第壱骨 美しい人⑦

    ■参


 アパート近くの喫茶店の中は、いかにも定年後に自宅を改造して喫茶店にしましたという体の、一般住宅風のもっさりとした外装に反さない様相を呈していた。生活感こそないものの、いままではリビングでしたという雰囲気の店内は、お店に来たというよりも、友達の家に来たような気分にさせる。

「まぁ……ある意味落ち着くといえなくもないか……」

 ガランガランとやけに騒々しい音を立てるドアベルに軽く驚きながら、思わず僕は独りごちた。店主の奥さんの趣味はきっとパッチワークなんだろう。壁やテーブル、至る所に彩りの布が飾られている。調度品はどれも手作り風の木製で、様々な観葉植物が彩りを添えていた。そこで僕は、不意に清美さんも植物が大好きだったことを思い出して、また泣きそうになった。

「お寒いですねぇ、どうぞお好きな席に」

 そう言って人好きのする笑顔を浮かべた白髪の老マスターが、店内を手で指し示したので、僕らは迷わず窓際の席を選んだ。席について、テーブル脇の手書きの達筆すぎて逆に少し読みにくいメニューを手に取ると、丁度パトカーがアパートの前で止まる所だった。

「…………」

 僕らは一般人とはいえ、在原さんにお願いすれば、ある程度の捜査状況は聞けるかもしれない。それでも可能な限り自分の目で情報は仕入れたい。警察と話すのは面倒だとはいえ、やっぱりその場で警察の捜査を見ておくべきだったかと、僕は急に後悔した……けれど、まぁ調べている所なんて、警察は見せちゃくれないか。

「ホットチョコレートを二つ」

「え?」

 そんな事を考えていると、唐突に櫻子さんが言ったので、僕は顔を上げた。

「ホットチョコレートですね、すぐにお持ちしますよ」

 でもそれは、どうやら僕に向けられた言葉ではなかったらしい。オーダーを取っていたマスターが「お二つですね」と、僕に笑顔を向けて席を離れた。

「えええ……ホットチョコレートぉ?」

「なんだ?」

 なんで勝手に僕の分まで頼んじゃうんですか、櫻子さん。しかもホットチョコレートって……そう思ったけれど、僕は不満の言葉を飲み込んだ。

「……別に……でも僕は、普通に珈琲コーヒーとかでもいいって思っただけです」

 思わずふくれっ面になりながら僕が答えると、櫻子さんもムッとしたように頰を膨らませる。

「私はあまり珈琲が好きではない。大体あの臭い、不快では無いのか? あれの臭いにはメチルメルカプタンだって含まれているんだ。君の嫌いな死体の臭いだぞ?」

「だからって、別に二人とも同じ物を飲まなくったって」

 死体と同じ臭い……そう言われると、確かになんだかショックだ。でも成分の一つだというだけだし、飲み物は他にも色々あったはずだ。何も別に僕まで同じホットチョコレートじゃなくてもいい。そう反論すると、何を言う、と言わんばかりに彼女が僕にメニューを突きつけてきた。

「見たまえ、写真にマシュマロが載っている」

「はぁ?」

「ばあやに何度も抗議したことがある、ホットチョコレートには、マシュマロを載せてくれとな」

 マシュマロぐらいなんだっていうんだろう? お嬢様なんだから、マシュマロなんていくらでも買えるだろうに。そんなのスーパーなら百円ぐらいで売ってるだろうし、高級マシュマロというのがあるとしても、せいぜい千円とかその程度じゃないだろうか?

 そんな僕の疑問は、口にしないでも櫻子さんに十分伝わったらしい。

「子供の頃、アメリカのホストファミリーの家で出されたホットチョコレートが、マシュマロ入りだったんだ。浮かべられたマシュマロが舌にとろけて、本当に美味おいしかったのに、ばあやと来たら、そんなの甘すぎて駄目だと言って許してくれないんだ。どんなに頼んでも、薄いココアしか作って貰えない」

「それはわかりましたけど……いや、だから、どうして僕まで?」

「美味しいはずだ。だから君も飲むといい」

「…………」

 これ以上の反論は意味がない……そうあきらめて、僕はためいきらした。大変押しつけがましい話だけれど、櫻子さんとしてはこれはあくまで好意であり、僕に美味しい物を飲ませてあげようという、彼女なりの優しさなんだろう。仕方ない。ここは僕が大人になろう──そう思い、僕は気を静めることにした。どうせ櫻子さんのおごりなんだし、何かを損する訳でも無いんだ。

 気を取り直すように深呼吸をして、僕は外を見た。アパートの階段の下で、警察に囲まれた母が何か一生懸命話をしているようだった。

「六人か。随分気合いを入れて人をよこしたものだな」

 櫻子さんが驚いたように言った。警察はそのまま二人が母の元に残り、四人が階段を上がっていく。

「何かあったんでしょうかね?」

 先に水を持ってきてくれたマスターが、けんしわを寄せながら僕らに言った。

「何でしょうね……泥棒とか……まぁ、物騒な世の中ですからね」

 ご丁寧にもやっぱりパッチワーク生地で作られているコースターを見ながら、僕はあいまいに言葉を濁す。

「そうですねえ。特にここ最近、この近所で、何度か変質者騒ぎがあってね。この寒い時期に、コートの中に何も着てない男が現れるって言うんですよ。孫の通ってる小学校でも随分問題になっていて、PTAで道路の巡回する事になったって、娘がボヤいていてね」

「はぁ……」

「そりゃね、何かあったら困るから仕方ないんだけども、夕方なんかじゃ買い物や食事の支度もあるしね、それに今時期じゃ外を歩き回るのは寒いし、不便でおつくうだって話していてねえ。それでこの前なんて、下の孫が熱を出したもんだから、身動きとれないってんでウチのばあさんまで駆り出されてね。やれコワイ話だって言ってたもんですよ」

 マスターの言う『コワイ』が、『怖い』なのか、それとも北海道弁の『疲れる、しんどい』という意味なのか、僕には区別が付かなかったけれど、結局どれも当てはまるので深くは考えないことにした。話し相手が欲しかったのか、そのまましばらくマスターは一人で熱心に話をしていたけれど、僕の耳には入らなかった。そんなことよりも、僕はその『変質者』という存在に、ずいぶんと心を乱されていたからだ。

 その変態男が清美さんを襲ったんだろうか? そんな危険な人がこのかいわいに出没していたことを、僕は全然知らなかった。警察は何をしているんだろう? どうして誰も止められなかったんだろうか……。

 僕もそんな調子で黙りこくっていたし、櫻子さんもグラスに唇をつけたまま、やっぱりマスターの話を盛大に聞き流していたので、結局彼は「そろそろお湯が沸いたかな?」とか言いながら、気まずそうに僕らの席を離れていった。マスターには申し訳ないけれど、これ以上彼の話に付き合うのは気が重かったので、ほっとした。

 けれど明滅するパトカーの回転灯の光が、僕の心をさかでる。目を閉じると、また清美さんの悲しい姿が脳裏をぎった。そのもんの表情に軽い吐き気を覚えるのと共に、彼女が『どうして私を助けてくれなかったの?』と、僕を糾弾しているような、そんないたたまれない気持ちになる。

「お待たせしました」

 ややあって、マスターがホットチョコレートを二つ、運んできてくれた。少しいびつな素焼きのマグカップには、ご丁寧にもホットチョコレートがなみなみと注がれ、マシュマロが二つも載せられている。

「お好みでどうぞ。シナモンが定番ですが、クローブやさんしよう、チリペッパーを振っても美味しいですよ」

 と、ホイップクリームの入った小鉢と、スパイスが数本入った小さなとうかごを置いていくと、今度はすぐにマスターは席から離れた。けれど一瞬振り向いて見せたその表情は、僕らが何者なのかと怪しんでいるようだった。確かに僕と櫻子さんの組み合わせは異色だろう。親子と呼ぶには年が近いし、恋人と考えるには少し年が離れている。それに、櫻子さんは僕なんかじゃ不釣り合いなぐらい美人だ。

「ふむ、いい香りだ」

 大人しくさえしていてくれれば、一緒に歩くのはちょっと誇らしいんだけどな……と思いながら櫻子さんを見ると、彼女はチョコレートを一口飲んでみてから、ホイップクリームを三さじ、もう一口飲んで更に二匙カップにとろりと落とした。

「そんなに入れて大丈夫ですか?」

 いくらなんでも甘すぎるんじゃ? と思いながら僕もチョコを飲んでみると、それはとても温かくて濃厚だったけれど、甘さはごく控えめで、マシュマロの甘さも気にならないぐらいだった。多分スパイスにも合わせられるような大人の味なんだろう。僕は気配りこそ大人の域ではあるものの、しよせんはまだまだ未成年の子供舌なので、クリームを二匙だけ足した。それでも甘みは少し足りない気がしたけれど、乳脂肪分特有の滑らかさが十分に心地いので、このまま飲むことにした。

 スパイスには手をつけなかった。僕はあまり冒険をする性格ではないし、そんなに積極的に飲み食いしたい気分でも無かったからだ。櫻子さんもスパイスは使わないらしい。二人で黙ったまま、しばらくホットチョコレートを飲んだ。僕はほとんど飲むフリだったけれど、会話はしたくなかったので、カップから顔を上げなかった。そのまま盗むように壁の時計を見ると、いつの間にかもう午後三時を過ぎている。

「……今日は」

「うん?」

「今日は、一緒に来てくれて、ありがとうございました」

 このまま黙ってても良かっただろうけれど、なんとなくマスターが僕らをうかがっているような気がして、僕はわざと明るい調子で櫻子さんに言った。

「別に君に礼を言われる筋合いはない」

 櫻子さんは急に僕が話し始めたことに不快そうに、げんそうに顔をしかめたけれど、僕はそのまま話を続けた。

「そうですね、でも、櫻子さんがいなかったら、僕はきっと取り乱していたでしょう」

 だってそれは本当のことだ。きっと一人だったら、こんな風に落ち着いて話なんて出来ていないはずだ。彼女の存在は、いつも僕にとって大きい──よくも、悪くも。

「……それとも恨むべきなのかな」

 僕は思わず、テーブルに突っ伏した。

「なに?」

「櫻子さんと一緒にいると、死体にばかり行き当たります」

 感謝しているのと同時に、こんなにも僕が憎いと思う人は他にいるだろうか。

「はははは!」

「……可笑おかしいですか?」

 突然笑い声が上がったので、僕は顔を起こした。

「そうだな。昔、君と同じ事を言った女性がいたのを思いだしただけだ」

「同じ事?」

「私の母親だよ。生物学上の」

 そう言って、櫻子さんが一口チョコレートを飲んだ。

「……ごめんなさい、悪気はなかったんです」

 そこで僕は、言ってはならないことを口にしたのだと気がついた。

「いや、構わない──多分、本当のことだ」

「でも……」

「いいんだよ。その通りだ。私の足下には、いつだって死体が転がっているんだよ」

「櫻子さん…………」

 詳しいことはよく知らない。だけど一つだけ確かなのは、櫻子さんにとっての唯一の禁忌は、『生物学上の母』という存在なのだ。つまらない事を言ってしまったと後悔した僕は、まだほとんど減っていないホットチョコレートを、無言でず……と彼女の前に押し出した。そんな僕を見て、櫻子さんはにっこりと笑った。嫌な事ばっかりなのに、この人の事をどうしても大嫌いになれない一番の理由は、きっとこの笑顔だろう。櫻子さんはけして人付き合いは良くないし、むしろ感じの悪い人だけど、悔しい事に笑顔だけはとびっきり可愛いんだ。

「……だからって、いつでも使い捨てのゴム手袋を持ち歩くのは止めてくださいよ」

 うれしそうに僕の差し出したホットチョコレートに、ホイップクリームを追加している櫻子さんを見ながら、僕はせめてもの反撃という風に、そう毒づいた。

「何故だ。便利ではないか。ニトリル製なので少し値は張るが、ラテックスよりも油分や薬品に強いので、死体を触る時以外にも使える」

 またねたように彼女は唇をとがらせ、僕をにらむ。

「それに、私だって別に人間の死体と出会う為にこれを持ち歩いているのではない。骨というものは、非常に身近に私達の周囲にあふれているものなんだ。私は骨が好きだ。だが生き物の命を奪うのは好きではない。だからこうして、動物の骨やなきがらを外で拾い集めているんだ」

「そういうの、ばあやさんに怒られないんですか?」

「今更だ。私が一番最初に道路で死んでいたイタチを拾ってきたのは、十歳かそこらの頃だからな」

「十歳……」

 そんなに幼い頃からなら、ばあやさんは本当に苦労したんだろうなぁ……と、僕は音も立てずにきびきびとよく動く、ばあやさんの俊敏で小柄な身体を思い浮かべた。「お嬢様のお陰で、ばあやは随分しぼんでしまいましたよ」とよく笑っているけれど、きっと本当は笑い事じゃ済まないぐらい大変だったんだろう。

 僕にとって、櫻子さんは類を見ない変人である事以上に、尊敬する天才だ……悔しいことに。櫻子さんの頭の中には、普通の人と違う時間が流れているし、彼女の目には普通の人には見えない何かが映っていると、いつも感じる。人はそれを天才と呼ぶのかも知れないし、変人と呼ぶのかも知れない。でもその境目は、きっとごくあいまいだと思う。そして僕のような凡人は、関わる事でとにかく常に疲弊を強いられ、焦燥感を覚え、憎み、驚き──時に、心酔せずにはいられない。まるで麻薬のように。

 遠く救急車のサイレンが近づいてきたので耳を傾けていると、案の定それはアパートの前で止まった。よくせいの余地の無い遺体は運んでくれないなんて聞くけれど、櫻子さんのお話だと、今回の様な場合は医師の死亡診断が無いと遺体を動かせないので、大体は一度は運ばれていくんだそうだ。

 恐らくは警察が手配したであろう救急車から、救命士が数名下りてストレッチャーを下ろすのが見えた。警察の人とやり取りをした後、彼らは二階へ上がっていった。もっと時間がかかると思ったけれど、彼らは速やかに清美さんの遺体をビニールシートにくるみ、部屋から運び出した。好美さんが清美さんにしがみつくようにして泣いている。その後ろで、婚約者の橋口さんが警察と何か話していた。やがて走り出した救急車は、サイレンを鳴らしていなかった──確かに清美さんにとって、もう急ぐ必要はないんだ。

 救急車が走り去ると、好美さんは母さんに慰められるようにしてアパートに戻って行った、けれど橋口さんだけはそのまま動かなかった。雪がちらほらと降り始めているのに、彼はしばらく救急車が走っていった方向を、ただ、ただ、ずっと見つめていた。

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