第参骨 薔薇の木の下①

    ■壱


 はなびと街道237は、国道二三七号線に連なる旭川市と、その近郊の町が、一緒に美しい景観づくりをすすめる中で、生まれた愛称だ。最北の起点は英国風ガーデナーとして名高く、くらもとそう氏のドラマで印象深い庭を造った、ガーデンデザイナー・うえさんの上野ファームともう一つ、十年以上前から、旭川では薔薇ばらと言えば「ここ」と言われている千代田薔薇園で、どちらも四季折々れいな花で、市民や観光客を楽しませている。

 尤も、僕はそんなに花に興味がある訳ではないので、どちらも自主的に行くのは皆無だし、特に千代田薔薇園の方は、『カップルで行ったら別れる』なんて都市伝説が、まことしやかに語り継がれているので、特に足が遠のいてしまっていた。……まぁ、別れる以前に、僕に彼女なんて居ないんだけど。

 だから七月のある日、櫻子さんに「薔薇園に行こう」と誘われた時は、驚きつつも少し新鮮な気持ちになった。薔薇園に出かけるのは幼稚園の遠足以来だ。そういえばあの時売店で売っていた、ローズソフトという薄紅色のソフトクリームが、無性に食べたくて仕方なかったけれど、今でも売っているんだろうか……。

 そんな訳で、先週祖父と今年初のイカ付けに行ったので、生干せにしたイカのおすそけという名目で、櫻子さんの所に訪れていた僕は、そんな櫻子さんの誘いに驚きながら、お昼ご飯をぱくついていた。お裾分けといいながら、実際の目的はもちろんばあやさんの作ってくれる美味おいしいご飯だ。昨日から母は二泊三日の温泉旅行に行っているのだ。

 例の如く、僕の顔を見るなり「坊ちゃんはご飯はもうお召し上がりになったんですかね」と聞いてきたばあやさんに、僕は朝からカップめん一つだけだと答えると、「んまあああああ!」とばあやさんは慌ててキッチンに消えていった。そして一時間ほどして出てきたのが、この鶏ザンギにパプリカとズッキーニのバルサミコソテー、紫アスパラとクレソンのサラダ、豆腐と言えばココ!ってぐらい美味しい、お隣のひがしかわ町の名店のものと思われる、大豆の味が濃厚なお豆腐のみそ汁、そしてなべで炊いてくれたほかほかの白米だ。

 北海道の食糧自給率はおよそ二百%と言われている。特に旭川は、『道産』のこだわりが深い町だ。素材の良さに依存しすぎていて、料理のメニューには保守的だなんだと言われる事はあるものの、要するに、そんなに手をかけないでも、常にご飯が美味しいという幸せに恵まれている。勿論おいしいのは米にかぎらない。北海道民のソウルフードともいえるザンギ。言ってしまえばとりの唐揚げだけど、さんはそんな洒落じやれた言い方をしないものだ。

 両手を合わせていただきますをしてから、僕は外はカリカリで中はふっくらジューシー、肉汁たっぷりのザンギに舌鼓を打ち、ピカピカで粒のしっかり立った白米を、口いっぱいにほおばった。ゆめぴりかといえば、北のコシヒカリなんて言われる高級米だ。特売のななつぼしかほしのゆめばかりの我が家とは大違いである。まぁ、そんな風に言うと、語弊があるかもしれないけれど(ななつぼしもほしのゆめも本当に美味しいお米だ)、ゆめぴりかは特別だ。そのくらい美味しい。

 甘みは控えめだけれど、うまはしっかりあって、何より適度にもっちりとした食感が最高なので、ついつい多めに口に押し込んでしまった。米好きの兄は、いつも「米はのどで味わうんだ!」なんて言っていたけれど、今なら彼の言葉の意味がわかる気がする。

 喉づまりしそうな勢いで美味しいお米をたんのうしながら、お茶をれてくれているばあやさんににっこり笑いかけると、ばあやさんも本当にうれしそうに笑った。そんな僕の至福の時、口福を満喫している機嫌の良いタイミングを逃さずに、櫻子さんはすかさず翌日の薔薇園行きを持ちかけてきたのだった。

「別にいいですけど……それにしても櫻子さんが花を見に行きたいなんて、ちょっと意外ですね」

 ボイルした事でその鮮やかな紫色を損なってはいたけれど、紫アスパラはシーズンを過ぎても甘みがあって美味しい。バルサミコ酢との相性も最高なズッキーニも、ぽくぽくとしやくしながら、僕は思わず首を傾げてしまった。

「そうか?」

「薔薇園に何か動物の死体が埋まってるっていうなら、別に驚きませんけど」

「どういう意味だ」

「いえ……」

 険しい声が返ってきて、僕は慌てて顔を背けた。どういう意味かの説明をする勇気なんて、僕には無い。

「まぁいい。確かに私も別に花を見物しに行きたい訳じゃない。ただ、薔薇園の経営者であるしよう夫人とは、昔からじつこんにしているんだ」

 櫻子さんは、一瞬けんしわを寄せたものの、すぐに気を取り直したように話を再開した。

「ああ成る程……でも、なんで僕も一緒なんですか?」

「今は丁度薔薇の時季なんだ」

「綺麗だから、見せてくれるってそういう事ですか」

「いいや、違う。既に咲き終わった花もたくさんあるという意味だ。薔薇は花がらをすぐにとってやらないと、結実してしまって栄養が行き渡らなくなるんだ」

 何を言っているんだ? と櫻子さんがゆっくりと首を振った。そりゃそうか、他でも無く櫻子さんが、そんな風に意味も無く僕を喜ばせようなんて思うはずがない。

「……つまり、庭仕事のお手伝いに行くって事ですか?」

「まあそうだな。でも、薔薇の時季は丁度サクランボの時季だ。遊びに行って庭仕事を手伝うと、必ず薔子夫人の屋敷の庭からもぎたてのサクランボをいただけるんだ──君は食べ物が絡むと、ぜんやる気が出るだろう?」

「……まぁ、否定はしませんけど」

 そりゃ、僕は食欲おうせいな方だし、サクランボも大好物だけど。

「でもサクランボだったら、今時期色々なところで食べられませんか?」

 盆地である旭川は寒暖の差が激しいので、様々な果物を作るにも適した気候だ。近隣に何カ所も果樹園があるし、そういった所に行けば、今時期なら何処どこもつみ取り体験ができる。りん狩り、葡萄ぶどう狩り、いちご狩りなど色々あるけれど、この手の狩りモノで一番コストパフォーマンスがいいのは、僕はサクランボ狩りだと思ってる。

 サクランボの実は樹の上から熟していくらしいので、樹の上の方まで登って食べた方が甘くて美味しい。時々アオダイショウなんかと鉢合わせしてギョッとするなんてのもご愛敬だ。そうやってスーパーで買うよりも、ずっと甘くて味の濃厚なサクランボを時間いっぱいたらふく食べるのは、他の果物狩りよりも充実感とお得感が高いのだ──まぁ、あくまで僕基準だけど。

「そうだな。でも私は私で用があるんだ。明後日あさつて叔父おじの見舞いに行くので、いっとう良い花を手みやげにしたい」

「ああ……そういう事でしたか」

「行けばいつも一番いい花を分けてもらえるが、その分彼女は労働を強いるんだ」

「……つまり、その労働を僕が代われば良いんですね?」

 やっと納得して、僕はうなずいた。人にも花にも興味が無い櫻子さんでも、お見舞いに美しい花を持っていくと、相手は喜んでくれるという事はわかるらしい。そういう事なら、せんえつながらこの館脇しようろう、お供つかまつらん。

「いいですよ。今日はどうせ暇でしたし。食後の運動に丁度良いです」

 かつかつとはしを鳴らしておちやわんを空にすると、いつの間にか隣に来ていたばあやさんが、僕に向かって手を出してきた。どうやらおかわりをよそってくれるつもりらしい。

「半分ぐらいでいいです」と言うと、ばあやさんは頷いて、お茶碗に山盛りご飯をよそってくれた。なんてこった、これじゃあおかずの配分を練り直さなきゃいけないじゃないか。でも敵もる者。僕のゆうなどあざ笑うように、ばあやさんはもう一皿鶏のザンギを持ってきた。

「相変わらず君はよく食べるな」

「胃下垂なんじゃないかってよく言われます」

「ふむ。大食いの人間は胃下垂だのなんだのとよく言われるが、それは全くの迷信だ。胃下垂の人間は胃の働きが悪いので、過食などもっての外だよ。栄養も吸収されにくいので太りにくいのは確かだが、君の場合は単純に胃が大きく、代謝が良いだけだろう」

「育ち盛りですから」

「確かにそうだな。今夜は直江と食事に行く予定だ。せっかくだから君も同席したらいい。今夜も母親は不在なんだろう?」

「え? それはいいですよ、せっかくのデートなのに」

「私は別に構わない」

「いや……櫻子さんは構わないかも知れませんけど、在原さんは絶対に構います」

 公安という職務上、在原さんはいつもどこで何をしているのかわからないけれど、とにかくいつも忙しそうだ。そんな中でせっかくの余暇を櫻子さんと一緒に過ごしたいと思っているのに、僕なんかが邪魔しちゃあ罰が当たる。

「久しぶりに薔薇ばら園に行ってみたいし、僕に気遣いなんていらないですよ」

 馬にられても困るので、僕は苦笑いしてそう言った。櫻子さんはせっかくの名案をひっくり返されたとでもいうように、紅茶に唇を寄せたまま、しばらく納得がいかない顔をしていた。

「じゃあ……夕食と言わないまでも、薔薇のソフトクリームをごそうしてくださいよ。そしたら喜んでお手伝いしますから」

 ソフトクリームとサクランボをご馳走になれると思えば、数時間の労働ぐらい苦にならないさ──でもこの決断が、後で思えば間違いだったように思う。僕らは薔子夫人の元を訪れるべきじゃなかったんだ。そんな僕の未来を暗示するように、なにげなく窓から仰ぎ見た空は、分厚い雲に覆われた暗い色をしていた。

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