エピローグ

「空港からの帰り道に、たまたま道路脇にこれを見つけてね。死んでいたが、見たところ一時間も経っていない様子なので、その場で解体してなんとか積んできたんだが、一人でドラム缶に放り込むのは、いささか骨が折れる作業だった。私の骨がね。もちろんこれはあくまで慣用句であって、実際に私の──」

「いや、わかってますから、それ以上説明していただかなくても結構です」

 ぐらぐら煮立った庭のドラム缶に、ざぶざぶと鹿の死体を放り込んでからも、櫻子さんは上機嫌で、じようぜつだった。

 僕は一気に猛烈な疲労感を覚え、彼女とそれ以上会話をする気力がえてしまい、櫻子さんを手で制した。この人ときたらいつもこうだ。こんなに美人なのに、お嬢様なのに。あんなに素敵に笑うのに。

「百四十kg級のエゾ鹿だ。ちゃんと角も拾ってきたよ。標本にしたらさぞ立派だろう。大型動物を組むのは大変なんだが、完成した姿を想像するだけで、ああ……胸が躍るよ」

「わかったから、お茶にしましょうよ」

 こんな時は、何か甘い物で口を封じるのが一番だ。

 案の定、紅茶を上手にれられない僕が、代わりに持参したホットチョコレートをごそうすると、櫻子さんは「これは素晴らしい!」を連呼した。驚いたことに、櫻子さんは『インスタントコーヒー』というものを知らなかったらしい。お湯を入れるだけで出来る、このスイスミスのミルクホットチョコレートもしかりだ。

「そうだ、この味だ!」

 甘い物、中でも特にチョコレートが大好きな櫻子さんが喜ぶのでは? と、買い物ついでに輸入食品の店に立ち寄った僕は、この一杯分ずつパックされた、お湯を注ぐだけのホットチョコを、櫻子さんに買ってきたのだ。どうやらこれは、アメリカにホームステイした時、ホストファミリー先のお祖母ばあちゃんが振る舞ってくれた、甘いホットチョコレートによく味が似ているそうだ。同じものなのか、それともアメリカのインスタントのホットチョコがみんなこんな味なのかは知らない。でも、櫻子さんが喜んでくれたので、僕も随分気分が良かった。

「そういえば、君は珈琲コーヒーが好きだったんじゃないのかね?」

 僕には随分甘すぎるホットチョコレートに、それでも黙って口をつけていると、櫻子さんはげんそうに言った。

「好きって言うか、なんか……飲んでると大人の男の人って感じしませんか?」

「珈琲がか?」

「……子供の頃、友達の家に泊まりに行った時、朝、背広を着て、ブラックで珈琲を飲んでいた友人のお父さんを、かっこいいなあって思ったんですよ」

 大人への背伸びなら、タバコやお酒じゃないの? と母にも言われたことがあるけど、そういう背伸びの為だけに、体に悪い物を摂取するのは気が進まない。その点珈琲は眠気覚ましにもなるんだし……と、僕は一時期ブラック珈琲を美味おいしく飲める、大人の男にあこがれていたんだっけ。

「そもそも櫻子さんが、珈琲の香りの成分は死臭と同じ、なんて嫌なことを言うからですよ」

「事実だ。第一あんな苦いだけのもの、好んで飲もうという君の気が知れないね」

 好んで動物の死体をなべでちゃう、貴方あなたの気も知れないですよ……と、思ったけれど勿論言わなかった。だってこのお屋敷は、白い骨達の聖域だ。ゆっくりあたりを見回すと、くすんだ壁のあちこちに、家具の上に、木製のケースに収められた魚の骨、小動物の骨、たくさんの真っ白な骨がたたずんでいる。

 音の無い世界は、心地よかった。僕は櫻子さんの吐息と、甘いチョコレートの香りの中で目を閉じた。話すべき事や、話したいことがあったけれど、それはもっと後でいい。この屋敷に、時間なんてものは流れてないんだから。

「もう少し甘い方が良いな」

 ホットチョコレートを三分の一ぐらい飲んだ櫻子さんが、物足りなそうに言ったので、僕はニヤリと笑った。

「櫻子さんの事だから、そう言うんじゃないかと思って、実はこっちも用意してたんですよ」

 そう言って僕がかばんから取り出したのは、瓶入りの骨のように真っ白なマシュマロだった。

「おお! なんと!」

 櫻子さんが目をキラキラ輝かせ、僕にぐっと近づいてきた。うむ、有り難がって下さい、喜んで下さい。なんたってたった十二個しか入ってないのに、一瓶九百円もした高級マシュマロです。心して食べていただきたい。

「あっ」

 かぽん! と小気味良い音を立てて瓶のふたを開けると、櫻子さんはそのふっくらとして白く、丸い塊を、ポイポイ!と続けて自分の口に放り込んだ。

「ちょっと! それ、すごい高かったんですよ! 少しは遠慮とか! あ! こら!」

 そんな僕なんか何処どこ吹く風で、櫻子さんは更にマシュマロを四つ、ホットチョコレートに投入する。なんてこった、あっという間にもう半分しか残ってないじゃないか。

「はぁ…………」

 もう言葉にすら出来ないというように、幸せそうな笑顔を浮かべて、櫻子さんがためいきをついた。

「まったくもう……」

 悔しいので僕も二つマシュマロをマグカップに入れると、想像通り尋常じゃ無く甘いので、僕は更に後悔した……けれど、まぁいいさ。櫻子さんの笑顔を見ているうちに、僕の怒りはいつものようにしぼんでいった。

 まだまだ暑い日が続いているけれど、この古く、一年中ひっそりひんやりとしたお屋敷に、この温かなホットチョコレートは、つかの間の休息に、丁度良いぬくもりを僕らに感じさせてくれる。

 ガイコツ椅子に腰掛けて、ホットチョコレートをたんのうする櫻子さんに微笑みながら、僕はサイドボードに飾られたウサギの骨を、ちょん、と指で突っついた。それは小気味よい音を立てて、優しく僕らにカラカラ笑った。

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櫻子さんの足下には死体が埋まっている 太田紫織/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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