第参骨 薔薇の木の下④

 帰ると言い出せないまま、やがて始まりの時間になり、サロンの明かりが落とされ、かわりに幾つものろうそくともされた。意外に明るいものだと思ったけれど、揺れるオレンジ色の光が、部屋中に無数の黒い影を刻んで、また僕の心に恐怖が覆いかぶさってくる。

「さ、始めましょうか」と、薔子さんが言ったので、めいめいが丸テーブルについた。

 霊媒師という青年だけが上座に立って僕らを見ている。その両横に、薔子さんと水木さんが座り、僕らが続いた。

「今日は、水木さんの亡くなった奥様をお呼びする会です」

 厳かな声で、霊媒師がささやくように言った。

「あら、水木さんなのね。てっきり私は千代田さんかと……」

 そう恰幅のいいご婦人が言ったので、僕はまたこっそり櫻子さんに耳打ちした。

「千代田さんっていうのは?」

「千代田明人──薔子さんの夫君だ。半年前、事故で亡くなったんだ」

「え……?」

 亡くなったと聞いて、僕はひどく驚いた。エントランスの彫刻の前で、だんさんの事を話す薔子さんの口ぶりは、まるで今も旦那さんが生きているような話し方だったからだ。だからてっきり、薔子さんの旦那さんは仕事で遠方に住んでいるか、もしくは在原さんのように忙しくて自宅に滅多に帰ってこられない人なんだと思っていたのに。

「酔って階段から落ちたらしい。痛ましい事件だが、酒が好きな人だったからある意味本望だろう」

 櫻子さんが目を細めて僕に囁いた。それなら本当に、旦那さんを呼び出せばいいのにと思ったけれど、まだ別離わかれて間もない頃には、逆につらくなるだけなのかもしれないなと、僕は一人納得した。少なくとも、薔子さんの心の中では、まだ旦那さんは生きているんだろう。

「それにしても……本当に霊なんて、現れるんですかねェ?」

 小橋さんがちょっと半信半疑という口調で言った。疑っているというよりは、どこか怒っているような、小馬鹿にしたような嫌らしい口調だったので、水木さんが険しくまゆひそめたのがわかった。けれど霊媒師は、「もちろんですよ」と事もなげにフッと笑った。

「もう、私達のそばに来ていますからね」

「え?」

 櫻子さんを除くみんなの口から、驚きの声がれる。勿論僕も例外じゃなかった。

「信じられませんか」

「ええ……ごめんなさい」

 問われた薔子さんが素直に、申し訳なさそうにうつむく。

「では、これから、霊がちょっとだけ貴方あなた悪戯いたずらをします」

「悪戯……ですか?」

 困ったように、少しおびえた声で薔子さんが首を緩く傾けた。

「霊が貴方の身体に触れます──ご心配なく、女性の霊ですから」

 優しく霊媒師が言ったので、水木さんだけがふふ、と笑った。でも薔子さんは顔を引きつらせ、笑うどころではないようだ。

「そんな……怖いわ」

「大丈夫、何も怖いことはありませんよ、少し不思議な感覚があるだけです」

「不思議な感覚とは?」

「まず手を貸していただけますか? 私の身体を通して、霊が貴方の身体に入ります」

「そんな事をして……大丈夫なんでしょうか?」

「一時的なものですからご心配なく。ただ霊が入るとき、そして入った後もしばらくは手が熱く感じるだけです」

「熱く、ですか?」

「怒りや悲しみを強く抱いた霊は冷たいですが、善良な霊というのは、温かいしのようなぬくもりを帯びているんですよ」

 霊媒師がそう言って手を差し出したので、薔子さんが僕らを見た。なんだ、結局触るのは霊じゃなくて貴方じゃないか──そう思いながら、心配している僕とは違い、眠たそうに目を閉じている櫻子さん以外の人たちは、期待のまなしを薔子さんに向けている。でも薔子さん本人は、当然ながらうれしそうじゃない。

 不意に薔子さんが助けを求めるように僕を見たので、僕は無性にいたたまれない気持ちになった。こうなったら、恐ろしいけれど代わりに僕が──そう言おうと腰を上げかけると、薔子さんは素早く首を振った。

 そして彼女は、覚悟を決めるように息を吐き、そっと霊媒師の手を取る。主催者としての責任があるというんだろうか。薔子さんのそんな決意が可哀想で、なかば怒りのようなものを感じたのは、彼女の旦那さんが亡くなったばかりと聞かされたせいかもしれない。

 霊媒師は薔子さんの手を握り、何かじゆもんのような言葉をめいりようつぶやきながら、薔子さんの手を軽くマッサージして「リラックスしてください、力を抜いて」と言った。引きつった表情で、それでも口元に努めて笑みを刻みながら、薔子夫人は深呼吸と共に、素直に霊媒師の言葉に従う。

「どうですか?」

 やがて霊媒師が問うた。

「よく……わかりませんわ」

「少しずつ、熱くなってくるはずです」

 そう言って霊媒師が薔子さんの手をでる。僕が顔をしかめていると、ややあって薔子さんが「あ……」と小さく声を洩らした。

「熱くなってきましたか?」

「ええ──ほんとうに、肌が熱くなってきました、いやだわ、怖い……」

「怖がらないでください。温かいという事は、害の無い霊です。安心して下さい、逆に怯えたり、悪い印象を持って接すると、霊は気分を害してしまいます」

「そう……霊も人間と同じなんですのね」

「ええ、まったく同じです。それどころか、肉体というくさびから解き放たれた魂というものは、生きている人間以上に感情的です」

 そう言いながら、霊媒師は薔子さんの額に手を伸ばした。

「霊はすっかり貴方の身体に入ったようです」

「そうなんですか?」

「ええ、気がつかないでしょうが、霊は既に貴方の身体を支配しています」

「え?」

「立ってみてください」

「立つ?」

「ええ、椅子から立ち上がって」

「…………」

 いぶかしげな表情をした後、薔子さんは椅子から立ち上がろうとした。

「え……」

 不意に、彼女の口から小さな悲鳴が上がった。

「どうですか?」

「変だわ、どうして立てないのかしら……」

 とても演技とは思えないような、真っ青な顔をして薔子さんがうめくように言う。

「霊の悪戯です」

「そんなの……手で押さえているんだから、当たり前じゃないですかねェ」

 あきれたように、笑いをこらえるように、もごもごと小橋さんが呟いた。

「押さえているわけではありませんよ、指先で触れているだけです」

 霊媒師がすかさず答える。

「私はあくまで霊を抑えているだけです。触れるのは指先でも十分ですよ──ほら、それでも動けませんね?」

「あ、はい……」

 霊媒師はさも手に力が入っていないというように、額に触れる手を、人差し指と中指だけにした。実際力が入っていないのかどうかは、僕にはわからない。

「これでいい。これでもう立ち上がれるはずですよ」

 やがて霊媒師は優しい口調でそう言って、また呪文を呟き、薔子さんの額から手を離した。霊媒師に促され、薔子さんはもう一度僕らを見渡した後、おそるおそる椅子から腰を上げる。

「ああ……本当に、今度は立てました」

 薔子さんが立ち上がって安心したように呟くと、水木さんが突然力強い拍手をしたので、僕も仕方なくそれに従った。櫻子さん以外の、ばらばらと控えめな拍手が静まると、霊媒師は満足げな吐息を洩らした。

「とはいえ、まだ霊はあなたの中にいます。今度は貴方の手に悪戯をすると霊は言っています」

「手ですか?」

「ええ、手です」

 霊媒師は今度は薔子さんのひじを握った。

「力を抜いて下さい。貴方の意思に関係なく、指が動くはずです」

「指が?」

 二度目という事で少しは恐怖心も和らいだらしい薔子さんは、深呼吸を一つして、目を閉じた。

 だらんと力を抜いているようで、指は軽く曲がった形になっている。

 やがてその指が、ぴくん、ぴくんと動き始めた。

「霊に、動かされていますね?」

「はい……」

 驚くような声が、薔子さんの口かられる。

「本当に、貴方が動かしているわけではないの?」

 かつぷくの良いご婦人が言うと、薔子さんが「ええ……」とうなずく。

「力は抜いているんです……不思議だわ……」

 やがて指が動かなくなると、霊媒師はまた何か呪文を唱えた後、手を離した。そして今度は薔子夫人の後ろに回り、呪文を唱えたまま十字架で背中を軽くとん、とたたいた。

「これで霊は抜けました」

 ほっとしたように、薔子さんは自分の胸元に手を置いて深呼吸をする。

「……でも、千代田夫人がグルだって可能性もあるじゃァないですか……」

 小橋さんがぼそぼそと言ったので、霊媒師は「じゃあ、貴方にも試してみましょう」と言って、一連の悪戯を今度は小橋さんにもやった。

 霊の悪戯にほんろうされたらしい小橋さんは、恐怖と驚きに、アドレナリンが過剰に出ているんだろうか、つばを飛ばしながら、異様なテンションでその体験を僕らに伝えてくれた。さっきのおどおどした姿は何処どこへやら、だ。どうやら彼もすっかり、霊の存在を信じたらしい。そもそも怖がっていたのだから、信じていなかったのでは無く、否定したかっただけなのかもしれないけれど。

 そんな小橋さんを見て、僕はすっかり恐ろしくなった。櫻子さんだけが、やっぱり退屈そうな顔をして、そっぽを向いていた。

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