第壱骨 美しい人⑤
「酷い……なんだよ、これ」
思わず僕の口からうめき声が漏れる。カーテンこそしっかり閉じられていたものの、電気が
──荒らされている。
即座に僕は思った。勿論櫻子さんがやった訳ではない。そんな音はしなかったし、いくら散らかし上手な櫻子さんだって、こんな短時間では無理だ。だからきっと僕らが侵入する前から、この部屋は激しく荒らされていたんだと思う。
綺麗だったリビングは、その面影もないほどに、様々な物が散乱していた。割れたグラス、倒された観葉植物、破れた雑誌、倒れたテレビ、
僕は足下の物を踏まないように慎重に、既にリビングから姿を消していた櫻子さんを追った。物の散乱したリビングを渡るのは人の持ち物を盗み見るようで、そんな自分を悪趣味だと感じつつも、僕は散らかっているあれこれについ目を奪われた。「自家製ジャムの活用術!」と表紙に書かれた、今月号の料理雑誌。丁寧にデコレーションされたアルバム(後で知ったけれど、スクラップブッキングというらしい)。紅茶専門店のティーバッグ。通販した英国発祥の自然派
「櫻子さん、いくらなんでもまずいですよ……」
どうやら櫻子さんは寝室に向かったらしい。僕はカバーの半分
「どこにいるんですか?」
「少年、こっちだ」
頰が熱くなるのを感じつつ、僕が部屋を見回すと、奥から応えが返ってきたので、声のした方向に更に進む。やがて寝室のドアの隙間から、ちらちらと櫻子さんのジーンズに包まれたお
「部屋の物に触ったりしちゃ駄目ですよ」
半開きのドアに寄りかかるようにして、ベッドの前でしゃがみ込んでいる櫻子さんの後ろ姿に声をかけた。
「櫻子さん……」
「…………」
返事の代わりに彼女は革手袋を脱ぎ、代わりにいつも彼女がポケットに持ち歩いている、使い捨ての薄いビニール手袋をはめ、手首の所でパアン!と音を立てた。
「櫻子さ……ッ!?」
その仕草に、僕の身体が凍り付く。同時に見たくない光景が、僕の目に飛び込んできた。
「そんな……」
どうして? という言葉が、声にはならなかった。薄々覚悟をしてはいたものの、絶対あってはならない現実がそこにあったからだ。
「う……そ……だ……」
ずるずる、僕の
「入居者というのは、この女か?」
口元を押さえて、僕は何度も頷いた。櫻子さんの足下には、ベッドから上半身を投げ出す形で事切れた、水島さんの姿があった。
「まだ、そんなに臭っていない。この失禁した際のアンモニア臭もなければ、私も気がつかないところだった」
「な…………」
それは、本当に目を疑いたくなるような、そんな光景だった。苦しげに舌を突き出し、目をカッと見開き、
あの綺麗だった水島さんが。
ほっそりとして、滑らかに動いていたあの白い指先は、今では青黒く変色し、その苦しみを表すように
「ううう……」
悲しみと同時に、
何故だろうと、いつも思う。それが親しい人でも、
恐ろしくてよくは見られなかったし、彼女の最期の姿をはっきりは覚えていたくないと思った。だけど目を
「ふむ。押すと
「いえ……そういう訳じゃないと思います……」
「角膜に混濁が見られるが、思ったよりも乾いていない──が、ほう、
また櫻子さんが手袋をパアン、と鳴らした。多分手袋を脱いだんだろう。
「そうだな。硬直もまだ強いが、腹部の変色はまだだ。この所の気温から考えて、おそらく死後二十四時間以内だろう」
顔を上げると、櫻子さんが本当に
「姉さん!!」
不意に後ろから叫び声が上がった。
「ああ、なんてこと! 姉さん! ああ!」
忘れていた……。そうだ、好美さんがいたんだった……。
「そんな……姉さん!
僕らがいつまで経っても顔を見せないことを不審に思ったんだろう、部屋を見に来た好美さんが、水島さんに駆け寄ってベッドの前にしゃがみ込んだ。
「この部屋、
声を震わせながら、好美さんが水島さんの
「そんな……どうしたらいいの?」
好美さんが、水島さんのほつれて顔にかかった前髪を、優しい手つきで払いながら、涙声で
「警察を呼ぶべきだろうな」
「え……?」
「死体が転がってるんだ。警察の出番だろう」
「転がってるって……」
なんていう言い方をするのだろうと、好美さんの声に怒気が宿る。
「櫻子さん!」
頭にきたのは僕も同じだった。僕はとうとう我慢できずに、声を荒らげ、櫻子さんに怒鳴った。櫻子さんはちょっと驚いたように
「……あの、でも、僕もまず警察に連絡するべきだと思います。あと……水し──清美さんや部屋の中の物には、あまり触らない方がいいんじゃないかって……」
とはいえ、今この状況でやらなければいけないことは、やっぱり警察を呼ぶことだろう。そこで水島さんと言いかけて、好美さんも『水島さん』だという事に思い直し、僕は初めて水島さんの名前を口にした。
清く、美しい。
初めて聞いたとき、なんて彼女にピッタリだろうと思った、だのにこの素敵な名前を呼ぶのが、今この時だという事に、僕はまた泣きそうになった。
「……どういう意味ですか?」
「その……見たところ、部屋が荒らされているんじゃないかと思うんです。もしかしたら、ですけど、なんらかの犯罪に巻き込まれたんじゃ……」
「──姉さんが殺されたって言うの?」
「その可能性があるかもしれないと思うんです」
「そんな! どうして! 姉さんが!?」
犯罪に巻き込まれるような、そんな人間じゃない。好美さんがそう思うのは当然だと、僕も思った。だけど、世の中悪い人だけが犯罪に巻き込まれる訳じゃない。どんなに清廉な生き方をしている人でも、不条理に突然赤の他人に命を奪われるという悲しい現実は、今もきっと
「先生……?」
不意に玄関の方で、母と誰かが何かを話す声が聞こえた。誰だろうと思うよりも先に、好美さんがはっとしたように立ち上がった。
「好美君……いったい何が?」
そう言いながら、やっぱり荒れた部屋の様子に驚くような顔で、ワイシャツの上に好美さんと同じようなコートを羽織った男の人が、ガサガサと音を立てて部屋に入ってきた。
「先生! 姉さんが!」
彼がリビングの中程にさしかかった辺りで好美さんはその人の元へ駆け、その胸にしがみつくようにして大きな泣き声を上げた。今まで我慢していた物を吐き出すような、魂までも枯らしてしまうような、それは本当に痛ましい泣き声だった。
「……いったい、何があったんだ……」
「ああ、この人、水島さんの婚約者だって」
玄関でそう言って、決して部屋の中にまでは入ってこないつもりらしい母さんが、泣きじゃくる好美さんを見て全て察したように、渋い顔をした。彼女を可哀想だと思うのと同時に、これでこの部屋を貸し
「
「どうも……」
橋口と名乗った青年は、清美さんより少し年上といった感じで、清潔感漂う好青年といった
だけど今は婚約者である橋口さんがどんな人かという事よりも、また悲しい再会を目撃しなければならないことが嫌だった。だって僕自身、今にも心が爆発してしまいそうなのに、これ以上、彼女の大切な人達の悲しむ姿を見るのは耐えられない。
「それで……清美は?」
「そこに……」
僕は
「……そんな、清美!」
俯いたまま橋口さんとその後ろに付き従うような好美さんとすれ違い、僕はそのまま玄関の方に急いだ。
「なんて事だ! 清美! 清美!」
「姉さあああああん!」
背中に、二人の悲しい叫びがこだまして、とうとう僕は
「ううう……」
嗚咽を飲み込もうとすると、今度は吐き気が襲ってくる。僕は必死に口元を押さえ、体を縮めて泣き声と胃液の両方を必死でこらえた。そんな僕と二人を見た櫻子さんが、なんだか酷くつまらなそうに
「櫻子さん……」
また僕が彼女に不満をぶつけようと口を開くと、彼女はそこまで、という風に
「電話だ」
そしてその手を返し、そう言って僕にスマホを出すように促す。
「え?」
「通報するべきだ。あの調子ではいつまで経っても
「……そう、ですね」
確かに、そうかもしれない。二人は悲しみのまっただ中にいるし、母さんはただ玄関でオロオロしている。動ける僕らがどうにかしなきゃ──そう思って僕が警察に電話しようとすると、櫻子さんの白い指がひょい、と僕のスマホを奪った。
「あの……櫻子さん?」
手慣れた調子で画面を押して、しばらくしたあと彼女は電話の相手に「私だ」と名乗った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます