第壱骨 美しい人⑪
■伍
その植物園は、
旭山動物園ブームに沸いて観光客は激増したものの、旭川は相変わらずだ。駅前は閑散とし、その代わり週末は郊外の大型スーパーの駐車場がいっぱいになるほど地元民が集まっているという、この残念な状況を打破するべく懸命に開発が進められているけれど、どれもあまり効果が無いのは、変化を受け入れない旭川市民らしい結果ともいえるだろう。そんな訳で、真新しくて
「どうしてこんな所に?」
「昨日の日付の入場券が、彼女のサイフの中にあった」
「え!?」
しれっとした表情で櫻子さんが言った。
「だ、ダメでしょう! そんな事をしたら! 捜査の妨げになるじゃないですか!」
「気になったことがあったんだ。この程度、平気だよ」
相変わらず、なんて非常識な事をするんだろうと僕は慌てた。確かに紙切れ一枚とは言え、それが犯人逮捕につながる重大な手がかりの可能性だってある。
「真実が知りたいと言ったのは君じゃないか」
「そうですけど!」
だからってやっていいことと悪いことがあるじゃないか! 今すぐ警察に行って謝るか、最悪在原さんになんとかして
「とにかく、それ、返さなきゃダメですよ」
ジャケットの
「君は本当に細かいことに
さも煩わしそうに言いながら、櫻子さんがタクシー代を払った。貴方が大雑把過ぎるんですと思ったけれど、口には出さなかった。骨を取る為なら、精密な作業を何時間も続けられる人なのに、どうしてそれ以外のことはこんなにもいい加減なんだろう。僕の唇から
「あの、ちょっと! 櫻子さん!」
ひとまず車を降りて、このチケットをどうしようかと頭を悩ませていると、また櫻子さんはスタスタと植物園の受付まで行ってしまった。
「もうすぐ閉園みたいですよ?」
看板を見ると、閉園まで一時間を切っていた。案の定受付のおばさんが「もう閉園間近ですが」と言ったけれど、櫻子さんは「構わない」と短くそう言ってチケットを買った。
「
櫻子さんはチケットと一緒に手渡されたパンフレットを少し眺めると、また唐突に何処かに向かって歩き出す。展示されている様々な植物に目もくれず、何の説明もなしに温室の中を進む彼女の背中を追いかけて、僕はまた
「櫻子さん!」
「日光に弱い花なんだ」
「日光に弱い花?」
「ああ、ここだ」
そう言ってやっと彼女は足を止め、部屋の入り口に書かれたプレートを指さした。
「『日陰に生育する植物たち(全国)』?」
そう読み上げる僕に、櫻子さんは一度
「これだ」
やがて不意に櫻子さんが足を止める。
「これ?」
そこには、背の低い草が群生していた。卵形の、縁が少しギザギザした葉をもっていて、黒いブルーベリーのような実がいくつかなっている。葉はなんとなくあじさいに似ているが、知らない植物だった。
「ハシリドコロ……?」
説明のプレートには、『ハシリドコロ(Scopolia japonica Maxim)ナス科』と書かれていて、草の横には『危険ですので触らないでください』という注意書きがされている。
「触らないでって、書いてありますけど」
「そうだな、毒がある」
「え?」
平然とそういって
「何をしてるんですか?」
「証明してやろう──ああ、これだ」
「見てみたまえ」と、櫻子さんが手元を指さした。
「実をもいだ跡があるだろう?」
「……そういえば、そんな風に見えますね」
薄暗いので見にくかったけれど、彼女の手元を
「それが……どうかしたんですか?」
僕が問うと、櫻子さんは熟しすぎたのか、しぼみ始めて
「ブルーベリーに似ているが、これでれっきとした猛毒だ。子供なら数粒、大人でも十数粒で死亡する」
「十数粒……え!?」
繰り返して、僕はさあっと背筋が寒くなるのを覚えた。
「まさか……これで清美さんが?」
「恐らくは」
櫻子さんが頷いた。
「ベラドンナだ」
「ベラドンナ!? これが!?」
そう言われて、僕はやっとこの草の正体を理解した。ベラドンナといえば、継母の毒トリカブトと並んで、ミステリィではよく使われる毒の一つだ。
「そうだ。和種なのでまったく同じ花ではないが、性質はそう違わない」
彼女の話を聞く内に、僕の足から力が抜けていった。僕はそのまま座り込み、膝を抱えるようにして、足の間に顔を
「……どうして? なんでこれで清美さんが亡くなったってわかるんですか?」
「ハシリドコロのこのハシリ、というのは、中毒症状の初期に
「譫妄……」
ああ、そうか──。
「じゃ、じゃあ、あの荒れた部屋は、誰かと争った訳ではなく……」
「争ったとしても、恐らくは彼女にしか見えない相手だったのではないかな」
「だけどこれだけじゃ……」
そう言いかけた僕の頭を、櫻子さんはポン、と
「え?」
「目だ」
「目?」
「君は彼女の
「わかりません……」
と、そう答えてみたものの、確かに彼女の瞳に注意がいったのは事実だ。カッと見開かれ、うっすらと皮膜がかかったように混濁した瞳に。
「
「ドウコウ──?」
「角膜の混濁も始まっていてわかりにくかったが、彼女の瞳孔は確かに大きく開いていた。これは典型的なベラドンナの中毒症状に見られるものだ」
「…………」
「婚約者は眼科医だと言っていたな」
僕は頷いて、そのまままた
「かつて、貴婦人が自分の瞳を美しく見せるために使用していたのはベラドンナだ、婚約者との
僕にそう説明する櫻子さんの後ろで、まるでBGMのように、閉館を知らせる、別れのワルツがゆっくりとスピーカーから流れ始めて、そのもの悲しいメロディーラインが更に僕の気持ちを沈ませていった。
「計画的か、偶然か、そこまではわからない。植物が好きだというなら、気晴らしにここに来て、たまたまこの実を見て思いついたという衝動的な行動かもしれないし、以前訪れて覚えていたとか、そういう事かもしれない。もしくは暗示的な意味があるのかもしれないよ。婚約者なら、何か特別なメッセージを感じたかもしれない──ちなみに、花言葉は確か『沈黙』だ」
「沈黙……」
この言葉が、こんなにも悲しく感じたのは初めてだ。
「まぁ、でもとにかく彼女は昨日ここに来て、この実をこっそりと持ち帰り、部屋で飲んだんだろう。一口に飲むと言っても、致死量を飲むというのは容易なことでは無い。だが、彼女は薬剤師だ。空のカプセルにでも入れて、しっかりと己が死ぬのに必要な量を服用したんだろう。症状はだいたい三十分から一時間ほどで現れる」
「じゃあ……」
「致死量を服用したんだ。さぞ
ポン、と櫻子さんがまた僕の肩を叩いた。彼女の立ち上がる気配に、僕も俯いたままそれに従った。
「自死も殺人だというならば、これは確かに密室殺人だろうね。彼女は誰にも邪魔されない為に、しっかりと部屋の
「じゃあ……」
やっぱり、清美さんの死は自殺で間違いないと、そう言うんですね?──その質問を、僕は言葉に出来なかった。
「……そんなに『殺し』が良かったというのか?」
「だって、自殺なんて……こんな悲しいこと、無いじゃないですか……」
「そうか。こんな仮定の話に、
「二人を糾弾しますよ、引き裂いてやります、自分が死ぬよりずっとそっちの方がいい!」
だって悪いのは二人じゃないか! 僕が声を荒らげると、櫻子さんは目を細めた。
「人間の感情は、障害があればあるほど燃え上がるものだ。焼けぼっくいに火がつくことだってままある。引き裂いたところで、過去は消えないんだ。一生自分の妹の存在に
「じゃあ、別れればいい……もっといい人を探すことだって出来ます」
「そうだな。でも彼女がそれを望んでいないとしたら?」
ゆっくりと、櫻子さんが瞬きをした。
「愛する男の背信を知ってもなお、
「……だから、死んで身を引いたって、そういうんですか?」
「はははは」
また彼女は唐突に、声を上げて笑い出した。
「櫻子さん……」
「彼女は身など引いているものか。それどころか、彼女はあの男を
「どういう事ですか?」
「警察が発見するであろう遺書に、婚約者と妹の関係が書かれているかどうかは定かではないがね、でも病院の方ではおそらく彼らの関係に薄々気がついているだろうし──まぁ、よほどの厚顔無恥でもなければ、遺族などの体面もあって、婚約者と妹が現在の関係を続けるのは難しいだろう。どちらかが、もしくは両方が職を追われるかもしれないし、結婚を決めるぐらいなのだから、婚約者だって亡くなった姉の方に愛情が無かったわけではない
「…………」
火葬の温度は八百度だそうだ。さも面白いというように、またくつくつと
外はもう真っ暗で、コートを着ても肌寒く、また雪が降り始めていた。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、と靴が新雪を踏みしめる音だけが響いている中で、櫻子さんが静かに口を開いた。
「死者は物を言わない、言い訳もしない──だからこそ、誰も太刀打ち出来ないんだ。あんなにも雄弁なのに、どこまでも一方的で、私達生きている側の言葉に耳を貸しはしないんだよ」
目指している通りを幾つもの車のライトが流れていく。そのうち一台がこっちに曲がって来て、ゆっくりと徐行しながら横道に入っていくのが見えた。そののろのろとした光に、僕は何故か子供の頃祖母の家に遊びに行って見た、精霊流しを思い出す──もの悲しい光だった。
「君は悲しいことだと言ったな? でも私はそう思わない。
櫻子さんの言葉が、乾いたように耳に過ぎていく。
「……そうでしょうか」
櫻子さんの足跡を追いながら、僕は
「死んでしまうなんて、たしかに一方的な事かも知れない──でも、やっぱりこれは悲しいお話だと思います」
空を仰ぐと、白くて軽い綿雪が、僕の
「きっと彼女は大切な人を、愛する人たちを、直接
櫻子さんには、わからなくても構わない。
そんなに、清美さんと親しかった訳でもない。
だけど、これだけは間違いないと思う。
「きっと清美さんは、本当に心までも清らかで美しい人だったんです」
■終
その日、夜の道内ニュースで清美さんの事が短く報道されていた。
殺人と自殺、両方の線があるという話だったけれど、翌日の朝刊に、彼女の死はやっぱり自殺だったと、隅の方に小さく載っていた。
それから数日して、耳の早い母が好美さんは病院を辞めたそうだと教えてくれた。
「びっくりするわね、あの二人浮気してたんですってよ!」──そう母が目を丸く見開いて言ったけれど、僕は驚きはしなかった。だけど聞きたくもなかった。そしてあのアパートの草むしりには、二度と行きたくないなと、そう思った。だってどんなに暑い日でも、もう僕にミントティーを振る舞ってくれる人はいないんだ──。
元々僕と清美さんの人生は、ほんの一瞬すれ違っただけだ。だから彼女が亡くなる前も、結局その後も、僕の生活は特別変化しなかった。
いや、一つだけ変わった。
今僕の部屋には、
それから更に何週間かして、新聞の小さな記事が僕の目に留まった。プラモデルの塗装をしようとした時の事で、日付を見ると3日前の新聞だった。
「これ……」
『婚約者を亡くした医師、自殺か』
○月×日未明、
遺書は発見されなかったが、車内で練炭を
プラモデルを持っていた僕の手が、震えた。ショックだったからか、悲しかったからか、それとも怒りでなのか、自分でも良くわからない。
「……それなら、なんで清美さんの事、もっと大事にしなかったんだよ」
あの日、雪の中で立ちつくしていた橋口さんの姿が
後悔するぐらいなら、後を追わずにいられないなら、なんでそんな愚かなことをしたんだろう。
愛していたなら、なんで裏切ったりしたんだ?
一人残された好美さんは、いったいどうしているんだろうか?
清美さんは、本当にこれで満足しているんだろうか──。
天国で幸せになるなんてそんな不確かな話、僕は大嫌いだ。それでも二人の魂が幸せであるように、僕は心の底から祈らずにはいられなかった。
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