第参骨 薔薇の木の下②
■弐
すぐ出かけるのかと思いきや、ばあやさんがそれを許さなかった。着替えなければいけません! の一点張りで、僕は櫻子さんの外出準備に小一時間待たされた。女の人の支度に時間が掛かるのは、母の外出前の大騒ぎでわかっているけれど。でも部屋の奥でいったい何をやっているんだろう、僕はいつも不思議でたまらない。
デザートの手作りプリンも食べ終わり、アイスティーの氷がすっかり水になって、僕のスマホの充電の目盛りが一つになってしまう頃、やっと櫻子さんが解放された。
「まったく、ばあやはいつも大げさなんだ。花を貰いにいくだけじゃないか!」
そうやって不機嫌そうな櫻子さんは、顔にうっすらと化粧を施され、白いワンピースに着替えていた。今流行のぞろっと丈の長いマキシワンピースというやつだ。色は純白ではなく、
「何を見ているんだ?」
思わずボーッと見入ってしまった僕を、櫻子さんは
「いえ……」
答える声がひっくり返ってしまった。櫻子さんが美人だって事に、改めて気づかされ、なんだか妙に緊張してしまったのだ。
「では、いこうか」
でもそう言って乗り込んだ車から流れ出したのは、櫻子さんが大好きなメタルバンド、聖鬼Mk-IIのボーカル、ディアベル閣下の『犯せ! 引き裂け!』というハイトーンのシャウトで、僕はすぐに幻滅した。櫻子さんは、どんな格好をしてもやっぱり櫻子さんだった。
曇天の下、車が走り出す。てっきり真っ直ぐ薔薇園に向かうと思っていた僕は、櫻子さんのKangooが神楽の閑静な高級住宅地に向かったので困惑した。
「先に薔子夫人の家に行く」
僕が疑問を口にするより先にそう言うと、櫻子さんは慣れた道のりだという風に、迷うこと無くハンドルを切っている。あんまり遅くなると、雨が降り出すんじゃないかと心配で、僕はスマホで天気を確認した。こんなに外は暗いのに、予報では曇りのち晴れ、降水確率三十%という事だ。じゃ、今に晴れるかな? とそのまま動画サイトに寄り道しているうちに、車が一軒の豪邸の門をくぐっていったので、また驚いた。どうやらここが薔子夫人という人の住まいらしい。
「それにしても、薔薇園に隣接してお宅がある訳じゃないんですね」
「薔薇園の横に住んでいるのは、専属のガーデナー夫妻だ。オーナーの薔子夫人も、庭を薔薇で一杯にしている程薔薇を育てるのが
「へぇ……まぁ、あの規模なら、確かに一人で世話をするのは大変そうですしね」
特に薔薇は手がかかるので、外国の貴族が好んで庭に植えたと聞く。庭に
なにはともあれ、僕は薔薇園のオーナーである千代田薔子夫人の屋敷を訪れ、玄関先で「奥様は庭にいらっしゃいます」と家政婦さんに言われた後、勝手知ったる調子でずんずん庭に入っていく櫻子さんを追いかけた。甘い花の香りが満ちる中、赤、白、黄色といった、色や種類も様々な薔薇が咲いている。白い薔薇のアーチを抜けると、小ぶりの花弁を咲かせた赤い薔薇の木の前で、手袋をして
年齢は四十代半ばといった所だろうか? ビニールコーティングされたエプロンと、帽子こそつばの大きく、顔をすっぽりと覆う農作業用のものだけど、ほっそりとしていかにも品のいいベージュのワンピースに身を包んでいる。彼女は僕らに気がつき、
櫻子さんも笑顔はとびっきり可愛いけれど、この薔子夫人という人も笑顔が素敵だ。口の端にえくぼが浮かぶのもチャーミングだし、どこかあどけないというか、急に若返ったように見える。
「さァちゃん!」
そう声を上げると、薔子夫人は鋏を地面に置いて、僕らに小走りで駆け寄ってきた。
「もう、この子ったら! 本当に、どうしていつも突然来るのかしら!」
そう言いながら、薔子夫人は数本の薔薇を片手に、もう片手で櫻子さんの背中を抱くようにしてハグをした。櫻子さんと違い、いかにもセレブという感じの優雅な物腰だ。
それに引き替え、いつものジーパンに男物のワイシャツといった格好とは違い、ばあやさんの苦労が
しかもいくら親しいとはいえ、
けれどそんな
「でもね、申し訳ないけれど、今日はこれからちょっとお客様があるのよ」
「別に構わないよ、適当に頂いて良いのであれば、すぐお
「
「せっかくのお見舞いなら、私が責任持って選んであげたいのに、ごめんなさいね」
いえいえ、むしろ連絡しないで来る櫻子さんが悪いんです──僕はそう心の中で
「
「はい?」
「お
慌てて頭を下げると、ふふ、と目を細めて、薔子夫人がまた笑った。僕が『オサワさん』が誰なのかわからずに、
「お沢さんって?」
「ばあやの事だ」
二人で薔子さんの後ろを歩きながら、こっそり『オサワさん』が誰なのか櫻子さんに問う。まぁ考えてもみたら、僕の事を『坊ちゃん』なんて言うのは、ばあやさんぐらいか。セレブ
玄関先で家政婦の人に「西島さんに電話して
「
櫻子さんがそう僕に呟いた。何を当たり前のことを?と一瞬思ったけれど、よくよく考えればそれは手袋に対しての説明だったんだろう。薔薇は棘があるので、手を守るために直接薔薇に触れる部分は厚い革なんだろうな。
薔子さんが家政婦さんと話をしたり、電話をかけ始めたりしたので、僕はちょっとお屋敷を見物させて
けれど所々に置かれた絵画や彫刻が、
「主人の趣味なの」
砂澤ビッキの彫刻に施された、独特の細密な幾何学模様に見入っていると、いつの間にか後ろに立っていた薔子夫人がそう言った。
「不屈の意志や情熱を感じて……自分も負けちゃ駄目だって、そんな風に奮い立つんですって」
「それ……僕もそう思います。生命力っていうか、人間の根源的な力って言うのか……」
僕が答えると、夫人は微笑むように目を細めてから、そして不意に何か思いついたように櫻子さんを見た。
「そうだわ! さァちゃん達も一緒に参加してくれたらいいのよ」
「参加とは?」
櫻子さんが
「今夜ね、うちのサロンで降霊会をやるの」
「降霊会?」
「ほら、市議の
「薔薇は西島さん達に届けてもらってあげるから」と付け加え、どう? と櫻子さんに問うてから、薔子夫人はまた僕を見て、背中をポン、と
「貴方もいいでしょ? さァちゃん一人だと、お沢さんが心配するかもしれないし」
「はぁ……」
降霊会なんて、セレブは余暇の過ごし方もなんだかセレブっぽいじゃないか。僕はそんな事を感心しながらも、でもいきなりそんな怪しげな儀式に誘われて、どう答えればいいのかと返事に困った。
「興味がない」
それに引き替え、櫻子さんは相変わらず一刀両断だ。
「そんな事言わないで! せっかくだから、さァちゃんも出席して頂戴!」
「丁重にお断りしよう」
「もう、そんな意地悪言わなくったって!」
帽子を脱ぎながら、薔子夫人が
「本当はね、私のお茶飲み友達も出席してくれる事になっていたんだけど……ご主人が夕べから具合が
「だったら降霊会など開かなければ良いではないか」
「そう言わないで、ね? 水木さんは
思わず、そりゃそうだと頷きそうになった。
「いいでしょ?」
「申し訳ないが、今夜は直江と夕食の予定がある」
「あら、じゃあ電話しておくわ、私から断れば、あの子も文句は言わないでしょ」
そう言うと、薔子さんはとうとう実力行使というように、家政婦さんに「直ちゃんに電話して頂戴な」と声をかけた。なんてことだ。せっかく僕が同席を断ったのに、結局在原さんは櫻子さんとご飯が食べられない運命らしい。
「っていうか、在原さんの事もご存じなんですか?」
思わず僕は声を潜めて櫻子さんに聞いた。
「年齢は少し離れているが、薔子夫人は直江の
「ああ、成る程……」
やっと合点がいった。櫻子さんは在原さんと子供の頃からのつきあいだって聞いている。
夏休みに在原さんがここに来ていたなら、櫻子さんも遊びに来ていたとしても不思議はない。櫻子さんが多少の失礼を働いたとしても、子供の頃から知っているというのであれば、『困った子』で済ませられるんだろう。
「従姉、ですか」
言われてみると、薔子さんは在原さんになんとなく似ている気がする。どこがどう、と言えるほどではないけれど。そもそもいとこ同士の遺伝子の一致は、櫻子さんの話では八分の一らしいので、そんな
「まったく……降霊会なんてくだらないじゃないか」
問答無用というように、結局家政婦さんが在原さんに電話をかけ始めてしまったので、櫻子さんは文句を言いながらも、観念したように吐息を
「仕方ないな。君も同席したまえ」
「ええ~、やっぱり僕もなんですか!?」
「そのかわり、今度『
「え……あ、はい」
しまった! また食べ物につられてしまったと、僕は思わず
一度だけ在原さんに連れて行って貰ったことがあるけれど、善元は旭川市の繁華街、さんろく街のはずれに位置する寿司の名店だ。お客さんは神の手と呼ばれてテレビでも見るような、すごい名医のお医者さんとか、政治家の人とか、いかにも高そうなスーツを着た人ばっかりだったし、メニューも無い上に、二人で(というか、ほとんど僕が)食べただけなのに、三万円以上在原さんが支払っていたので失神しそうになった。
けれどこんな
「じゃあ、決まりね」
櫻子さんではなく、僕を見ていた薔子さんが、答えを聞いてにっこりした。また食べ物につられてしまった。あーあ、僕は本当に馬鹿だ。
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