第弐骨 頭《こうべ》⑥

    ■肆


「心中じゃあない」

「え?」

 パトカーに乗り込んだ櫻子さんの第一声はそれだった。

「な……なんでですか?」

 山路さんと僕がまた顔を見合わせると、櫻子さんはフン、とまた僕らを小馬鹿にしたように笑った。なんでこんな事もわからない? と、そう思っているんだろう。

「結び目がれいだった。しかもきっちりと固く結ばれている」

「それは……ほどけないようにじゃないですか?」

「だが男の方は、左手に時計をしていた。まぁ、私の許嫁いいなずけのように、利き腕に時計をする者もいないわけではないが、大抵は利き腕とは逆につけるだろう。それにベルトの向きやネクタイの縛り目を見るに、一概には言えないとはいえ、おそらく右利きの人間じゃないかと思う。なのに彼は右手を女と結んでいる。おかしいじゃないか、縛るなら利き手は残すはずだ」

「女性が縛ったのでは?」

 山路さんが、自分の左手首の時計を見ながら言った。さっき彼がボールペンを握っていた手は、右手だった。おそらく彼は右利きなんだろう。

「その可能性は確かに否定できないな。ただお互いが死んでも解けないよう手を縛るというなら、力の強い男が縛るんじゃないのか? お互いに意識があって、互いの同意の上というならば、力が強い方が縛るのが自然だ」

 確かに、一緒に死にたいと手を縛る位なんだから、絶対に解けないように強く縛る筈だ。力の強い人が縛るのが自然かも知れない。

「男性に同意の意思がなかったとは考えられませんか?」

「同意の意思がないのに抵抗しないのはおかしいだろう。男はかつぷくが良かった。体重はおそらく八十五~九十kg前後だろう──意識を失わせたとして、女性一人であの場所に運び、手を縛って海に飛び込む……というのは、重労働過ぎやしないかね?」

「でも、海にさえ入れば浮力があるんじゃ?」

 僕が言うと、櫻子さんが首を横に振った。

「ここの海は遠浅だ」

「確かに……ここはずっと浅い岩場が続いていて、泳ぐには向かないんです。危ないので海水浴場を閉鎖した方がいいとは言われていますが、そうすると海の町なのに海水浴が出来ないと言うことになってしまうので……」

 山路さんがなんだか言い訳するように言った。

「なにより、おかしいと思わないか?」

「何がですか?」

「もやい結びをしているのに、ひもが上に向かって引かれていた」

 もやい結び──キング・オブ・ノット、結びの王様。

 結びやすく、解きやすいけれど、強度も強くて安全な結び方だ。船をもやう時によく用いられるので、僕は祖父と船釣りに行った際、船主の漁師さんにその結び方を習ったことがある。

「もやい結びは……普通上に引くものですよ」

 だから僕は、空で『エアもやい結び』をしてみながら、首をひねった。

「そうだな、でも自分の手を結ぶ、という事を考えてみればわかる」

「自分の手を……?」

 そう言われて、僕はもう一度手を掲げた。まずもって片手で自分の手をもやい結びするのは、ちょっと無理がある気がして、「心中じゃない」という櫻子さんの言葉が、急に現実感を増した。とはいえ、心中相手が手伝ってくれなかったとも限らないので、ひとまず僕はもう一度自分の手を、頭の中でエアもやい結びしてみる。

 そこで、はた、と気がついた。

「……そうか、手が自分に向かい合う形になるから、結び目は逆さまになるんだ……」

 普通の固結びやリボン結びと違い、もやい結びは紐を横に引くのではなく、輪を作って上に引く。なので結び目が8の字になって、上下がはっきりとしている。

「そうだ。自分の手を結ぶなら、紐はてのひらの方に向かって引かれる。つまり、私達から見れば下ろされた手は、下に向かって紐を引かれているべきなんだ」

「確かに、自分の方に向かって紐を引いて結ぶことも出来ますけど、とても結びにくくて不自然です。そんなわざわざやりにくい方法で結ばなくてもいい……」

「もう一つ。安易な判断をするべきではないが、通常できと判断するのに二つのポイントがある。一つは手の中だ。溺死する人間は、草や砂利、藻などを苦し紛れにつかんでいることが多い。自死だとしても、本能的に何かにすがってしまうのだろうね、身体が生きて助かろうとしてしまうんだろう。そして心中遺体の特徴として、相手の髪を摑んでいる場合も多い」

「相手の髪……」

「死の苦痛は、愛なんてものをりようするのだろうね。互いに想い合って死を選んだというのに、いざその時になれば、相手を沈めてでも助かろうとする。それが本能というものさ」

 くつくつと、笑いをかみ殺すように櫻子さんが言った。けれど僕と山路さんは、一欠片も面白いなんて思えなくて、互いに顔を見合わせ、そしてうつむいた。生きたいという本能は、確かに強いものだろうし、強くあるべきだと思う。それでも、互いを沈めてでも命に縋ってしまうという現実は、ひどく哀れで、なんてもの悲しいんだろうか。

「でも……。それで何か握っているか確認したんですか?」

 そう問うと、櫻子さんはにっと笑った。死体の話をしてると思えないぐらい、無邪気な笑顔だ。

「そして二つ目は口元だ」

「口元?」

できすいの浸入による刺激で、肺は内側から粘液をしんしゆつさせる。それが肺の中の空気や、溺水と混じり合って、白く泡だって口や鼻からあふれ出すんだ。二人は見たところ、手の中に何も無ければ、泡の付着もなかった」

「…………」

 ごつ……と鈍い音がしたので運転席を見ると、山路さんが黙ってハンドルに頭を押しつけていた。

おつしやるとおり……そういったこんせきはなかったと思います」

 くぐもったような苦々しいつぶやきと共に、山路さんの口から深いためいきれた。

「従って、第三者が二人を殺害した上で、手を縛って海に捨てた可能性も視野に入れるべきだ。ボタンもまだ飛んでいなかったし、そう長い間水にかっていたわけでも無さそうだしね」

「ですが──ほんの数分遺体を見ただけで、何故そんな事が……?」

 心中という自分たちの見解が誤りかも知れないと、言うまでもなく理解したらしい山路さんが、いらちと驚きを含んだ声を絞り出した。

「簡単なことだ。私は君たちと違って、目の前の死体が他殺体である事を望んでいるからだ」

「櫻子さん、不謹慎ですよ」

 まるで亡くなった方の不幸を望むような口ぶりに、僕は櫻子さんをいさめた。

「だが本当のことだ。望んでいると言えば語弊があるかも知れないが、人間は野生動物ではない。残念ながら人間の死体は簡単に外に転がっていないんだ。だから外で死体を見つければ、私はそれが不自然だと思う。もちろん病死の可能性も多々あるが、第三者が関わっているのではないかと、私は最初からそういう目で見る──お互いの先入観の違いだな」

「検死をすれば、肺の中の溺水の有無や、はんの色、傷の生体反応等から、簡単に溺死でない事がわかるだろうが──監察医の少ない昨今だし、そもそも警察は事件というものがお好きではないようだね。一見して自殺の様相をしていれば、あなた方は捜査をせずに『自殺』として片付けてしまう可能性がある。誰だって面倒事は省きたいだろう? だから心中らしいという大義名分があれば、それ以上は調べたがらないんだ。そこが私と貴方あなた達の大きな違いだ」

「私達警察は、事件である事を望んでいないと、そうおつしやりたいんですか?」

「そういう体質だと言いたいだけだ。もちろんさいしんを持って生きる警察官もいるだろう。個々の話ではない──貴方はどうだろうね? 山路巡査。心中のようだから、調べるまでもないと、貴方達はそう結論づけた。──だけど貴方自身は、本当は遺体になんらかの違和感を抱いていたんじゃないかな。だから私が遺体を見に行くことを許したんだろう?」

「…………」

 山路さんの返事はなかった。でもその沈黙が、僕には肯定に聞こえた。

「まぁ……法医学者としても、遺体を持ち込まれるのは複雑だ。国からの予算は限られているので、検死する度に大学側は赤字になるんだ。死体一体の正確な死因を割り出すのにかかる費用は大体二十万前後だ、場合によってはそれ以上にもなる。だが国から下りてくるのはたった七万円だよ。真実を解明するという、彼らの正義感と善意に依存している部分も多いんだ」

 一口に『遺体の解剖』をするといっても、種類は大きく三つにわけられるそうだ。犯罪性が疑われる場合に行われる司法解剖、犯罪性はなくても、死因が不明な場合に衛生行政の一環で行われる行政解剖、そして病院で死亡した場合に、臨床医の依頼で行う病理解剖。今回のような場合が、司法になるのか行政になるのかは警察のさじ加減なんだろうけれど、日本に『検死官』という役職の人は存在しないし、行政解剖を専門とする所謂いわゆる『監察医』という人は、東京などの一都一府三県にしか存在していないので、結局は最寄の大学医学部の法医学の先生がそれを行う。つまり、櫻子さんの叔父おじさんのような人だ。

「たった七万円? そんなに少ないって、変じゃないですか?」

「そうだ。よく検挙率の低下など、警察を安易に責めるマスコミは多いが、そもそも国家そのものが、真剣に事件を取り締まろうとしていないのさ。検死に携わる医師自体多くない。まぁ、死因が不明な遺体が目の前にあっても、別にわざわざ開いて調べる必要はないんだよ。ただ診断書に『心不全』と書き入れればそれで終わりだ。たとえその遺体が不自然な心中を装っていようと、警察側にはなんの問題もない。その結果に異議を唱えるのは遺族だけなんだからね」

 くっくっくと、櫻子さんはさも楽しそうに笑い声を上げたけれど、山路さんも僕もちっとも笑えなかった。

「──だがね、これはおそらく他殺だ。ほどけない縛り方と考えた時に、もやい結びとすぐに出てくる人間を捜すべきだな。しかも簡単に解けないように、さらにひと結びして補強している。だからこの縛り方に熟知した者だろう。消防士や漁師というのが一般的だが、山登りをする人間という可能性もあるし、一概には言えないね。覚えれば誰にでも出来る結び方だ」

 確かに難しい縛り方じゃないし、釣りをする僕は時々使う縛り方だけど──でも一般的な縛り方じゃないと思う。そもそも櫻子さんに、この縛り方を教えたのは僕だ。新聞や雑誌を縛る時、もやい結びを使うととてもきっちりと縛れるから。だけど櫻子さんですら、それまでこの結び方を知らなかったんだ。船やロープを扱うことにけた人と考えるのが、確かに自然なような気がした。

「見ればどちらもデザインの違う結婚指輪を着けていた。おそらくそれぞれ家庭のある人間だろうから、遺族も心中という事になれば、内々に速やかに話を片付けてしまうだろうね。そこまで考えた上でというなら、なかなか上手うまい遺棄方法と言えなくもないが、方法は極めて稚拙だ。肺の中の海水の有無や生活反応等、検死をすれば水死かどうかなんてすぐにバレてしまう訳だしね。ずる賢いが、あまり知性のある人間の仕業ではないだろう……まぁ、とはいえ私には関係のないことだ。別にどちらの骨も私の物にはならないんだから」

 そこまで言うと、櫻子さんは急に満足したように、頭の後ろで手を組んで、シートに深く寄りかかった。彼女は真実が知りたいだけで、善悪に興味の無い人だ。事件の真相さえ見えれば、後はどんな犯罪が行われていようとも一向に構わないのだ。

「あなた方が心中として、面倒ごとを省きたいというのならば、それでもいいだろう」

「いえ……参考にさせていただきます」

 山路さんはゴン、ゴン、と、自分を叱責するようにハンドルに頭を打ち付けると、顔を上げてもう一度溜息を洩らし、あきらめたようにパトカーのアクセルを踏んだ。

「君は警察にしては珍しいたぐいの人間だな。その調子では出世できないぞ?」

「……そうかもしれませんね」

「まぁいい。江戸時代じゃないんだ。今時心中をするのに互いの手を結んで、しかもこんな浅い海に飛び込むなんてマネはしないだろう。練炭しかり、硫化水素然り、確実・簡単に死ぬ方法ならいくらでもある」

 僕もそう思いますよ──そう思ったけれど、口には出せなかった。これ以上、山路さんを傷つける必要なんてない。

 それから署に着くまで、僕らはそれぞれ無言だった。それまであんなに親しげだった山路さんは、それっきり他人行儀に、僕らにマニュアル通りの応対をした。山路さんに好感を抱き始めていた僕は、彼の態度に少なからずガッカリしたけれど、仕方ないとも思った。櫻子さんは人に嫌われるのが上手い。

 気まずいので帰りはタクシーに乗って戻ると言ったけれど、結局帰りも山路さんが櫻子さんの車の所まで送ってくれることになった。帰りの車内も静かで、僕らはほとんど話をしなかった。けれど、海水浴場まであと少しという所で、山路さんは突然「今日はお世話になりました」とかすれた声で言った。

「いいえ、むしろ僕たちの方がご迷惑をかけてしまって」

 慌てて僕が頭を下げると、山路さんはミラー越しに寂しそうに微笑んだ。最初僕に向かって笑ってくれたのかと思ったけれど、どうやら山路さんがミラー越しに見ていたのは櫻子さんのようだ。

 櫻子さんは僕らの事なんて何処どこを吹く風といった調子で、退屈そうに iPod で音楽を聴いていた。ヘヴィメタルが好きな櫻子さんの事だ、多分僕らの会話なんて全く聞こえていないんだろう。

「櫻子さん」

 ますます山路さんがびんに思えて、僕は櫻子さんをひじで突っついた。

「──なんだ?」

「山路さんがせっかくあいさつしてくれてるんですから、ちゃんと聞かないと失礼ですよ」

「挨拶?」

「ああ、いいんですよ! そんな、たいした事を言った訳じゃありませんし……」

「…………」

 また山路さんが黙ってしまったので、余計な気を回したせいで、逆に気を悪くしてしまったかと僕は後悔したけれど、パトカーが櫻子さんの車の後ろに停車され、僕らが車を降りた所で、彼はもう一度僕たちに笑顔で礼を言った。

「こんな時間まで本当にすいませんでしたね、お二人とも昼食もまだでしたよね」

「ええ……」

 スマホをのぞくと、もう十五時過ぎだった。

「もし良ければ私の友人の店に行かれませんか? 寿屋なんですけどね。味はそこそこですが、良い物を出す様に言っておくので」

「出来ることなら、お昼もご一緒出来たら良かったんですけどね」……そう言う山路さんは本当に名残惜しげな表情だった。

 僕らが車に乗り込んだ後も、山路さんは車を降りたまま僕らを見送ってくれようとしていたので、僕も櫻子さんも窓を開けて彼に挨拶すると、彼は運転席側の窓に手をかけて、初めて会った時よりももっと優しい表情で僕らに「また機会があれば是非遊びに来てください」と言った。

「そうだな──では、あのとうがいこつは頼んだよ。もし引き取り手が無ければ、私の所に送ってくれたまえ」

 櫻子さんが本気とも冗談ともつかない口調で言ったので、山路さんが笑い声をらした。彼は冗談と受け取ったようだけれど、多分櫻子さんは本気だ。よっぽどあの頭蓋骨が欲しくてたまらないんだろう。

「それじゃあ、今日はお世話になりました」

 僕が挨拶すると、山路さんはなんとなく寂しそうな顔をした。まだ何か言いたいって、そういう顔だった。だから僕は車の窓を上げず、櫻子さんをもう一度肘で突っついた。「なんだ?」とげんそうに櫻子さんが僕らを見る。やがて山路さんは乾いていたらしい下唇を軽くめると、覚悟を決めたように一人うなずいた。

「……引退された今でもね、先生は北海道じゃ法医学の神様なんて言われてるんですが……九条さんは後は継がれないんですか?」

「そういう事は、母が許してくれなかったのでね」

「そりゃそうか。悪い言い方になってしまいますが、私でもね、自分の娘が毎日死体を切っていじくり回すなんてのを考えると、いい気はしませんよ」

「そういうものか?」

「そりゃあね──でも……残念ですね」

 山路さんはそう言って、深く、深く息を吐いた。

「…………確かに面倒ごとは嫌ですがね、でももしね、これで本人達が潔白であるとわかったら、遺族もそりゃあうれしいだろうし。ま、私達『交番のおまわりさん』なんて、たいした事をさせてもらえる訳じゃあないですけどね、でも──今回の心中事件は、出来る限り声を上げさせて貰おうと思います。誰になんと言われようと、絶対に自殺でなんて片付けさせません」

 そうのどの奥から絞り出すように吐き出された言葉が、妙に僕の心に残った。上にたていたとしても、絶対に犯人を逮捕すると、そういう決意がひしひしと伝わってくる。

「不倫の上に心中なんて、本当に遺族には醜聞だもんなあ……」

 山路さんはつぶやくように言って空を見上げた後、僕らに「ではお気をつけて」と告げて、車から数歩離れた。

 Kangoo がゆっくりと滑り出す。

 車が走り始めると、彼は僕らに右手を上げて敬礼をして、そのまま深くお辞儀をした。山路さんは僕らの車が角を曲がって走り去るまで、ずっと頭を上げなかった。

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