第壱骨 美しい人⑩

 たった、二日なんだ。考えてみたら、僕が兄と最後にメールを交わしたのは、二週間も前の事だ。男同士だからというのもあるだろうけれど、別にそう仲が悪い訳でもないし、用向きによるとはいえ、たとえ何か用があったとしても、よっぽどのことじゃなければ二日程度は普通に待てる。だってたった四十八時間の事だ。いくら仲がいい姉妹だからと言って、そんな短時間でこんなおおな事するだろうか?

「そう言われると、変ですよね……それに……」

「それに?」

「ちょっとだけアレ? と思ったんですけど、好美さん……なんだかお姉さんが亡くなっている事を、薄々わかっているような、そんな雰囲気でした」

 僕がそうつぶやくと、櫻子さんがゆっくりとうなずいた。

「おそらく、妹は姉とここ二日間連絡が取れない事に対する、不安感があるような状況にあったと、そういう事だろう。例えば、姉が部屋で死んでいるという事を予測できるような、ね」

「その死亡時刻に、間違いは無いんですか?」

「百%とは言わないが、今時期の気温や彼女の体型、部屋の日当たりから考えるに、死体の腐敗はまだそんなに進んでいない。私は専門家ではないから断言出来るわけではないが、角膜の混濁や死後硬直が全身に広がっていた事から考えるに、十二~二十四時間の間だろう。でも少なくとも彼女は前日は生きていたんだ。死体が動き回らないか、もしくは妹が噓をついていない限り、死後二日以上というのはあり得ないんじゃないかね?」

 櫻子さんが大好きなのは骨だ。結果的に骨にする前の段階に接する事が多いとはいえ、別に人間の骨の標本を作る訳ではない。確かに櫻子さんが唯一慕っていたっていう、叔父おじさんのラボにあししげく通っていた事もあって、そういった知識は僕みたいな普通の人間よりも深いとはいえ、彼女はプロじゃない。でもどっちにしろ、今回清美さんの遺体はまだ新しい事に違いないというのは、僕にだってわかることだった。

「まぁ、おおかた男との関係が姉に知れたとか、そういう事じゃないだろうか。本人から自殺を示唆するようなメールが届いたのかもしれないな」

「なんで自殺なんですか!? それなら、逆に妹さんが怪しい、という事にはならないですか? もしくは、婚約者の先生が」

「背信がばれたから、殺すというのか?」

 櫻子さんがげんそうにかたまゆを上げた。

「あり得ないことでは、無いと思います。それに櫻子さんだって、あの荒れ果てた部屋を見たじゃないですか!」

「確かに、世には理解に苦しむ事象が数多く存在するな」

 別に、好美さんと橋口さんを疑いたい訳じゃないけれど、でもとにかく僕にはあの荒れ果てた部屋が引っかかっていた。

「じゃあ、君の推理を聞かせてもらおうか?」

「え?」

「妹や婚約者が殺したと、君が思う筋書きだ」

「筋書き……」

 そう言われて、僕は思わず口ごもった。だけど僕の身体にも骨があるように、物事には本質があるはずだ。清美さんの死にもきっと何かが隠されている。だから僕はまず、自分の中のこのもやもやした思いを改めて整理してみることにした。

「……気になったのは、まず部屋です。清美さんの部屋とは思えない荒れ方でしたが、でも見た感じゴミが落ちているとか、そういう不潔さではありませんでした。つまり、あれは誰かと争った跡だと思います。物取りの犯行だとも考えられますが、お財布の中からお金が抜かれていないのは変ですし、その線は除外してもいいと思う」

 ほう、と櫻子さんが声を上げた。馬鹿にしてるのか、感心しているのか、どっちとも取れる声で、僕は不安な気持ちになった。

「争ったという事は、意識があったのだと思います。だから、睡眠薬などの薬物を使用した訳じゃないと思います。ただ、血を流してはいなかったので、殺人方法は殴ったとか、首を絞めたりしたんじゃないでしょうか?」

 そうだ、ベッドに横たわる彼女の衣服はれいだった。胸元は乱れていたけれど、血は流れていなかったし、大量に血の臭いも無かったように思う。あと思いつくことはなんだろうと、僕は自分の記憶を辿たどり──ああそうだ、乱れた室内と違って、玄関は全然散らかっていなかった。だから僕は、内ドアを開けてひどく驚いたんだ。

「玄関は綺麗でした。靴が散らばったりもしてなかったし、知らない人が無理に飛び込んできた訳ではない気がします。だとしたら、清美さんが自宅に招き入れる事に抵抗のない人物──つまり、橋口さんか、好美さんか、僕の全く知らない第三者の知り合いかもしれません。だから変質者の線も省いていいかもしれない。あとは……そうですね、とても頭がいい人だと思います。もしくはミステリィに詳しい人ですね」

「何故だ?」

「だってそうじゃないと、密室のトリックなんて使わないと思います」

 そう僕が断言すると、唐突に櫻子さんが軽やかな笑い声を上げた。

「な……なんで、笑うんですか!」

 そう問い掛けても、櫻子さんは本当におかしくてたまらないという風に、しばらくの間けらけらと笑い続けている。怪訝そうに、ミラー越しに運転手さんが僕らの方を見た。僕は本当に、居心地が悪くなった。

「いい加減に笑うのをやめてくださいよ。何がそんなにおかしいって言うんですか?」

「これをどうして笑うなと?」

 くっくっくと、まだ笑いをのどもとに残しながら、やっと櫻子さんがかすれた声で答えた。

「じゃあ……説明してくださいよ……」

 ぜんとして僕が更に念を押すと、櫻子さんはやれやれと言う風に後頭部をきながら、シートに座り直した。

「よく考えても見たまえ。犯人が密室を選ぶ理由はなんだ?」

「はい?」

「密室にする、理由だ」

「それは……逮捕されない為に?」

「君は頭が悪いのか? それを事故か自殺に見せかけるためだろう? 密室である事によって、第三者が介入していたという事実を消すためだ。それが一目見て殺人とわかる状況で、密室に仕立て上げる意味が、いったい何処どこにあるというんだ?」

「そ、それは……捜査をかくらんさせる為、だとか……」

「何度も言うが、君は本当に愚か者だな。第三者の犯行とわかった時点で、密室である意味はないだろう。ドアが開いていようと、閉まっていようと、殺人なら警察は捜査をする──まぁ、中にはコレ幸いと自殺で片付けてしまう、怠慢な人間もいない訳ではないがね」

 櫻子さんが、大袈裟なぐらいのためいきをついた。何故わざわざそこまで言わせるんだ?という、そういう失望のはっきりと感じられる溜息で、僕は胸がズキンとした。

「どうやって密室を作ったか聞こうか? かぎはともかく、チェーンの事はどう説明する? まさかいつたん外して元に戻すとか、外しておいた受け金を退室後に瞬間接着剤で着けたとでも?」

「わからないですけど、なんらかの方法が……あるの、かも……」

 答えながら、僕はもう自分の『推理』に無理がある事に、十分すぎるぐらい気付かされていた。

「じゃあ、それでもいい。方法は不明なままで構わないよ。それではそれが犯人逮捕を妨げる、いったいどんな理由になるんだい? 逃走方法が不明だと、犯人は逮捕できないか?──そうじゃないだろう。遺体の状況や遺留品、周辺住民への聞き込み、不審者の有無……そういった様々な証拠が立件につながるんだ。警察は時には強引な方法をも辞さない集団だ。それらの証拠さえ揃っていれば、たとえ密室だったとしても、そんな事には触れずに逮捕するだろうね」

「だって! 本当に苦しそうな死顔でした!」

 もういい。櫻子さん、貴方あなたの言うとおり、僕は愚かだ──そう思っても、まだどうしても納得できなかったのは、彼女の死顔だ。本当に、苦しそうだった。綺麗だった生前の面影を感じられないぐらい、もんち満ちた表情だったからだ。

「殺人でなければ、死に際が苦しくないとでも?」

「そうですけど……だけどあの顔には、無念とか、怒りとか、そういうものを感じたんですよ! だから……自殺なんて、そんな事あるはずがないです。清美さんのなきがらは、たとえば生きることに絶望したような、そういう感じには思えませんでした!」

 結局は、それだ。清美さんの苦しげな最期の表情と、生前の彼女の姿が、彼女の自殺を僕の中で否定していた。優しくて、一見はかなげだけれど、彼女の中には確かにりんとした、太い骨があるのを、僕は感じていた。彼女には確かに自分の世界があった。不可侵の強さがあった。だから恋人が自分を裏切っていたからって、この世を儚んでしまうなんて思えない。全てをあきらめて自殺してしまうなんて、絶対に思えないんだ。

「櫻子さんの推理がどうであろうと……清美さんは自殺なんてしない、もっと強い女性だと思います──そうだ、こうは考えられないですか? たとえば、婚約者や好美さんによって殺されかかった清美さんには、まだ意識があった。すでに現場を離れた大切な人をかばうために、彼女は最後の力を振り絞り、自らチェーンをかけて密室を装ったんです。きっとそうですよ、清美さんはそういう清廉な人です」

 もう一度、僕はそうはっきりと断言した。

「そしてまた寝室に戻り、苦しみながら死んだと?」

「おそらくそうだと思います。清美さんに限って、自殺なんて考えられない」

「……絶望だけが、自ら死を選ぶ理由ではないよ」

 櫻子さんはしばらく黙って僕を見つめて、やがてそうぽつりと言った。

「だったら、櫻子さんは彼女の死の謎が解けるとでもいうんですか!」

「それは警察の仕事だ。しかるべき捜査員と医師が、然るべき捜査をすれば、真実は見えてくるだろう。私が無理に答えを出す必要はない」

「誤魔化さないでくださいよ、自信ありげだった癖に!」

 今更そんな言葉で逃げるなんてきようだと、僕は櫻子さんをにらみ付けた。彼女はふっと息を短く吐くと、諦めたようにまた口を開いた。

「まず、争ったかどうかについては、検死すればわかるだろう。防衛創の有無や、抵抗のこんせきの有無をね。部屋をちや苦茶にするぐらい暴れているのだから、相手がいれば大人しく殺されなどしないだろう? 服に相手の頭髪が付いていたり、絶命する前に相手を引っ搔いていたりするものだ。犯人のDNAが残っている場合も多い」

「犯人の、DNA……」

「最近はごうかん魔とて避妊具を使う時代だよ──もつとも、被害者の陰毛をくしにかけると、抜け落ちた犯人の陰毛が発見される場合が多いので、そこからしょっ引かれる場合も少なくない。もし君がそういった罪を犯したいと思ったら、まず自分の陰毛をる事をお勧めするね」

「そんな事する訳ないじゃないですか!」

「まぁ、君にそんな凶暴性があるとは思えないしな」

 はっはっはとまた彼女が笑ったので、僕はとても不快な気分になった。自分が馬鹿にされたこと以上に、彼女のそういう無神経さに腹が立った。とはいえ、人がいやがることばかり口にするのが櫻子さんのいつもの癖だ。そうする事で、相手の反応を探ったり、心の内側をのぞいたり、相手の感情をコントロールするんだ。

「いいから、話を戻してください」

 その手には乗るまいと、僕は努めて冷静に言った。櫻子さんはつまらなそうに唇をとがらせた。やっぱり僕を怒らせて、上手うまいこと話を打ち切ろうとしていたんだ。

「そうだったな……」

 面倒だが仕方ない、と櫻子さんは溜息をらすと、片側の口角だけ引き上げて、渋い顔をした。

「……私が一見したところ、彼女に出血などや目立った外傷は見あたらなかった」

「傷が残らない方法なんじゃないですか?」

 櫻子さんがゆっくり首を振った。

「暴れて抵抗している相手を殺すとしたら、刺すか、殴るか、絞めるかだろう? だが外傷は見あたらず、更には首を絞めたあとも無かった。窒息死の場合はうつけつや眼球に点状の小出血等も現れるが、そういった症状も無い」

「じゃあ、病死だって、そういう事ですか……?」

「さてね」

 櫻子さんが肩をすくめて、わざとらしく『お手上げ』のポーズをしてみせた。

「でも、だったら、どうしてあんなに部屋が荒れているんですか?」

「ヒステリーかもしれないが──今、それを確かめに行くんだ」

「確かめに?」

 そこで改めて、僕はタクシーで自分が何処に向かわされているのか気になった。

「ところで、いったい何処に行くんですか?」

 僕が問うと、櫻子さんは答えるかわりに、ピッと指に挟んだチケットのような物を僕に見せた。

「植物園?」

 それは市内の植物園の半券だった。

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