二章―香― 3
*
翌日、弥生朔日の朝に、俊元がやってきた。
「昨夜、主上がここにいらっしゃった?」
「はい。いらっしゃいました」
「はあ……」
俊元は、長くため息をついて、その場にしゃがみ込んだ。
「毎度毎度、宿直の者に気付かれずに抜け出されるから、肝が冷える」
「主上がよく抜け出されるというのは、本当だったのですね」
「ああ。たまに俺のいる侍従所にもいらっしゃるから、驚く。やめてくださいとお伝えしているけど、面白がっていらっしゃるから……」
「そのようですね」
俊元も、帝から中宮の薫物合の件は聞いているらしく、さらに詳しい話を聞かせてくれた。
薫物合は、
中宮の薫物合は、その曲水の宴とほぼ同時に行なわれ、選ばれた香を中宮自ら身に纏って、その後の宴に参加する予定なのだという。
「宴のための香選びを、せっかくなら物合としよう、とお考えになったそうだ。おかげで宴そのものに参加出来ない女房たちも楽しそうだとか」
「そうでしたか。尚更わたしなどが参加していいものかと、思ってしまいます……」
「中宮様が御所望とのことだからね、気に病むことはないよ。ところで、藤小町は薫物の嗜みは?」
「香を作ることは好きで、よく作っておりましたので、問題はないかと思います」
「そうか。じゃあ後は着物だけかな」
俊元は、持って来ていた桐の
「橘侍従様、このような上等なもの、いただけません」
「中宮様に招待されているのだから、着飾っていくのが礼儀だよ。藤小町は他の女房に引けを取らない美しさがあるのだから」
「そのようなお戯れを」
「嘘を言ったつもりはないよ。ね、紫檀、紫苑」
俊元は、双子に話を振った。二人とも櫃の中を覗き込んだ後、大きく頷いた。
「絶対、似合う」
「可愛いに決まっているじゃない!」
三対一で言い合っても勝てる気がしない。菫子はこれ以上何か言うのはやめた。近頃こういう構図が多いような気がする。
櫃から着物を取り出してみれば、衣の上等さを肌で感じた。見た目の色の美しさだけでなく、滑らかな肌触りが心地いい。
「藤小町、一度着てみてくれないか? 足りないものがあれば、当日までに用意するから」
「分かりました。こんな素敵なもの初めてだから、紫苑、手伝ってくれるかしら」
「任せてよ」
俊元と紫檀は、一旦念誦堂の外に出た。適当に散歩をしていいと言ったのだけれど、外で待っていてくれるらしい。
紫苑が、菫子よりもわくわくしながら、着物を手に広げている。いつも着替える時は紫苑も紫檀と一緒に一旦外に出てくれていたから、手伝ってもらうのは初めてだ。鈍色以外の着物に腕を通すのはいつぶりだろう。菫子は、身に纏っていた鈍色を一枚ずつ解いていく。
「じゃあ、この紅の単衣を――って、どうしたのよ! それ!」
紫苑が悲鳴にも似た声を上げ、単衣を取り落とした。
「何かあったか!? ――っ、すまない」
悲鳴を聞きつけた俊元が慌てて戸を開けたが、菫子が単衣しか身に纏っていない状況だったため、すぐに目を逸らしていた。だが、その顔に憐憫の色が見えたから、きっと見られてしまったのだ。
しどけない姿のことではない。菫子の鎖骨あたりに連なる、焼印の痕だ。紫苑が悲鳴を上げたのも、この痕を見てのことだった。
「紫苑、驚かせてごめんなさい。気にしないで」
「でも、これは」
「橘侍従様も、紫苑が失礼いたしました。お気になさらないでください」
「……」
戸の向こう側から返事はない。醜いものを見せてしまったことは、申し訳なく思っている。三つの扇形の焼け爛れた傷は、今はもう塞がって痛みはないが、見て気分のいいものではない。紫苑にも悪いことをした。
「一人で着替えるわ。ごめんなさい、紫苑」
「ちょっと驚いただけ。あたしこそ、騒いでごめん。痛くない?」
「痛くないわ。大丈夫よ」
紫苑は、少し落ち込んでいる様子だったが、引き続き手伝ってくれるようだ。紅の単衣を着て、白の着物を重ねていく。
「……藤小町」
「はい」
戸の向こうから、控えめな声で俊元に呼びかけられた。
「その焼印は、高階の者にされたのか」
そう聞かれて、誤解されていることを理解した。俊元は優しい。だから、菫子にそれを聞くことも随分と躊躇ったことが、声音から分かる。
「いいえ、違います」
菫子は俊元に話すことを決めた、菫子がどういう人間なのか。こんな風に雅やかな着物を贈られていい人間ではないことを、楽しく日々を過ごしていい人間ではないことを。それを自分で再認識するためにも。
「この焼印は、自分で付けたものです」
「自分で!? 何故、そんな」
「香道具に、灰を整える
「何故!」
どんっと外側から戸を打つ音が聞こえた。戸が僅かに振動していて、俊元が拳を打ち付けた様子が想像出来た。顔が見えない状況で良かったと、菫子は思った。
「……わたしは、三人の人間を殺めています」
「!」
紫苑の手が一瞬止まったが、何も言わずに着付けを続ける。
「十年前、わたしが六歳の頃、母が亡くなったとお話ししましたが、母を死に至らしめたのは、わたしの毒です。大叔母上に本邸に呼ばれた時、母と侍女が誤ってわたしの髪に触れてしまったのです。その後、母と侍女は床に臥せって、亡くなりました」
菫子の髪に触れた母と侍女の手には、黒い花の痣があった。どんどん弱っていく二人の様子が、菫子の毒によるものだとまざまざと見せつけられた。なのに、母は、菫子に幸せになりなさい、と言ったのだ。
「母と侍女を弔うため、念誦堂に籠り、泣き暮れる日々でした。そんな時に、桜衣の君がやってきました」
「……!」
「桜衣の君は、わたしに触れてしまっていました。堂を出た後に亡くなったと思われます」
菫子は、五衣を重ねて、さらに紅梅の表着を着て、見えなくなった傷痕に着物の上から手を当てた。
「自分の毒で、三人の命を奪ってしまった。これは、せめてもの罰です。決して忘れないために」
紫苑から蘇芳の袿を手渡され、手を借りながらそれに腕を通す。最後に桜重ねの唐衣を羽織った。春をそのまま身に纏ったかのような、可憐な装い。菫子は自分には不釣り合いだと、感じて、ゆるく袖を振った。ただ。見せないわけにもいかないから、紫苑に頼んで戸を開けてもらった。
「お待たせいたしました。足りないものはないように思います」
「そう、か」
俊元の表情は、なんと言葉をかけたらよいのか、戸惑っているのがありありと見えた。これまで普通の人と扱ってくれていたのが、ありがたいことなのだ。こんな、人を殺めた者にそんな価値はない。距離を取るのが当たり前だ。それでいい。
「では、失礼いたします」
菫子は念誦堂の戸を閉めて再び閉じ籠った。
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