第壱骨 美しい人⑧

 愛する婚約者を失う悲しみというのは、いったいどれだけ重いんだろう。僕には想像すらつかない深い悲しみを、一人抱えて立ちつくす彼を見ているのがつらくて、僕は視線を店内へと移した。マスターはどうやらずっと僕らの方を見ていたらしく、僕と目が合うと、慌てて新聞に顔を隠した。

「──れいな人でした」

「うん?」

「部屋を借りていた女性です」

 ホットチョコレートを満喫していた櫻子さんが、何の話だ? と不思議そうな顔で僕を見た。

「夏にね、僕はよく草刈りのバイトをするんですよ。母の経営するアパートの庭なんかの草むしりをして、母から小遣いをせびるんです」

「それはなかなかの肉体労働だな」

「まぁ、確かに時給で考えたら安いんですけどね。でもちょっとしたお小遣い稼ぎには丁度良いんで。特にそこのアパート、隣の敷地からよく種が入ってくるのか、すぐに雑草が茂っちゃうんですよ。駐車場とか、玄関前の石畳の隙間とか、アスファルトなんか平気で突き破って、タンポポとかが生えて来ちゃうんで、僕は暖かくなるとよくココに来るんです」

 僕は今は雪に覆われた隣の敷地を指さした。そこは建築会社の敷地で、汚れた油圧ショベルとプレハブ小屋が雪をかぶっている。

「清美さんとは時々顔を合わせました……特に夏場草むしりしていると、熱射病に気をつけてって冷たい飲み物を差し入れてくれたり、今日は時間があるからって、手伝ってくれたりしたんですよ」

 そこまで言って、僕は『今日は本当に暑いわね』と目深に被った帽子の下で、まぶしそうに目を細める清美さんの姿を思い出した。

「妹の好美さんとはタイプの違う、せいって言うか……悪く言えば地味な人だったかも知れません」

 薄化粧にきっちりとまとめられたお団子髪。シンプルなスーツ。細い指先は目立たない色のマニキュアで肌色に染められていた。

『私、指があんまり長い方じゃないの。こうして肌色にすると、少しは指が長く見えるでしょ?』

 そう恥ずかしそうに彼女が笑っていたことをふいに思い出して、僕はなんとなく櫻子さんの手を見た。櫻子さんの手は大きくて、指も長い。爪は綺麗に磨かれてはいるけれど、何にも染められていない健康的な桜色をしている。

「別に身なりに気を遣わないとか、そういう人じゃなかったんです。でも控えめって言うか、自然っていうか、ひっそりと美しいっていうか……」

「成る程、そういう事か」

「何がですか?」

「つまりは君の自慰の際の妄想に一役買っていた女だと言う訳だな」

「な……っ! 櫻子さん!」

「気にするな、健康な証拠だ。高校生の九十七%が自慰行為をたしなむという、本当か噓かわからない統計を目にしたことがあるが、そこまで極端な数字ではないにせよ、それだけ当たり前だと言うことだろう。特に君のような少年が、若い女のカントに射精したいという欲求は、むしろ生物としてはごく正しい」

 聞き慣れた響きではないにせよ、英語ではっきりと女性器を表す単語を口にする櫻子さんに、僕は激しく赤面した。なにより、その露骨な物言いに。

 彼女はいつもこんな事を平気で言う。彼女にしてみれば、口にするのをはばかられるような身体の部位ですら、ただの臓器、ただのパーツに過ぎないと言うことらしい。常人並のしゆうしんすら、彼女には皆無だ。でも、それを聞かされる僕はたまったもんじゃない。

 そして、それ以上に、清美さんの事をそんな風にぼうとくして欲しくなかった。

「やめてくださいよ!」

 なのに櫻子さんは、相変わらず僕の制止なんて聞きやしない。

「それに適度な射精はぜんりつせん癌を防ぐ効果があるという論文を読んだことがある。週五回射精すると、前立腺癌の発症率を三分の一に抑えることが出来たそうだ。身体に悪いという説もあるが、別にニーチェのように自慰中毒という訳でないならば、気にすることは無いだろう。大いにやりたまえ」

「やりたまえって……」

 頭痛がした。

「だから……そういう意味じゃないです。そりゃ確かに彼女に好意みたいなものはありましたけど、そういう事じゃないんですよ。あこがれっていうか……それに……お願いだからもう少し、亡くなった人に敬意を払ってくださいって言いたいんですよ! 僕は!」

「生きていようと、死んでいようと、人間は人間だ。知りもしない相手に敬意など払えるか」

 きっぱりと櫻子さんが言った。断言されると、一瞬「道理だ」と思ってしまいそうになるけれど、でも人間って、常にお互いに尊敬し合うべきじゃないんだろうか?

「とにかく! 僕は彼女が好きだったんですよ! 恋とかそういうんじゃなくて、人間的に尊敬してるとか、そういう『好き』なんです! だからそんな風に変な言い方はしないで下さい!」

 思わず席を立ち上がって声を荒らげると、櫻子さんが急に神妙な面持ちで、僕の頰に指を伸ばしたので、僕はひどろうばいした。

「落ち着きたまえ……私は別に君を辱めようと思った訳ではない」

 気がついたら、僕の頰には涙が伝っていた。知り合いが亡くなると悲しいという、この極めて単純で普通の感情が、櫻子さんには理解できなかったのだろうか? 櫻子さんはそこで初めて僕が心を痛めていた事に気がついたように、なんだか申し訳なさそうな顔をして、小さな声で「すまなかった」と言った。

「……こんな事になるなんて……本当にショックです……清美さんが死んだなんて、やっぱり信じられない……」

 どさっと椅子に崩れるように腰を落とすと、テーブルの上のスパイス達が、まるで一斉にためいきをついたように、カチャカチャと小さな音を立てた。

「だが事実だ。彼女はあの通り、自分の部屋で死体になった」

「本当に……密室なんでしょうか」

「そうだろう? かぎは全て中から閉じられていたではないか」

「部屋が……ぐちゃぐちゃでした」

「掃除の下手な女らしいな」

「違いますよ、前に一度お邪魔した時は綺麗でした。ハーブティーを頂いたんですが、掃除が行き届いた気持ちのいいお部屋でした」

 丁度ここの喫茶店のような、白と、緑と、茶色を基調にしたナチュラルトーンの部屋を思い出す。草むしりをしたばかりで、外からは少し湿った土の匂いがする中、エアコンより身体にいいと清美さんは窓を開けた。カーテンはオレンジと緑と黄色のレトロポップな花柄で、その奥の白いレースのカーテンを整えながら『のどが渇いたよね?』と清美さんは優しく微笑んだ。

 冷蔵庫からだしてきたガラスの作り置き用のティーポット。ビタミンカラーのドット柄のグラスに注がれたのは、冷たいミントティー。『さっぱりすると思うよ。自家製なの』と清美さんは僕のグラスにたっぷりと注いでくれたっけ。確か今年はプランターのミントが、例年になくわんさかと沢山採れたんだそうだ。初めて作ったけれど、思った以上に美味おいしくて良かった、と彼女は言った。

 僕はと言えば、確かに暑い身体にすーっと染み渡るようで気持ちは良かったけれど、味は正直全然美味しいとは思えなくて、これは喉が渇いていなければ飲めないな、なんて事を考えていた。だけどそれでも、優しく笑う清美さんが眩しいぐらいに綺麗で、こんな風にお茶をごそうしてもらえたことがうれしくて、僕は無理してごくごくとそのお茶を飲んだ。確か、「本当に美味しいです」とか、「身体に良さそうでいいですね」とか、そんな事も言ったと思う。また清美さんが嬉しそうに笑って、おかわりを注いでくれた──真夏の、なんにもない午後の話だ。穏やかな、ささやかな、夏の一コマ。

 僕は清美さんとごく親しいわけではないし、彼女と僕の人生が重なることはそう多くなかったと思う。きっと彼女が結婚してこの部屋を出れば、それきり会うことは無かっただろう。

 でもそれでいいと思った。結婚すると聞いて、心の何処どこかで小さなしつを感じたのは噓じゃない。だけどそれ以上に彼女には幸せになって欲しいと思った。いや、この人なら幸せになれるだろうと、そう思ったんだ。こんな風に優しく笑う人が、肌色の爪をして、お客に自家製ミントティーを振る舞ってくれる素敵な人が、だんさんに大事にされないはずはない。きっと良い奥さん、良いお母さんになれるだろうって、あの時はそう確信出来たから、僕は素直に「おめでとうございます」と言えたんだ。

 だから彼女の人生がこんな結末であってはならない。

「清美さんは、こんな風に命を絶たれていいような、そういう人では絶対にないんです」

 だからこれは、彼女に非があるような事件ではない、けっして。僕にだってそれは絶対に断言できる。

「あの荒れた部屋……争った跡、なんじゃないでしょうか。マスターが言っていた、変質者が気になりませんか?」

「ほう? では君はこの事件が、本当に密室殺人だといいたいのかね?」

 櫻子さんがかたまゆを上げて、驚いたような声を出した。僕はと言えば、彼女がそんな驚くのが理解できないぐらいだ。

「……櫻子さんは、思わないんですか?」

 じゃあ、いったいなんだって言うんだろう? 彼女が病死したとでもいいたいんだろうか? 僕がげんそうに眉を寄せると、櫻子さんはハ!と笑い飛ばすように息を吐いた。

「一つ断言してあげよう。『トリック』なんてものは、空想上のお話だ──君は本当に愚かだな」

「な……っ」

 そりゃあ、僕は賢い訳じゃない。櫻子さんと一緒にいると、特にその事を思い知らされる。だけどこの状況で、こんな風に言われる訳がわからなかった。

「じゃあ、櫻子さんはどうだって思うんですか!?」

「そもそもだ。君は人を殺すとき、大部分の人間はまず何を考えると思うんだ?」

「それは……バレない方法でしょうか?」

 櫻子さんがチッチッチと舌を三回鳴らした──NOという意味だ。

「いいや、相手を確実に殺すことだ」

 そう言って、彼女はお屋敷でいつもの安楽椅子に腰掛けるみたいに、椅子に深く腰掛けて背もたれに身体を預け、ひざを組んだ。

「人を殺したい人間は、とにかく相手が殺したくて仕方ないんだ。間違いなくこの世から相手を消し去ることを一番に考える──その後の事は二の次だ」

 すっと櫻子さんの手が音も無くテーブルの上のスプーンを取り上げる。

「わかるか? 殺そうと思えば、スプーンでだって人は殺せるんだよ。つまり、人を殺すのは方法ではなく『気持ち』であり、『衝動』だ。殺人を犯す人間の大概は、相手を殺したくて、殺したくてたまらないから殺すんだ。それは非常に切迫した状況だろうね。理性があるならば、殺しなんて愚かな行動に出はしない。人を破滅させる方法なんて、殺し以外にもいくらでもある」

 そう言って彼女がスプーンを掲げた。丸い銀色のさじが外にまったパトカーのランプを映して、まがまがしく輝くのが恐ろしくて、僕はごくり、とえきえんする。

「つまり殺したいという『病』に犯され、とらわれ、駆られるからこそ、人は殺人を犯す。もちろん周到に準備をする人間もいるだろうな。だがね、『殺したい』人間は、トリックなんて不確かな方法に依存せずに、もっと確実で単純で、強引な方法を使うものだ。いいかい? 殺すからには、殺せなければ意味がないんだよ。つまり技術を楽しむような、ミステリィを模したような奇っ怪な話はそうそうあり得ないと言うことだ。ギャンブルのような確率に依存して人は殺さないのさ」

「……じゃあ、櫻子さんは、あの場所で何が起きたと考えるんですか?」

「知るものか、君はまた私に探偵ごっこをさせたいのかね?」

「僕が愚かだと言うなら、貴方あなたが賢いという所を、証明して欲しいだけですよ」

「成る程、それは道理だ」

 そう言って、櫻子さんが突然席を立った。

「出よう」

「え?」

 慌ててそれに倣いながらも困惑していると、彼女はあごをしゃくって外を指した。見れば警察はパトカーに乗り込み、アパートを離れようとしている。

 それを見て僕は慌ててコートを羽織ったけれど、櫻子さんは悠然とレジに向かった。

「千百六十円になります」

 同じく慌てて新聞を畳み、レジに立ったマスターが言うと、櫻子さんはお金を払いながら「非常に美味しいホットチョコレートだった」とマスターに微笑んだ。美人な櫻子さんがそう言ったので、マスターが嬉しそうに顔を赤らめた。

「フランスのとベルギーのクーベルチュールチョコレートを、自宅でブレンドしてるんですよ。あの味を出すには、カカオの含有量にちょっとこだわりがありましてね。あとは牛乳もチョコレートも直接火にかけずにせんで温めることで香りが……」

 よっぽど話がしたかったのか、それとも自家製ホットチョコレートを褒められたのが嬉しかったのか、またとうのようにマスターが話し始めたけれど、櫻子さんはそれには取り合わなかった。

「そうなんですか、どうりで美味しかったです」

 さっさと店を出て行く櫻子さんの背中を追いかけて、僕が申し訳なさそうに言うと、マスターはまたガッカリしたような顔をした。

「どうぞ! 是非またいらしてください!」

 それでもドアを閉める寸前まで、めげずにマスターがそう言ったので、僕はガラス越しに会釈を返した。でも多分またの機会は無いだろう。どんなに美味しくてもこの店に通うのは面倒そうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る