第壱骨 美しい人④

「やはりかぎがかかっているんだな」

 ギュッと手袋がきしみ、ガツッとドアが硬質な音を立てるのを改めて確認して、彼女は僕を見た。その横で好美さんがまた怪訝そうな顔をした。どうしてこの人が先陣を切っているんだって、そういう顔をしている。

「本当に連絡が全然取れないんですか?」

 慌てて雰囲気を変えようと、僕は好美さんに問うた。

「ええ──メールにも、電話にも出ないんです」

「普段は必ず出るのか?」

 すかさず、櫻子さんが口を挟んだ。

「そうですね、少なくとも婚約者の方とは、毎日それなりに連絡を取り合っています」

「それなり、とは?」

「普通に、ですよ。仕事が終わった、とか、夕飯は何を食べた、とか、そういう他愛のない話です」

「はははは!」

 突然櫻子さんが大きな声を上げて笑ったので、好美さんはぎょっとした様子で、説明を求めるように僕を見る。普通するでしょう?と言いたいんだろう。確かに携帯を持っていて、かつ恋人がいるなら、普通のことだと思う。

「櫻子さん」

 なのに櫻子さんが明らかに好美さんの言葉を馬鹿にして笑っているのは、僕にも、そして好美さん本人にだってわかった。僕が櫻子さんをたしなめるようにコートのそでを引くと、彼女は思い切り皮肉の形に顔を歪めた。

「それで、『雪こそば 春日消ゆらめ 心さへ消えせたれや言も通はぬ』とでもいうのか?」

「え?」

「それが普通だとはな。私が知らない間に、『平成』は『平安』に代わっていたようだ」

 くっくっくとのどの奥で笑いを転がしながら、櫻子さんがそう言った。好美さんは、いったい何を言っているのかわからないと、また助けを求めるような目で僕を見た。僕にも意味はわからないけれど、櫻子さんは好美さんを何か馬鹿にしたんだろう。まったく、櫻子さんときたらいつもこうだ……。

「……とにかく、鍵を開けましょう」

 これ以上櫻子さんがみんなの気分を害する前に、部屋を開けた方がいいと、僕は慌てて母さんから鍵を受け取った。

「もしかしたらちょっと一人で考え事をしたいとか、そういう事かもしれませんよ。よく聞くじゃないですか、マリッジブルーとか……」

「…………」

 水島さんから結婚が近いという話を聞かされていた僕は、すっかり表情の曇った好美さんにそう言ったけれど、彼女は返事をしてくれなかった。まるで姉のことならよく知っていると、そんな雰囲気だ。

 でも姉妹だってやっぱり別の生き物だ。僕は兄貴と仲がいいけど、僕にだって兄の知らない部分はあるし、きっと兄が知らない僕の一面だって存在する。櫻子さんではないけれど、身近な相手と連絡がつかないからと言って、必ずしもそれが事件や不幸につながるとは限らないんじゃないだろうか?

 そんな事を考えながら、僕は部屋の鍵を開けた。さすがに代わりにドアまで開けるのは……と思って、好美さんのために身体をどかせると、好美さんは深呼吸を一つして、ドアに手をかける。

 ガチャン。

 金属音が響くと共に、開いたドアがすぐに止まった。

「──あ」

「チェーンがかかってる……」

 櫻子さんがりようまゆを上げる。見合わせた好美さんと僕の顔から、見る見るうちに血の気が引いた。

「あら、困りましたね」

 母がのんびりとした口調で言った。どうやらチェーンがかかっているというのが、どんなことを意味しているか母さんはわかっていないらしい。

「……どうします? 開けた方がいいですか?」

 言ってから、我ながら間抜けな質問だと思った。

「……お願いします」

「ええ?……じゃあ、チェーンを切る事になるので、修理の分にお金を頂くことになるけれどいいかしら?」

 母さんがちょっと面倒くさそうに言ったので、僕は慌てて母さんの腕をつかんだ。

「何よ」

 不満げな母の腕を摑んだまま、階段を下りる。

「考えてみなよ! チェーンがかかってるって事は、中に人がいるって事だろ!」

「……あら嫌だ、大変!」

 やっとここで、母さんは事態の大きさに気がついたらしい。

 そうだ、チェーンがかかっているという事は、内側から鍵が閉められたという事だ。だから、中には必ず人がいる。もちろん水島さんとは限らないけれど、少なくとも部屋の中に動く人の気配は感じられなかった。母さんは慌てて車の後部座席に置いてある工具箱から、番線切りを出してきた。

「ちょっと……お前、頼むわよ……」

 工具を手渡しながら、母さんは心底困ったような、おびえたような、そんな調子で僕に言った。けして楽しい仕事ではないけれど、結局僕がやるしかないっていうのは、もうとっくにわかっている。

 階段を上がっていって、櫻子さんと好美さんの所に戻ると、ひどく動揺した様子で好美さんが震えていた。どうやら、また櫻子さんが彼女に何か余計な事を言ったみたいだ。二人きりにしない方が良かったかと、僕は好美さんに申し訳なくなった。

 でも今僕がやらなければならないのは、このチェーンの問題を片付けることだ。

「これで、切れると思います」

「お願いします」

 そう言って、番線切りを好美さんに見せると、彼女は僕に頭を下げてきた。今までされたお願いの中で、こんなに気の進まないお願いはないと思った。

 きゅっきゅ、とグリップを手慣らしするように数回握って、僕も深呼吸を一つ。なんだかとても緊張して、不安で、そして現実じゃないような、ドアノブがやけに遠く感じるような、そんな不思議な気持ちになった。だけどぼんやりしているわけにはいかない。警察に頼もうにも、今の状況じゃ来てくれるかどうかも不明だ。ここは僕が頑張るしかない。

「…………」

 ゆっくりとドアをギリギリまで開ける。やっぱり部屋の奥からなんの物音もしない事に、僕は無性に逃げ出したいような衝動に駆られながら、震える指先でチェーンの挟みやすい部分を選んだ。そしてそこをしっかり番線切りで挟んで、力を入れようとした時、不意に櫻子さんの体温を背中に感じた。

「さ、櫻子さん?」

「開けたら、私達が先に入るべきだ」

 こっそりと、櫻子さんが僕に耳打ちする。

「え?」

「匂いがする。後悔したくないのなら、私を先に行かせたまえ」

「匂いって……?」

 けれどその質問に答える前に、櫻子さんは僕から身体を離してしまった。

 そんな事を言われると、とても不安な気持ちになって、僕は思わず部屋の中から流れてくる空気に鼻をうごめかせたけれど、僕の鼻には、玄関に置かれた匂い消しの甘いラベンダーの香りばかりが、きつすぎるぐらいに感じられるだけだった。

「…………」

 でもこれ以上櫻子さんに振り回されてばかりいるわけにもいかない。僕は努めて今の作業に集中することにした。難しい作業ではないけれど、それなりに力が必要だ。気合いを入れ直すように深呼吸をして、僕はぎゅっとグリップを握った。

 背中に櫻子さんと好美さん、母さんの強い視線を重く感じながら、手に力を込める。チェーンは勿論硬くて、簡単には切れなかったけれど、僕はこう見えて意外に腕力があるのだ。歯を食いしばって、体重を乗せるように更に力を強めると、ガキッという確かなごたえと共に、チェーンが僕に屈した。間髪をれずに櫻子さんがドアを開け、中に入っていく。

「櫻子さん!」

 慌てて止めようとしたけれど、彼女は僕を無視してさっさと靴を脱いでいた。仕方ない──僕はためいきをかみ殺しながら、驚いている好美さんに向き直った。

「あの……もし差し支えなければ、僕が最初に入っても……?」

「…………」

「もし、何かあったら困りますし……あの、中の物を触ったりとかしませんから!」

 無茶な提案だと思ったけれど、意外にも好美さんはこっくりとうなずいた。

「お願いします」

「え?」

 そう言って、好美さんは、更にもう一度頷いた。頷いたと言うよりも、頭を下げたと言うべきかもしれない。

「でもあの……いいんですか?」

「大丈夫です、お願いします」

「でも……」

 僕は戸惑いを隠せなかった。けどすぐに彼女が色々なことをあきらめてしまったのだと悟った。その上で一番最初に家族の変わり果てた姿は見たくないと、そう思ったんだろう……。

「……大丈夫ですよ、きっと」

 僕の言葉に、途端にあふれそうになったえつをきゅっとみしめ、好美さんは真っ赤な顔でこくこくと二回頷いた。つまらない慰めを言ってしまったと、自分でも思った。でもそれは僕自身、そう信じたかったんだ。

「じゃあ……失礼して、入らせて頂きます」

 好美さんに一礼してから、僕は先に部屋にお邪魔した。ラベンダーの香りの中で靴を脱ぐ。櫻子さんは既に部屋の中に上がっていた。玄関はれいに片付けられていて、僕らの靴以外、出ている靴は一足も無かった。

「え……」

 でも僕は、櫻子さんの事よりもまず、部屋の様子に驚いた。半開きになったままの内ドアから、リビングが見えたからだ。

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