美味しいと思って飲んだことはない。櫻子さんと知り合うまで、僕は紅茶というものが美味しいなんて知らなかったぐらいだ。

「じゃあ、釣れたら持ってきますよ」

 そんな美味しい紅茶と、櫻子さんの無邪気な笑顔に気分を良くした僕は、ついついそう言ってしまった。

「ありがたい。君の趣味が釣りで、本当に助かったよ」

 ぱっと満面の笑みで顔を上げる櫻子さんを見て、僕もうれしくなる──と、同時に、また自分から余計な事を背負ってしまったということに、今更ながら気がついた。僕は本当に馬鹿だ。面倒なことになるってわかっているのに、どうしてか自分から櫻子さんとの接点を増やしてしまう。

「正確には僕の趣味じゃなくて、祖父の趣味なんですけどね」

 言ってしまった以上は仕方がない。思わずあふれそうになったためいきを飲み込んで、僕は努めて微笑んだ。八角の釣り方は知らないけれど、祖父に聞けば教えてくれるだろうし、それなら一緒に釣りに行こうという話になるだろう。そういう僕からの『頼み』を祖父はとても喜ぶし、お祖父じいちゃん孝行のきっかけになるなら一石二鳥だ。

 玩具おもちやもらった子供のように、無邪気にスマホをいじっている櫻子さんを眺めながら、僕はまた紅茶を一口飲んだ。気配を完全に消す妖怪ばあやと櫻子さんだけが暮らすこの屋敷は、いつも厳かなほどの静寂に包まれている。なんだかんだ言って僕はここが、このお屋敷が大好きだ。最初は部屋中に飾られた白い骨達に見守られるのが気持ち悪かったはずなのに、今ではそれすらも好ましく感じるのは、僕がすっかり櫻子さんに毒されてしまった結果かもしれない。

 そんな快い沈黙の中で、櫻子さんの嬉しそうなかすかな吐息の音を聞いていると、不意に彼女の手の中のスマホが、人気少女ユニットの新曲を流し始めた。

「ごめんなさい、電話みたいです」

 気に入っていた筈のその曲ですら、ここでは耳障りな不協和音のように感じる。僕はなんだかとても悪いことをしたような気になった。むっつりと不満そうに顔をしかめている櫻子さんから慌ててスマホを受け取り、誰からの電話か確認すると、母親からの着信だった。母さんときたら、なんでこんなタイミングの悪い時に?と僕までふくれっ面になってしまう。

「──はい」

 電話に出ると、不機嫌そうな僕の第一声に、『何よ』と母まで不機嫌な声を返してきた。

「いいや別に。それで、どうしたんだよ。夕食の材料をまた何か買い忘れたとか?」

『違うのよ。ちょっと手伝って欲しいことがあるだけ。すぐに帰ってらっしゃい』

「えええ……」

 櫻子さんの強引さにつきあえるのは、もしかしたら母のこういった強引さに慣れているからかもしれないと、不意に僕は思った。僕が四歳の頃に父が病気で亡くなってから、僕と兄を女手一つで育てた母は、所謂いわゆるヤリ手だ。父の保険金を元手にアパート経営を始め、今では市内八つの物件を管理している。ひとり親だというのに、金銭的な不自由を全く感じさせずに育ててくれた母には感謝しているし、立派だとも思ってる。高校だって今は私立校に通わせて貰っているし、大学も好きな所に行きなさいって言われているんだから、母さん様々だ。

 とはいえ彼女は結構人使いが荒い。無償ではない(労働の報酬として、わずかばかりのお小遣いをもらえるのだ)事を理由に、彼女は息子をまるで使用人の如く働かせるのだ。しかも昨年の春に進学を機に兄が家を出て以来、母からの雑用の依頼は、当然のように全部僕に回ってくる。

「手伝うって……またパッキンの交換とか? 二時間ぐらい後じゃ駄目?」

 すっかり日曜大工がお手の物になっている僕は、キッチンから漂う、しようとショウガの焦げる香ばしい匂いを気にしながら、母に答えた。今日は授業が午前中だけだったので、僕はまだ昼食を食べていなかった。だけどさっき玄関で挨拶した時に、「お坊ちゃんは、お昼はまだですかね?」とやけに嬉しそうにばあやさんが聞いてくれたので、ご飯の心配はいらないと安心していた。ばあやさんに言わせると「細すぎる」僕に、彼女はとにかく美味おいしい物をたらふく食べさせたいという、強い欲求があるのだ。

 いつもならお茶菓子が付いてくるのに、今日は紅茶だけだったのも、きっとそれが理由だ。櫻子さんがよく叱られているのを聞いている。『ご飯前に、甘い物なんて食べちゃいけませんよ』って。

 だから僕はもう少ししたら、ばあやさんの美味しいご飯にありつける予定なのだ。こう言ってはなんだけど、母はあまり料理が好きではないし、上手でもない。そして高校生にもなって、昼食を自分で作らないのはおかしいと、そう思っている。つまり家に帰っても、僕の昼食は用意されていない。別に作るのはやぶさかではないけれど、それでも同じ昼食なら、インスタントラーメンよりもばあやさんのごそうの方が断然嬉しい。だから用事を済ますとしても、せめてお昼を頂いてからにして欲しいんだけど……。

『だめよ、今すぐ帰ってきてちようだい。一時半には人が来るのよ』

「一時半? そんな急に」

 古い柱時計を見ると、今は十二時五十五分だった。

『そう。なんだかね、入居者の人と連絡がつかなくておかしいから、ドアを開けて欲しいって家族の人が言ってるのよ。前みたいな事があったら嫌でしょ? せめてお前も一緒に来て欲しいのよ』

「えええ……」

 また僕の口から不満の声が溢れた。

『とにかく、もう時間がないの。いいわね、すぐに帰ってらっしゃい!』

 ──ブッ。

 櫻子さん並の一方的さで電話が切れる。

「ああもう……」

 僕が盛大な溜息をらすと、櫻子さんが不思議そうに目を細めている。

「母からでした」

「何か用か?」

「はい。実家でアパートを経営しているんですが、入居者のご家族が、連絡がつかないので部屋を開けて欲しいって」

「ほう」

「以前、そう言われて部屋を開けたら、中でおじいちゃんが亡くなってた事があったんで、母が一人で行くのは嫌だって言うんですよ……だから、今日はもう帰ることにします」

 全く気乗りしないんですけどね。肩を落としながら僕がそう答えると、櫻子さんはポン、と自分のふとももたたいた。

「そうか、では行こう」

「へ?」

「つまり、中で借りている人間が死んでいるかもしれないと、そう言うんだろう?──それは是非行かないでどうする」

 そういう彼女の表情は、まがう事なき期待に満ちあふれていて、僕はまゆひそめた。

「櫻子さん……」

「なんだ?」

 その弾んだ足取りに、さすがの僕も気を悪くせざるを得ない。

「不謹慎すぎます」

 そう彼女をたしなめるように言うと、櫻子さんはまたねたように唇をとがらせた。こういう時、いつも彼女が年上には思えない。本当にばあやさんは毎日苦労しているだろうと思う。

「そんな風に人の不幸を楽しんでいると、いつか罰が当たっても知らないですからね」

 そんな人を、さすがに本当に中で誰かが亡くなってしまっているかもしれない状況で、一緒に連れて行く訳にはいかなくて、僕は「櫻子さんはお留守番です」と、子供に言い聞かせるように言った。

「別に楽しんでいる訳ではない。ただ私とて人間の死体というのは、あまりお目にかかったことがないのでね、つまりは知的好奇心というヤツだ」

 けれど櫻子さんはいやいやと首を振り、断固として僕に付き合う姿勢だ。それを楽しんでいる以外なんだって言うんだろ。

「駄目です」

 僕はきっぱりと言った。

「少年の邪魔はしない、大人しくしている」

 絶対に噓だ。櫻子さんに限って、そんなコトできる訳がない。

「何かあったら、ちゃんと教えてあげますから。お屋敷で待っていてくださ……おおっと」

 僕はそう彼女に言いながら、無造作にかばんに突っ込んでいたマフラーを引っこ抜き、危うく黒ガレイの骨格標本を、床に落としそうになった。

 すんでの所で床に激突しそうになったケースを受け止め、衝撃で中の骨が壊れたりしていないかよくよく確認をしていると、櫻子さんが後ろから僕の肩に触れ、耳元にフッと息を吹きかけてきた。

「さ、櫻子さ──ッ!?」

「そんな事を言って、君は本当に私を連れて行かなくていいのかね? 中で実際に人が死んでいて、それが数日経っていたらどうする? 夏場と違って腐敗が早い時期ではないとはいえ、人は動かなくなった時から急速に腐敗を始めるんだ。君だって知っているだろう?」

 吐息のくすぐったさよりも、低い声でささやかれた言葉に、ゾッと背筋が寒くなった。

「例えば浴槽だ。入浴中に心不全で亡くなっていたとしよう。水にかった死体がどんな様相を呈しているか、具体的に私が説明してやらなくとも、君はよく知っているはずだ」

 そう櫻子さんに言われて、僕はかつて彼女と川で見つけた、可哀想ななきがらの事を思い出してしまった──思い出したくなくて、記憶の縁に閉じこめている光景を。

「今時期は浴室も寒い。追い炊きにしたまま浴槽に浸かる事も珍しくはないだろう。何日間もぐらぐらと湯で煮られた体からは、骨もさぞ取りやすいだろうね。だが、その分臭いは──」

「やめてください!」

 耳を覆って叫ぶように言うと、櫻子さんが僕の手の中の骨格標本を取り上げた。

「私は想像し得る事実を述べているだけだ。そしてそんな時、君に代わって遺体の確認をしてやろうと、そう言っているんだよ」

「…………」

 櫻子さんは僕の鞄を拾いあげ、中から教科書なんかを一度全てテーブルの上に広げると、丁寧に整えて詰め直し、最後に骨格標本を入れて、ファスナーをゆっくりと閉じた。

「さあ、行くんだろう?」

 黙って立ちつくす僕を見て、したり顔の櫻子さんが、ふわっと僕の首にマフラーをかける。

「……猫みたいに、殺されちゃっても知りませんよ」

 Curiosity killed the cat──『好奇心猫をも殺す』

 Curiosity killed Sakurako──『好奇心櫻子をも殺す』

 言い伝えでは九つも命を持つという猫ですら、好奇心に身を滅ぼしてしまうぐらいなんだから、櫻子さんだって好奇心に殺されてしまうかもしれない。櫻子さんの事は嫌いじゃないけれど、彼女の『死』に対する姿勢はやっぱり好きにはなれなくて、僕は唇をんだ。

「猫か。猫は生きている時も非常に美しい動物だが、その骨はまさに芸術的と言っていい、私は以前──」

「もういいですよ! 僕が悪かったです!」

 ばん! と乱暴にテーブルを叩くと、櫻子さんではなく、いつの間にか後ろに立っていたばあやさんが「ひえッ」と小さな悲鳴を上げた。

「あ、ごめんなさい」

「あれまぁ! お坊ちゃん、もうお帰りになるんですか!」

「すいません、ちょっと急用が出来てしまって……」

 その手のお盆に載せられた美味おいしそうなポトフと生姜しようが焼きの匂いに、お腹がぐうううと悲鳴をあげる中、僕は仕方なくばあやさんに頭を下げた。出来ることなら僕だって食べたいんです、ごめんなさい、ばあやさん。

「私も出てくる」

「お嬢様もですか? じゃあ、今ご用意をしましょうね、そんな格好で外出なんて、九条家のお嬢様に相応ふさわしくは──」

「行くなら、今すぐ出ないと! 一時半にはご家族が来ちゃうんです!」

 ばあやさんが慌てて櫻子さんに着替えをさせようと動き出したので、僕は先手を打つように櫻子さんに言った。

「駄目ですよ、そんな格好で!」

 まさに悲鳴のようにばあやさんが言ったけれど、櫻子さんは「仕方ないんだ」と言って肩をすくめ、僕の後ろに付き従うようにコートだけを手に取る。

「色々ごめんなさい! ばあやさん!」

『お~じょう~さま~!』と、玄関で今にも泣き崩れそうな勢いのばあやさんに心から謝りながら、僕は櫻子さんとお屋敷を出た。

「なぁに、すぐ戻るよ」

 はっはっは、と笑って、相変わらず櫻子さんは何処どこを吹く風だ。本当に、本当に、ばあやさんには申し訳なくて、胸が痛むけど仕方が無い。

「それで、何処に行くんだ?」

 通りに出ると、ぱっと両手を広げて、櫻子さんが笑った──ああそうだ。この人を連れて行くんだ。

 僕は自分がこれから数時間、また彼女に振り回されなければならないんだということに改めて気付いて、あまりのゆううつ目眩めまいがした。大人しくしていると言っていたけれど、櫻子さんが大人しくなんてしていられる筈が無いんだ。

「ああもう、ツイてないなぁ……」

 僕は腹の底から深いためいきらすと、意気揚々と歩き出した櫻子さんのおしりに、こっそり呪いの言葉をつぶやいたのだった。

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