三章―子― 6
「そうか、だから主上は……」
女御の懐妊の祝いを述べた時、帝の反応に違和感があったのは、そういうことだったのだ。
「そうよ、主上はすでにご承知よね。でも、どうして何もおっしゃらないのかしら」
「まずは毒への対処を優先させたんだと思うよ。あとは、真偽を確かめているか、相手を探しているのかもね」
俊元が、念誦堂の戸を開けて顔を出した。もしも、紹子が毒を混入させた犯人なら危険だと思って、控えてもらっていた。結果的に俊元も一緒に話を聞くことになった。
「え、もう一人いたん。どうしよ、うち色々としゃべっちゃったけど」
「侍従の立場にかけて、誰にも言わないよ。それに、主上の様子からなんとなく察してはいたし」
紹子は、橘侍従様か、と遅れて俊元のことを認識したらしい。
菫子は俊元の近くへ行き、どうしますかと聞いた。ここからどう動くかは決めていなかった。
「あの油を持ってきたのが、密通相手なのか、それとも東宮派の誰かなのか、見極めなければ。それによって、対応は大きく変わる」
俊元は、菫子にだけ聞こえるように顔を近づけてそう言った。
もしも、今上帝に子が生まれれば、その子が新たな東宮になる可能性が出てくる。東宮派は当然それを危惧する。この件にも、東宮派が関わっているかもしれないのだ。
紹子や双子からの視線を感じて、内緒話はこれくらいにして、本格的に方針を決めなければ。
「ひとまずは、麗景殿への探りを入れたいところだけど、あちらの女房にはあまり顔見知りがいなくてね。どうしようかな」
「以前、贈り物を取りに行かれたのではないですか」
「あの時は、荷車を受け渡してもらっただけだから。慌ただしかったし、話はほとんどしなかった」
「そうでしたか……」
紹子が、挙手をしながら、あのー、と言ってきた。
「麗景殿の女房の間で、橘侍従様はお優しげな美丈夫と評判やったよ。女房方も、橘侍従様から声をかければ、話くらいは出来ると思う」
「へえ、俺は麗景殿で人気があったのか。知らなかったな」
茶化すように言ってのける俊元は、顎に手を当てた。しばらく黙っていたから、これからどう動くかを考えているのだろう。
それにしても、俊元が麗景殿で人気と聞いて、菫子は気持ちがざわざわした。俊元が美丈夫ではないと、そう思っているわけではない。他の人もそう思うのかと、気付かされたというか。きっと麗景殿には、菫子よりも美しく、教養もある素晴らしい女性がたくさんいるのだろう。
「よし、まずは麗景殿で情報を集めることにするよ。密通相手が特定出来れば、上々」
「わたしも――いえ、わたしが行ってはご迷惑をおかけしますね。橘侍従様、よろしくお願いいたします」
「大丈夫、こういうのは俺の仕事だから」
俊元は菫子を安心させるように、微笑んだ。俊元の手が菫子の頭をそっと撫でた。触れたかどうか、ほんの少しだけ。その手が桜衣の君だと、俊元の手だと実感した。
「うちが付いて行って案内とか出来ればいいけど、さっき言った通り、嫌われてるんよねー。申し訳ない」
「いいや。充分、有益なことを教えてもらったから。感謝するよ」
俊元はその足で麗景殿へ向かった。菫子はいつも、ここからその背を見送っている。俊元の傍で、力になることはどうしても出来ない。
「ねえ、毒小町って、どういうのなん?」
紹子が興味津々といった様子でそう聞いてきた。誤って触れないよう、双子が菫子と紹子の間に座ってくれている。
「右近さん、毒小町の噂を聞いてここに来たのでは?」
「うん。毒に詳しい密殺が得意な、恐ろしい見た目の、毒小町が念誦堂にいるって」
「それ以外のことは」
「知らんのよね」
驚くというよりは、呆れた。今日は色んなことに驚き過ぎて、驚き疲れている。
菫子は、毒小町がどういう存在なのかを、説明して聞かせた。触れてはならないことすら知らなかったようで、なんとも危なっかしい。
「へー、じゃあ、話したりする分には、大丈夫なんやね」
「今まで散々話したわよ」
「それもそうやねー。全然大丈夫やわ」
ふと風向きが変わって、菫子のいる方から紹子の方へと風が流れた。髪が舞い上がってしまわないように、自分でも押さえつけて、紫苑にも手伝ってもらう。風はすぐに収まってくれたので、髪が紹子に届くほどには、なびかず安心した。
「あれ、うち、この香知ってる。確か、梅花香って中宮様がおっしゃってて、作ったんは招待した女官やったって。あ! もしかして、漆かぶれ解決した相模って、あなたのことやの」
「ええ、そうよ。毒小町が藤壺へ行ったのは、秘密だから、言わないで」
「分かった。それにしても凄いなあ。藤壺のことも、麗景殿でのことも、両方解決するやなんてな」
紹子が自分で言った、勘はいいというのは本当らしい。まさか香から当てられるとは思わなかった。
「うち、香を聞くのは好きでも、作るんは苦手で。教えてくれん?」
「わたしが、あなたに?」
「そう」
「怖くないの、わたしには毒があるのよ」
「え、だって触らなきゃいいんやよね」
深く考えていなさそうなその答えに、菫子は肩の力が抜けた。確かに、触れなきゃいい。その通りだ。
「いいんじゃない。香、教えてあげたら?」
「藤小町が、先生だね」
紫苑も紫檀も、一足先に楽しそうにしている。距離を取って、香箱などを使ってやり取りをすれば、出来ないことではない。どうにかして実現しようと考えていることに気が付いて、菫子自身も、少し楽しみに思っているのかもしれないと思った。
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