第壱骨 美しい人⑨

    ■肆


 通りに出ると、丁度橋口さんと好美さんが二人で歩き始めていた。話の内容までは聞こえないけれど、好美さんはかなり取り乱した様子で、何処かに電話をかけながら歩いている。その数歩先を、橋口さんはうつむいて歩いていた。

「行こう」

 そう言って、櫻子さんが車道を挟んで二人と並行して歩きだす。好美さん達は、僕らのことに気がついていないようだった。やがて電話を終えた好美さんが、橋口さんに駆け寄ったけれど、橋口さんは無視するように顔を上げなかった。

「──!」

 好美さんが、橋口さんの前に回り込み、何か叫んだ。

 丁度車が横を通ったので聞こえない。だけど一生懸命何かを訴えるような、そんな切迫した表情だった。だけど橋口さんは取り合わない調子で、俯いたままだ。好美さんはお姉さんを失ったばかりの人なんだから、もう少し優しくしてあげてもいいだろうと、僕は少し橋口さんに不快感を覚えた。

 けれどすぐに、さっき雪の中、走り去る救急車をいつまでも見つめていた彼の姿を思い出し、彼の事を悪く思った自分を恥じた。橋口さんも大切な婚約者を失ったばかりの人なんだ。たとえ義理の妹になる筈だった人だとしても、思いやってあげる余裕が無いのは仕方ない。

 亡くなった清美さんだけでなく、彼らもまた一つの『人生』を失った人たちなんだと、改めて思い知らされて、これ以上彼らを見ているのがつらくなった。

「櫻子さん──」

 いったいいつまでこうしていなければならないんですか? と、そう問おうとして、櫻子さんの方を見ると、驚いたことに彼女は手を挙げて、丁度タクシーを止めるところだった。

「櫻子さん?」

「用件は済んだ。次の場所へ行こう」

「はい? 用件って……あの!」

 そう言って、停止したタクシーに彼女が身を滑り込ませる。慌てて僕も乗り込むと、櫻子さんは何かを運転手さんに見せて「ここへ頼む」と言っていた。車が走り出すと、櫻子さんはふーっとゆっくりと息を吐いた。

「用件って、何だったんですか」

「気にするな。ではまず、状況を整理しよう」

「え?」

「彼女について知っていることを、一通り挙げたまえ、君の知っている範囲で構わない」

「あ……」

「私に探偵のマネをさせたいんだろう?」

「ああ……でも、知っていることって、突然言われても……」

 そもそも、僕はそこまで清美さんと親しい訳じゃない。

「年齢や、職業だ」

「そんな、はっきり聞いたことがある訳じゃないし……」

「なんでもいい。会話の時に色々とれてきた事はあるだろう?」

 僕はしばらくうんうんうなりながら、清美さんとの会話の数々を振り返ってみた。

 アパートの前で交わしたあいさつ。一緒にした草むしりと、ささやかなティータイム。夏の夜、神楽かぐらの河川敷花火大会で、たまたま出店の前ででトウキビを買う彼女に会った事──この時、彼女がピンクや水色といった可愛らしい色では無く、黒い浴衣ゆかたを着ているのを見て、そのいつもと違うなまめかしさにドキリとしたんだっけ。

「……年齢はよく知りませんが、多分櫻子さんと同じぐらいか、少し上じゃないかと思います。偶然年末に会って、結婚を控えてるって話をした時に、なんとか三十歳に間に合った──なんて笑ってたんで、多分二十七~二十九歳ぐらいなんじゃないでしょうか?」

 浴衣の事は別に言わなくても良いだろう。僕はとりあえず推測した彼女の年齢を櫻子さんに話した。

「今風に言うならアラサーというヤツだな」

「職業は、確か薬剤師さんです。すぐそこのバス停前の調剤薬局で働いてるって聞いたことがあります。お昼を食べに家に帰れる距離だから便利だって」

 そう横を過ぎていく、旭山動物園デザインのノンステップバスを見送りながら言い添えると、櫻子さんはこっくりとうなずいた。

「薬剤師、か。成る程──他には何か?」

「他……うーん、本当に、そんなに親しい訳じゃないんですよ」

「なんでもいい、ささいな事でも、思い出せる事を教えてくれ」

「ささいな……ああそうだ。本当は、花屋さんになりたかったそうです」

「花屋?」

「ええ。でも水仕事をするとすぐに手が荒れてしまう体質なので、部屋のプランターなんかで花を育てるのが精一杯だって言ってました」

「プランターか。そういえば、随分鉢植えの多い部屋だったな」

「確か母も以前、何か株分けしたのを頂いたって言ってました。随分上手に色々育ててるって母も言っていたので、多分本当に花が好きな人なんでしょうね」

 あの日飲ませてくれた美味おいしくないミントティーも、彼女の育てたものだったはずだ。あの草花たちは、彼女がいなくなった後、いったい誰が面倒を見るんだろう。せめて大事に枯らさずに育ててくれる人がいればいい。誰も居ないなら、いっそ我が家に預けて欲しいと思う。花を育てたことはないけれど、今はインターネットで簡単に調べられるだろうし、母さんや、ばあやさんに手入れの仕方だって教われるはずだ。どうにか彼女の代わりに、残された命を大事にしてあげたい。

 でも本当のことを言うなら、僕はあの美味しくなかったミントティーが、今は無性に飲みたかった。清美さんが作ったミントティーが。

「…………」

 流れる外の景色を眺めるフリをして、僕はまたあふれてきた涙をこっそりとぬぐった。外はすっかり薄暗くなっている。携帯を見ると、時間はもうすぐ午後四時だった。母さんから何通もメールが来ていたけれど、今は見ないことにした。

「婚約者は、眼科の医師だったな」

「そうみたいですね……」

「妹は同じ病院に勤めている」

「そうなんですか?……あ、そうか、すぐそこの病院に勤めているって言ってましたね」

「そして、二人は不倫関係にある。まぁ、まだ結婚していないのだから、ふたまたというべきか」

「へえ──え?」

 涙がなかなか乾かなくて、彼女から顔を背けて、おざなりな相づちを返していた僕の思考が急に止まった。

「え!? ど、どうしてそんな事が!?」

「部屋で抱き合っていたじゃないか」

「あれは抱き合ったって言うよりも、ショックでしがみついたとか、そういう事じゃないですか! 話を飛躍させすぎですよ!」

 なんて失礼な事を言うんだろうと、僕はいらちを含んだ声で櫻子さんを戒めようとした。けれど彼女は、そんな僕をまた鼻で笑った。

「おそらく上司であり、姉の婚約者という男に対し、いくら動揺したからといって普通は抱きついたりなどしないだろう。ここは日本だよ、ハグの習慣は欧米諸国ほど定着していないだろう。しかも背中に手を回す男の方にもじんちゆうちよもなかった」

「え……」

「君と私はそれなりに親しい間柄だ。だがもし私が君を抱擁したとして、君は躊躇ためらいなく私を抱き返せるか?」

 そう言われると、答えに困った。

 言われてみると確かに知人だとしても、異性との突然の身体の接触には、多少なりとも躊躇は感じるんじゃないだろうか? 実際に僕だって、櫻子さんに突然抱きつかれたらびっくりするだろう。現に、さっき頰を触られただけでドギマギした。

「だけど、そういうのだって多分、個人差があるんじゃないですか? それだけで二人が不倫してるっていうのはちょっと……」

「そうか? おそらく二人の間に肉体的な関係があるのは確かだろう」

「親しいだけかもしれないですよ……それに、やっぱり大人の男性なら、そういうのに免疫があるのかも」

「男と女だ。いくら親しくても遠慮があってしかるべきだろう? 姉妹でDNAが一致する確率は四分の一だ。母親から五十%、父親から五十%、よって父由来と母由来のDNA両方が姉妹間で一致する確率は二十五%になる。目視しただけだが、姉妹では体型も随分違ったようだし、そもそもDNAが同じでも、全く同じ肉体が出来上がるとは限らないんだ。従って姉妹ではカントの具合も随分違ったんだろうな」

「櫻子さん……」

「特に妹の方は、男好きのする身体をしていた。しかも医療関係者だというのに、あの女は香水を付けていたじゃないか。眼科なら多少の事なら許されるのかも知れないが、恐らくは禁止されなければ多少のモラルに反する事に抵抗のない女なんだろう」

「こ、香水、つけちゃダメなんですか?」

 若い女の人なら、香水なんて普通の筈だ。

「じゃあ、君は香水臭い看護師に会ったことがあるか?」

「あ……」

 そこで僕はまた、答えを失った。病院といえば、あの病院特有のアルコール液の臭いというか、消毒薬の臭いしか思い浮かばない。そこで働いている人達もまた然り、だ。言われて僕は好美さんの甘い香りを思い出し、返事をする代わりにためいきを返した。

「婚約者からのメールの内容も、よく把握しているようだった。姉妹だからと言って、いちいちそういった恋文の中身を明かすだろうかね? 言い訳がましいメールを打つ男の横で、彼女はそれを見ていたのではないかな。終わったのは仕事ではなく、自分との交接だと薄笑いを浮かべながらね」

「そんな……」

 お姉さんの死を、心から悲しんでいた好美さんと橋口さんの、寂しげな姿が僕の脳裏をぎった。

「そんな筈無いですよ……」

 二人がそんな関係だったなんて想像したくないし、そんなの考えられないと思うと同時に、櫻子さんの生々しい言葉が僕に二人の不実な姿を妄想させる。

「そして、おかしいのは女の死亡時刻だ」

「死亡時刻?」

「おそらく、死後二十四時間以内──変だと思わないかね?」

「変、とは?」

一昨日おとといは元気だったのに、と、妹が言った」

「死後二十四時間以内なら、前々日元気な姿で会ってもおかしくはないんじゃ?」

 たとえば一時間前に会ったというなら、それは変だと思う。だけど、一昨日会ったというなら、その時間には清美さんは生きているんだから、別になんらおかしくない。

「もしこれで死体が歩いた、っていうなら、そりゃあびっくりしますけど」

「じゃあ君は、たかだか姉と二日連絡がつかないからといってアパートに押しかけ、管理人にチェーンまで切らせるのかね?」

「え……?」

「一週間や一ヶ月というなら、わからないでもないだろう。だけと、たった二日だ」

「ああ……そうだ」

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