第弐骨 頭《こうべ》①

    ■壱


 五月の三週。長々と居座っていた冬将軍がやっと退陣し、一斉に芽吹いた木々が我先にと葉を広げ、初夏の始まりを告げるしま桜が、白く淡い色のあえかな花を咲かせる頃、僕は櫻子さんの運転するRenault New Kangooで高速道路を走っていた。

 空は真っ青で、しはとても温かく、流れていく景色もれいだ。桜というと、道外なら卒業式や入学式の花だろうけれど、ここ北海道はゴールデンウィーク前後に咲く花だ。なので『桜が咲くなあ』というのは、春というよりもこれから始まる緑の季節を思わせて、『よし、遊びに行こう!』というウキウキ感にあふれている。

 北海道でもメジャーなのはそめよしだけれど、元々自生しているのは『千島桜』『蝦夷えぞやま桜』『かすみ桜』『やま桜』の四種類で、特に僕が好きなのは千島桜だ。染井吉野が散った後に咲き始め、長く咲いている印象があって、つぼみの頃や、咲き始めは鮮やかな紅色なのに、散り際には真っ白になっているのが、なんだか潔くて綺麗に思う。

 花にはあまり詳しくない僕だけど、桜だけは特別だ。小学四年の頃に亡くなった祖母が桜の大好きな人だった。だから桜といえば、祖母に抱かれて『これが蝦夷山桜ですよ』と、優しく教えられた事を思い出す。そのせいだろうか、こんな天気のいい日に、桜を見ながらのドライブなんてうれしい事この上ない。たとえ運転手が櫻子さんであっても、だ。

「……どうした?」

 思わず隣でハンドルを握る櫻子さんの横顔を眺めていると、げんそうに彼女が片まゆを上げて僕をチラリと見た。

「いえ。ただてっきり、櫻子さんは運転できないんだと思っていましたよ」

「そうなのか?」

「だって、いっつもタクシーだったじゃないですか」

 お嬢様とはいえ、別に『執事』がいる訳でもなければ、『お抱えの運転手』だっていない櫻子さんの主な移動手段はいつもタクシーだった。免許を持ってるって事に加え、こんな車を持っているというのも知らなかった。

「去年、車を一台ダメにしたんだ」

「事故ですか?」

「いや、鹿だ」

「鹿? 鹿にぶつかったんですか?」

 野生動物の飛び出しの中でも、道民が最も恐れるのが鹿だ。突然飛び出してくる上に、彼らは本当に大きいので、車が全損……なんていう事も珍しくない。そりゃ、大変な事故じゃないですかと、目を白黒させる僕をしりに、櫻子さんが肩をすくめる。

「いや、事故ではない。真夏に鹿のがいを見つけてね、運んだはいいが、暑い時期だったので、かなり腐敗が進んでいたんだ」

「え…………」

 それ以上は、なんとなく聞かないでも想像が付いた。

「野生動物なので、ノミやダニが車内に住み着いた上に、腐敗臭がなかなかとれなくてね。私は気にしなかったんだが、ばあやと直江がうるさいので、仕方ないから廃車にしたんだ」

「そりゃ、そんな車は誰だって嫌ですよ! 櫻子さんと違って、普通の人は死体の臭いなんて耐えられないんです!」

 しかもノミやダニまでいるなんて……と、聞いているだけでなんだか身体がむずがゆくなってしまった僕だったけど、死臭に抵抗のない櫻子さんは、ちょっと不本意そうに唇をとがらせていた。可哀想に、ばあやさんはともかくとして、「死臭くらいで軟弱な」と在原さんが責められている、気の毒な姿が目に浮かぶようだ。

「まぁ、冬場はあまり出かけないからタクシーでも良かったが、やっぱりタクシーだと骨拾いには向かないだろう? 兎一匹でも臭いがすると運転手に断られるしね」

「当たり前です」

「そんな訳で、新車を買ったんだ」

「へえ」

 でも持ち主が櫻子さんなら、結局また同じ事になるんじゃないのか? と思いつつ、買ったばかりだという車はとても気分が良くて、僕はゆったりとシートに背を預けて目を細めた。変わり者の櫻子さんらしく、市内であまり見かけない車だ。だけど乗り心地もいいし、僕はすっかりこの車を気に入ってしまったので、どうか二度と腐敗の進んだ動物は乗せないで欲しいと、心の底から願ってやまない。

「じゃあ、この車でドライブするのは初めてなんですか?」

「ああ。だから不慣れで事故を起こしても、私を恨むなよ?」

「…………」

「冗談だ」

「いや、笑えない冗談は止めてください」

 とはいえおびえる僕の予想に反し、櫻子さんの運転は思った以上に上手うまかった。車内が快適だというのもあるけれど、元々手先が器用だし、運動神経も悪くなく、またあまり行動を悩まない櫻子さんの運転は、何十年もハンドルを握っているはずの母さんの運転よりもずっと安定感と安心感がある。

 かくして、僕はよく晴れた日曜の午前中を、櫻子さんの愛車の中で過ごしていた。

「で、どこに向かってるんですか?」

マシだ」

「増毛ですか」

「海に行きたいんだ」

「海か……いいですね」

 成る程。納車されたばかりの車での初めてのドライブが海だなんて、ベタだけれど櫻子さんが選んだとは思えないぐらい素敵なチョイスだ。特に山に囲まれた我ら旭川市民にとって、水遊びと言えば川でするもので(旭川は川の街でもある)、海、というのはちょっと特別な場所だ、余計にテンションが上がってしまう。

 青空、新車、桜に海──そんな素敵な言葉に踊らされて、僕はすっかり舞い上がっていた。でも後から思えば、何故この時点で『この事』に気がつかなかったのだろうと、我ながらかつだと思う。隣にいるのは、他でもない櫻子さんなんだ。楽しいだけで済むはずが無いじゃ無いか。

 どんな時でも忘れるべきじゃなかった。櫻子さんは、いつだって死体を呼び寄せるんだっていう事を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る