第弐骨 頭《こうべ》①
■壱
五月の三週。長々と居座っていた冬将軍がやっと退陣し、一斉に芽吹いた木々が我先にと葉を広げ、初夏の始まりを告げる
空は真っ青で、
北海道でもメジャーなのは
花にはあまり詳しくない僕だけど、桜だけは特別だ。小学四年の頃に亡くなった祖母が桜の大好きな人だった。だから桜といえば、祖母に抱かれて『これが蝦夷山桜ですよ』と、優しく教えられた事を思い出す。そのせいだろうか、こんな天気のいい日に、桜を見ながらのドライブなんて
「……どうした?」
思わず隣でハンドルを握る櫻子さんの横顔を眺めていると、
「いえ。ただてっきり、櫻子さんは運転できないんだと思っていましたよ」
「そうなのか?」
「だって、いっつもタクシーだったじゃないですか」
お嬢様とはいえ、別に『執事』がいる訳でもなければ、『お抱えの運転手』だっていない櫻子さんの主な移動手段はいつもタクシーだった。免許を持ってるって事に加え、こんな車を持っているというのも知らなかった。
「去年、車を一台ダメにしたんだ」
「事故ですか?」
「いや、鹿だ」
「鹿? 鹿にぶつかったんですか?」
野生動物の飛び出しの中でも、道民が最も恐れるのが鹿だ。突然飛び出してくる上に、彼らは本当に大きいので、車が全損……なんていう事も珍しくない。そりゃ、大変な事故じゃないですかと、目を白黒させる僕を
「いや、事故ではない。真夏に鹿の
「え…………」
それ以上は、なんとなく聞かないでも想像が付いた。
「野生動物なので、ノミやダニが車内に住み着いた上に、腐敗臭がなかなかとれなくてね。私は気にしなかったんだが、ばあやと直江が
「そりゃ、そんな車は誰だって嫌ですよ! 櫻子さんと違って、普通の人は死体の臭いなんて耐えられないんです!」
しかもノミやダニまでいるなんて……と、聞いているだけでなんだか身体がむずがゆくなってしまった僕だったけど、死臭に抵抗のない櫻子さんは、ちょっと不本意そうに唇を
「まぁ、冬場はあまり出かけないからタクシーでも良かったが、やっぱりタクシーだと骨拾いには向かないだろう? 兎一匹でも臭いがすると運転手に断られるしね」
「当たり前です」
「そんな訳で、新車を買ったんだ」
「へえ」
でも持ち主が櫻子さんなら、結局また同じ事になるんじゃないのか? と思いつつ、買ったばかりだという車はとても気分が良くて、僕はゆったりとシートに背を預けて目を細めた。変わり者の櫻子さんらしく、市内であまり見かけない車だ。だけど乗り心地もいいし、僕はすっかりこの車を気に入ってしまったので、どうか二度と腐敗の進んだ動物は乗せないで欲しいと、心の底から願ってやまない。
「じゃあ、この車でドライブするのは初めてなんですか?」
「ああ。だから不慣れで事故を起こしても、私を恨むなよ?」
「…………」
「冗談だ」
「いや、笑えない冗談は止めてください」
とはいえ
かくして、僕はよく晴れた日曜の午前中を、櫻子さんの愛車の中で過ごしていた。
「で、どこに向かってるんですか?」
「
「増毛ですか」
「海に行きたいんだ」
「海か……いいですね」
成る程。納車されたばかりの車での初めてのドライブが海だなんて、ベタだけれど櫻子さんが選んだとは思えないぐらい素敵なチョイスだ。特に山に囲まれた我ら旭川市民にとって、水遊びと言えば川でするもので(旭川は川の街でもある)、海、というのはちょっと特別な場所だ、余計にテンションが上がってしまう。
青空、新車、桜に海──そんな素敵な言葉に踊らされて、僕はすっかり舞い上がっていた。でも後から思えば、何故この時点で『この事』に気がつかなかったのだろうと、我ながら
どんな時でも忘れるべきじゃなかった。櫻子さんは、いつだって死体を呼び寄せるんだっていう事を。
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