第参骨 薔薇の木の下①
■壱
尤も、僕はそんなに花に興味がある訳ではないので、どちらも自主的に行くのは皆無だし、特に千代田薔薇園の方は、『カップルで行ったら別れる』なんて都市伝説が、まことしやかに語り継がれているので、特に足が遠のいてしまっていた。……まぁ、別れる以前に、僕に彼女なんて居ないんだけど。
だから七月のある日、櫻子さんに「薔薇園に行こう」と誘われた時は、驚きつつも少し新鮮な気持ちになった。薔薇園に出かけるのは幼稚園の遠足以来だ。そういえばあの時売店で売っていた、ローズソフトという薄紅色のソフトクリームが、無性に食べたくて仕方なかったけれど、今でも売っているんだろうか……。
そんな訳で、先週祖父と今年初のイカ付けに行ったので、生干せにしたイカのお
例の如く、僕の顔を見るなり「坊ちゃんはご飯はもうお召し上がりになったんですかね」と聞いてきたばあやさんに、僕は朝からカップ
北海道の食糧自給率はおよそ二百%と言われている。特に旭川は、『道産』のこだわりが深い町だ。素材の良さに依存しすぎていて、料理のメニューには保守的だなんだと言われる事はあるものの、要するに、そんなに手をかけないでも、常にご飯が美味しいという幸せに恵まれている。勿論おいしいのは米にかぎらない。北海道民のソウルフードともいえるザンギ。言ってしまえば
両手を合わせていただきますをしてから、僕は外はカリカリで中はふっくらジューシー、肉汁たっぷりのザンギに舌鼓を打ち、ピカピカで粒のしっかり立った白米を、口いっぱいにほおばった。ゆめぴりかといえば、北のコシヒカリなんて言われる高級米だ。特売のななつぼしかほしのゆめばかりの我が家とは大違いである。まぁ、そんな風に言うと、語弊があるかもしれないけれど(ななつぼしもほしのゆめも本当に美味しいお米だ)、ゆめぴりかは特別だ。そのくらい美味しい。
甘みは控えめだけれど、
喉づまりしそうな勢いで美味しいお米を
「別にいいですけど……それにしても櫻子さんが花を見に行きたいなんて、ちょっと意外ですね」
ボイルした事でその鮮やかな紫色を損なってはいたけれど、紫アスパラはシーズンを過ぎても甘みがあって美味しい。バルサミコ酢との相性も最高なズッキーニも、ぽくぽくと
「そうか?」
「薔薇園に何か動物の死体が埋まってるっていうなら、別に驚きませんけど」
「どういう意味だ」
「いえ……」
険しい声が返ってきて、僕は慌てて顔を背けた。どういう意味かの説明をする勇気なんて、僕には無い。
「まぁいい。確かに私も別に花を見物しに行きたい訳じゃない。ただ、薔薇園の経営者である
櫻子さんは、一瞬
「ああ成る程……でも、なんで僕も一緒なんですか?」
「今は丁度薔薇の時季なんだ」
「綺麗だから、見せてくれるってそういう事ですか」
「いいや、違う。既に咲き終わった花もたくさんあるという意味だ。薔薇は花がらをすぐにとってやらないと、結実してしまって栄養が行き渡らなくなるんだ」
何を言っているんだ? と櫻子さんがゆっくりと首を振った。そりゃそうか、他でも無く櫻子さんが、そんな風に意味も無く僕を喜ばせようなんて思うはずがない。
「……つまり、庭仕事のお手伝いに行くって事ですか?」
「まあそうだな。でも、薔薇の時季は丁度サクランボの時季だ。遊びに行って庭仕事を手伝うと、必ず薔子夫人の屋敷の庭からもぎたてのサクランボをいただけるんだ──君は食べ物が絡むと、
「……まぁ、否定はしませんけど」
そりゃ、僕は食欲
「でもサクランボだったら、今時期色々なところで食べられませんか?」
盆地である旭川は寒暖の差が激しいので、様々な果物を作るにも適した気候だ。近隣に何カ所も果樹園があるし、そういった所に行けば、今時期なら
サクランボの実は樹の上から熟していくらしいので、樹の上の方まで登って食べた方が甘くて美味しい。時々アオダイショウなんかと鉢合わせしてギョッとするなんてのもご愛敬だ。そうやってスーパーで買うよりも、ずっと甘くて味の濃厚なサクランボを時間いっぱいたらふく食べるのは、他の果物狩りよりも充実感とお得感が高いのだ──まぁ、あくまで僕基準だけど。
「そうだな。でも私は私で用があるんだ。
「ああ……そういう事でしたか」
「行けばいつも一番いい花を分けて
「……つまり、その労働を僕が代われば良いんですね?」
やっと納得して、僕は
「いいですよ。今日はどうせ暇でしたし。食後の運動に丁度良いです」
かつかつと
「半分ぐらいでいいです」と言うと、ばあやさんは頷いて、お茶碗に山盛りご飯をよそってくれた。なんてこった、これじゃあおかずの配分を練り直さなきゃいけないじゃないか。でも敵も
「相変わらず君はよく食べるな」
「胃下垂なんじゃないかってよく言われます」
「ふむ。大食いの人間は胃下垂だのなんだのとよく言われるが、それは全くの迷信だ。胃下垂の人間は胃の働きが悪いので、過食などもっての外だよ。栄養も吸収されにくいので太りにくいのは確かだが、君の場合は単純に胃が大きく、代謝が良いだけだろう」
「育ち盛りですから」
「確かにそうだな。今夜は直江と食事に行く予定だ。せっかくだから君も同席したらいい。今夜も母親は不在なんだろう?」
「え? それはいいですよ、せっかくのデートなのに」
「私は別に構わない」
「いや……櫻子さんは構わないかも知れませんけど、在原さんは絶対に構います」
公安という職務上、在原さんはいつもどこで何をしているのかわからないけれど、とにかくいつも忙しそうだ。そんな中でせっかくの余暇を櫻子さんと一緒に過ごしたいと思っているのに、僕なんかが邪魔しちゃあ罰が当たる。
「久しぶりに
馬に
「じゃあ……夕食と言わないまでも、薔薇のソフトクリームをご
ソフトクリームとサクランボをご馳走になれると思えば、数時間の労働ぐらい苦にならないさ──でもこの決断が、後で思えば間違いだったように思う。僕らは薔子夫人の元を訪れるべきじゃなかったんだ。そんな僕の未来を暗示するように、なにげなく窓から仰ぎ見た空は、分厚い雲に覆われた暗い色をしていた。
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