第壱骨 美しい人⑥

「少年の母親が経営しているアパートの一室で、入居者の遺体を見つけた。事件性は不明だが、おそらく死後一日以内だ。面倒だから君の方で手配してくれ。住所は──」

 ローテーブルの上に散乱した郵便物を、素早く横目で確認しながら、櫻子さんがよどみなくここのアパートの住所を告げる。その口調から、多分電話の相手はありわらさんなのだろうと思った。

 在原さんは櫻子さんの婚約者で、警察の公安に勤める青年だ。容姿端麗、頭脳めいせき、文武両道を地でいくようなすごい人なのに、櫻子さんには何故か頭が上がらない。櫻子さんとは少し年が離れているけれど、子供の頃からつきあいがあるという、所謂いわゆる幼なじみの関係らしい。

「連絡した。すぐに人が来るだろう」

 そう言って僕にスマホを放ってよこすと、彼女は急にしゃがみ込んで、ローテーブルの上に散らかった郵便物や、中身の散乱したかばんに手を伸ばした。

「櫻子さん! 触っちゃ駄目ですよ!」

「何故だ?」

「事件の可能性があります」

 慌てて制する僕を無視し、彼女は清美さんの鞄の中を確認した。

「事件だと? ドアにチェーンがかかっていたじゃないか」

「そうですけど……」

 癖なのか間隔と向きをご丁寧にも揃えて、櫻子さんが鞄の中身を全てテーブルに出して並べていく。携帯電話、キーホルダーのついたかぎ、ポーチ、ポーチ、ポーチ……大きさと種類の違うポーチが三つ、ポケットティッシュとタオル地のハンカチ、ボールペン。

「ふむ」

 鞄の中には、どうやらお財布が残っていたらしい。彼女は無造作に開けて、その中にお金が入っていることを確認し、また閉めて、列に加えた。

「……泥棒では、無いんですかね」

「そうだな。だが調べた所、どの部屋も窓は全てしっかり施錠されていたぞ」

 カード類も揃っているようだし、少なくとも金銭が目的の事件じゃないのだと、僕はお腹の底が冷えるような、そんな悪寒を感じた。えんこんか……もしくは、暴行目的の犯行なのか? 荒れた部屋が彼女の抵抗の跡をはっきりと表していた。そして、き出しになった乳房──。

「う……ぐぅ……ッ」

 苦しんだ上に殺された彼女が、その瞬間いったいどんな目に遭っていたのか想像し、とうとう我慢できなくなって、僕はたまらず近くにひっくり返っていたゴミ箱の中におうした。未消化のおにぎりが僕ののどを荒々しく通り抜けていく。

 櫻子さんは何も言わずに、僕の鞄の中から飲みかけのお茶を見つけ、差し出してくれた。受け取ってうがいをしてから二口ほどお茶を飲むと、かすかに喉が痛んだものの、吐き気はどうにか治まった。そのまま僕はペットボトルをひざに置き、それを抱きしめるように自分で自分の体を両腕で包み込んだ。コートのそでを、破れるんじゃないかと思うぐらい強く、強く、握りしめながら。

「いったい、誰がこんな事を……」

「誰が、とは?」

 僕がつぶやくと、櫻子さんは不思議そうにまばたきを一つした。むしろそんな彼女の態度が、僕には不思議だ。

「……なんですか?」

「だから全ての部屋の窓が施錠されていたと、今私は言ったじゃないか。つまりここは密室だ」

「……え?」

 どきん、と、痛いぐらい僕の心臓が鳴った。

「寝室も手洗い場も、リビングも全て窓に鍵がかかっているし、部屋のドアも中からしっかり閉じられていた。それでは君は、まさかこれが密室殺人だとでも言うのかね?」

「密室……?」

 ぼうぜんとする僕を横目に、櫻子さんは鞄の中身を丁寧に清美さんの鞄の中にしまい直し、最後にポトン、とキーホルダーを中に落とす。

 そうだ、ここは密室だったんだ。玄関には内側から鍵がかけられていたし、リビングの窓も同じだ。櫻子さんが全部というからには、多分他の部屋もそうだったんだろう。

「そんな……」

 ミステリー小説のような状況に、僕ががくぜんとしていると、遠くサイレンの音が聞こえ始めた。

「さすが、早いな」

「そりゃ、在原さん、公安の人なんでしょう? なろうと思って簡単になれるもんじゃないのでは?」

なおの父親は、もともと公安の上にいた男だ。実際は本人の実力と言うよりも七光りのようなものだろう。それに本人いわく、出世の道というなら警務部や警備部よりはずっと下らしいぞ。まぁあの通り、さんくさい人間の就く仕事なんだろうな」

 言いながら櫻子さんは立ち上がり、僕にハンカチを差し出してから玄関に向かう。気がつくと、僕は涙だけでは無く、情けないことに少し鼻水を垂らしていた。慌てて受け取って顔に押しつけると、甘い柔軟剤の香りの向こうに、櫻子さんのお屋敷の落ち着くような匂いがした。

「私達はもう行こう。警察の相手をするのは面倒で嫌いだ」

「そうですね……変に動いて在原さんに迷惑がかかってもいけませんし……」

 櫻子さんが靴を履きながらそう言ったので、ハンカチのお陰で少しだけ気持ちが落ち着いた僕は、彼女の言うとおり急いで玄関に向かった。部屋を出る前、一度清美さんが倒れている寝室を振り返ったけれど、荒れたリビングと開いたままのドアが邪魔をして、その姿は見られなかった。何故だろう、その事に、なんだか僕はほっとした。

「ちょっと──」

 母さんが声をかけてきたけれど、「あとはよろしく」とそう告げて、早足で階段を下り、先に行く櫻子さんを追いかける。結局僕らがみんなやったんだから、後の苦労を母に代わってもらっても、罰は当たらないはずだ。

「……どっちにしろ、そんな風に便利使いしちゃ駄目ですよ、婚約者だからって」

「婚約者ではない、ただの許嫁いいなずけだ。薄気味悪い事ばかりやっているような男だ、便利に使って何が悪い」

「何を言ってるんですか。外事第三課って、国際テロリストと戦う課ですよ」

「詳しいじゃないか」

「この前 wiki で調べました」

「まぁ、あれの父親同様、やっている事は極左相手の赤狩りだよ」

 そんな話をしながら、僕らは階段を下り、アパート前の通りに出た。清美さんの話題から少し離れることで、僕は今見た事を忘れようとしたけれど、やっぱり無理だった。深呼吸を一つすると、またぐっと涙がこみ上げてくる。

「それで……どこに行くんですか?」

「このままいたら、色々と質問されて面倒なことになるだろう?」

「そうですけど……じゃあ僕の家でお茶でも飲みますか?」

「いや、結構だ。……丁度いい、寒いからそこの喫茶店に入ろう」

 そう言って彼女はアパートの前のカフェを指さした。成る程、そこなら現場の状況がうかがえる。なんだかんだ言って、彼女も事件のことが気になっているらしい。近づいてくるパトカーの赤い回転灯の光から逃げるように、僕らは早足で喫茶店に飛び込んだ。

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