第壱骨 美しい人②
近所の子供達から、
「じゃあ、釣れたら持ってきますよ」
そんな美味しい紅茶と、櫻子さんの無邪気な笑顔に気分を良くした僕は、ついついそう言ってしまった。
「ありがたい。君の趣味が釣りで、本当に助かったよ」
ぱっと満面の笑みで顔を上げる櫻子さんを見て、僕も
「正確には僕の趣味じゃなくて、祖父の趣味なんですけどね」
言ってしまった以上は仕方がない。思わず
そんな快い沈黙の中で、櫻子さんの嬉しそうな
「ごめんなさい、電話みたいです」
気に入っていた筈のその曲ですら、ここでは耳障りな不協和音のように感じる。僕はなんだかとても悪いことをしたような気になった。むっつりと不満そうに顔を
「──はい」
電話に出ると、不機嫌そうな僕の第一声に、『何よ』と母まで不機嫌な声を返してきた。
「いいや別に。それで、どうしたんだよ。夕食の材料をまた何か買い忘れたとか?」
『違うのよ。ちょっと手伝って欲しいことがあるだけ。すぐに帰ってらっしゃい』
「えええ……」
櫻子さんの強引さにつきあえるのは、もしかしたら母のこういった強引さに慣れているからかもしれないと、不意に僕は思った。僕が四歳の頃に父が病気で亡くなってから、僕と兄を女手一つで育てた母は、
とはいえ彼女は結構人使いが荒い。無償ではない(労働の報酬として、
「手伝うって……またパッキンの交換とか? 二時間ぐらい後じゃ駄目?」
すっかり日曜大工がお手の物になっている僕は、キッチンから漂う、
いつもならお茶菓子が付いてくるのに、今日は紅茶だけだったのも、きっとそれが理由だ。櫻子さんがよく叱られているのを聞いている。『ご飯前に、甘い物なんて食べちゃいけませんよ』って。
だから僕はもう少ししたら、ばあやさんの美味しいご飯にありつける予定なのだ。こう言ってはなんだけど、母はあまり料理が好きではないし、上手でもない。そして高校生にもなって、昼食を自分で作らないのはおかしいと、そう思っている。つまり家に帰っても、僕の昼食は用意されていない。別に作るのは
『だめよ、今すぐ帰ってきて
「一時半? そんな急に」
古い柱時計を見ると、今は十二時五十五分だった。
『そう。なんだかね、入居者の人と連絡がつかなくておかしいから、ドアを開けて欲しいって家族の人が言ってるのよ。前みたいな事があったら嫌でしょ? せめてお前も一緒に来て欲しいのよ』
「えええ……」
また僕の口から不満の声が溢れた。
『とにかく、もう時間がないの。いいわね、すぐに帰ってらっしゃい!』
──ブッ。
櫻子さん並の一方的さで電話が切れる。
「ああもう……」
僕が盛大な溜息を
「母からでした」
「何か用か?」
「はい。実家でアパートを経営しているんですが、入居者のご家族が、連絡がつかないので部屋を開けて欲しいって」
「ほう」
「以前、そう言われて部屋を開けたら、中でお
全く気乗りしないんですけどね。肩を落としながら僕がそう答えると、櫻子さんはポン、と自分の
「そうか、では行こう」
「へ?」
「つまり、中で借りている人間が死んでいるかもしれないと、そう言うんだろう?──それは是非行かないでどうする」
そういう彼女の表情は、
「櫻子さん……」
「なんだ?」
その弾んだ足取りに、さすがの僕も気を悪くせざるを得ない。
「不謹慎すぎます」
そう彼女を
「そんな風に人の不幸を楽しんでいると、いつか罰が当たっても知らないですからね」
そんな人を、さすがに本当に中で誰かが亡くなってしまっているかもしれない状況で、一緒に連れて行く訳にはいかなくて、僕は「櫻子さんはお留守番です」と、子供に言い聞かせるように言った。
「別に楽しんでいる訳ではない。ただ私とて人間の死体というのは、あまりお目にかかったことがないのでね、つまりは知的好奇心というヤツだ」
けれど櫻子さんはいやいやと首を振り、断固として僕に付き合う姿勢だ。それを楽しんでいる以外なんだって言うんだろ。
「駄目です」
僕はきっぱりと言った。
「少年の邪魔はしない、大人しくしている」
絶対に噓だ。櫻子さんに限って、そんなコトできる訳がない。
「何かあったら、ちゃんと教えてあげますから。お屋敷で待っていてくださ……おおっと」
僕はそう彼女に言いながら、無造作に
すんでの所で床に激突しそうになったケースを受け止め、衝撃で中の骨が壊れたりしていないかよくよく確認をしていると、櫻子さんが後ろから僕の肩に触れ、耳元にフッと息を吹きかけてきた。
「さ、櫻子さ──ッ!?」
「そんな事を言って、君は本当に私を連れて行かなくていいのかね? 中で実際に人が死んでいて、それが数日経っていたらどうする? 夏場と違って腐敗が早い時期ではないとはいえ、人は動かなくなった時から急速に腐敗を始めるんだ。君だって知っているだろう?」
吐息のくすぐったさよりも、低い声で
「例えば浴槽だ。入浴中に心不全で亡くなっていたとしよう。水に
そう櫻子さんに言われて、僕はかつて彼女と川で見つけた、可哀想な
「今時期は浴室も寒い。追い炊きにしたまま浴槽に浸かる事も珍しくはないだろう。何日間もぐらぐらと湯で煮られた体からは、骨もさぞ取りやすいだろうね。だが、その分臭いは──」
「やめてください!」
耳を覆って叫ぶように言うと、櫻子さんが僕の手の中の骨格標本を取り上げた。
「私は想像し得る事実を述べているだけだ。そしてそんな時、君に代わって遺体の確認をしてやろうと、そう言っているんだよ」
「…………」
櫻子さんは僕の鞄を拾いあげ、中から教科書なんかを一度全てテーブルの上に広げると、丁寧に整えて詰め直し、最後に骨格標本を入れて、ファスナーをゆっくりと閉じた。
「さあ、行くんだろう?」
黙って立ちつくす僕を見て、したり顔の櫻子さんが、ふわっと僕の首にマフラーをかける。
「……猫みたいに、殺されちゃっても知りませんよ」
Curiosity killed the cat──『好奇心猫をも殺す』
Curiosity killed Sakurako──『好奇心櫻子をも殺す』
言い伝えでは九つも命を持つという猫ですら、好奇心に身を滅ぼしてしまうぐらいなんだから、櫻子さんだって好奇心に殺されてしまうかもしれない。櫻子さんの事は嫌いじゃないけれど、彼女の『死』に対する姿勢はやっぱり好きにはなれなくて、僕は唇を
「猫か。猫は生きている時も非常に美しい動物だが、その骨はまさに芸術的と言っていい、私は以前──」
「もういいですよ! 僕が悪かったです!」
ばん! と乱暴にテーブルを叩くと、櫻子さんではなく、いつの間にか後ろに立っていたばあやさんが「ひえッ」と小さな悲鳴を上げた。
「あ、ごめんなさい」
「あれまぁ! お坊ちゃん、もうお帰りになるんですか!」
「すいません、ちょっと急用が出来てしまって……」
その手のお盆に載せられた
「私も出てくる」
「お嬢様もですか? じゃあ、今ご用意をしましょうね、そんな格好で外出なんて、九条家のお嬢様に
「行くなら、今すぐ出ないと! 一時半にはご家族が来ちゃうんです!」
ばあやさんが慌てて櫻子さんに着替えをさせようと動き出したので、僕は先手を打つように櫻子さんに言った。
「駄目ですよ、そんな格好で!」
まさに悲鳴のようにばあやさんが言ったけれど、櫻子さんは「仕方ないんだ」と言って肩を
「色々ごめんなさい! ばあやさん!」
『お~じょう~さま~!』と、玄関で今にも泣き崩れそうな勢いのばあやさんに心から謝りながら、僕は櫻子さんとお屋敷を出た。
「なぁに、すぐ戻るよ」
はっはっは、と笑って、相変わらず櫻子さんは
「それで、何処に行くんだ?」
通りに出ると、ぱっと両手を広げて、櫻子さんが笑った──ああそうだ。この人を連れて行くんだ。
僕は自分がこれから数時間、また彼女に振り回されなければならないんだということに改めて気付いて、あまりの
「ああもう、ツイてないなぁ……」
僕は腹の底から深い
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます