二章―香― 2
*
夜遅く、細い月がわずかに空に見える頃、念誦堂の戸が叩かれた。
双子は寝ていたし、菫子も寝ようとしていたところだった。俊元はあまり夜更けには訪れないから、何かあったのかと不安がよぎる。
「どなたですか。橘侍従様ですか?」
「私だ」
「主上!?」
菫子は跳ね起きた。どうして、ここに。
慌てて戸を押し開ければ、本当に帝がそこに立っていた。しかも一人で。
「主上、何故、ここに。えっと、供の者は」
「いない。一人で来た。入れてくれるか」
「は、はい」
帝は、ゆるりと念誦堂の中へと入ってきた。この状況が飲み込めず、菫子は部屋の隅で突っ立っていた。こんなに近くで帝にお目にかかることなど、通常あり得ないことだ。服装だって、今慌てて袿を羽織ったものの、礼を欠いてしまっている。
「よい。公的な訪問ではないゆえ、気にするでない」
「しかし……」
「仕方なかろう。源大臣の進言を無視するわけにもいかず、そなたを清涼殿に呼べなくなったのだ。だから来た。心配するな、清涼殿を抜け出すことは時々しておるからのう、慣れておる。誰にも知られてはおらぬ」
「はあ……」
菫子は、気の抜けた声しか出なかった。菫子を呼べなくなったからといって、こんな大胆なことを、宮中の頂点たる帝がするなんて。今頃、帝がいなくなった清涼殿では、どうなっているのやら。
「いい加減、そこに座れ。話がしづらいであろう」
「では、失礼いたします」
「俊元から話は聞いておる。中宮のことは――――お」
菫子と帝が向かい合って座り、話し始めたところで、双子は何事かとようやく目を覚まし出した。目をこすりながら、見慣れぬ人物に眉をひそめた。
「としもと、じゃない」
「むう……誰よ」
「ほうほう、この者たちが例の小鬼か。可愛らしいのう」
帝は、愉快そうに双子をまじまじと見つめていた。俊元から双子のことは聞いているらしいが、鬼と分かったうえでこの反応とは、今上帝はなかなかな御方だ。
「だからあんた誰よー」
「紫檀、紫苑、この御方は、今上帝よ」
「は?」
「え?」
さすがの二人も、驚いている。そして、何故かぎこちない動きで首を動かして、菫子の方を見つめてきた。
「え、ちょっと、あんた帝のお手付きが? え?」
「違うわよ。紫苑、落ち着いて。ちょっと紫檀、出て行こうとしないで、落ち着いてって」
盛大な勘違いをした二人が、それぞれ慌てふためくので、収拾が大変だった。帝はその間も、おかしそうに笑って見ていた。気を悪くしたのではないならいいのだが。
二人が落ち着いたところで、帝はもう一度観察するように見つめた。
「鬼といっても見た目はそう変わらんな。何を食すのだ?」
「美味しいもの!」
「人間と、そう変わらない」
紫苑も紫檀も帝に対して敬語を使うことなく、普通に話していて、はらはらした。
「二人とも、主上の御前よ。話し方をきちんと……」
「いいじゃない。物の怪が人間の型に収まる必要ないでしょ。ねえ、帝?」
「ははっ、それはそうだな。尚薬も、そう気にするでない」
「ですが……」
「他の人がいたら、それらしくする。いい?」
紫檀がそう言って菫子を見上げてくる。どうして菫子が説得される側になっているのか。そもそも念誦堂に帝と鬼が一緒にいる光景が不思議だ。よく分からなくなってきて、考えるのをやめた。
「そなたらには、今度何か美味しいものを届けさせよう。さて、尚薬、本題だ」
「はい」
「私自身は正月当日、高熱のせいであまりよく覚えていない。中宮から聞くのは妥当と思う。だから中宮に話を付けた」
「本当にございますか」
「ああ。まずはそなたに会ってみたいと言うてな、
薫物合。
「そのような、中宮様や他の方々に危険が及ぶようなこと、出来ません」
「尚薬が毒小町であることは、中宮には話しておる。その上で、女房たちには知らせぬようにと言ってある。中宮は、工夫はしておくから安心しろ、と言っておった」
「しかし、わたしは夜しか外を歩けぬ身でございます」
「毒小町であることを伏せて、参加せよ。そなたの顔を知っている者は少ない。藤壺周辺の者で知っている者はまずおらぬ」
「ですが……」
「中宮がそなたに興味を持っておるようだ。会ってやってくれ」
帝に下手に出るような言い方をさせてしまったことに、菫子は焦った。中宮が会いたがっているのなら、話を聞くことが出来るのなら、願ってもないことだ。それでも、毒小町である菫子が、宮中の遊びに参加するなんて。
「そうだな、そこの小鬼も参加を許そう。小鬼は毒が効かぬのであろう」
ここまで言われれば、さすがに菫子が頷くしかない。
「……主上がそこまでおっしゃるのでしたら。かしこまりました」
「あたしも行くの? 藤小町を守ればいいんでしょ。任せてよ」
「紫苑、わたしから、他の方々を守るのよ。間違えないで」
「えー、そう変わらないと思うけど」
帝は菫子が了承したことに、満足そうに頷いた。
「尚薬よ」
「はい」
「ここへ来てすぐに、青梅の件を見抜いたそなたの手腕、信用しておる。焦らずともいい。時間をかけてよい。犯人を見つけ出せ」
「心得ております。必ず、お応えいたします」
「うむ。とはいえ、祭は心置きなく楽しみたいものだな」
祭というのは、
この祭まで、つまりはおおよそ、ひと月の期間が与えられたということだ。菫子は気を引き締めて、頭を垂れた。
「かしこまりました」
「そういえば、そなた、鈍色以外の着物は持っておるか。薫物合で、あの装束では毒小町と公言しているようなものであろう」
「申し訳ございません。手持ちがございません」
「ならば、下賜するか。いや、俊元に選ばせる方がよいな。言っておこう」
着物のことは帝に言われるまで思い至らなかった。だが、菫子が何か言う前に帝の中で解決したらしく、頷いていた。
「さて、長居してしまったのう。そろそろ戻るとする。ではな」
帝は、さらりと立ち上がると、戸を押し開けて、そのまま夜の庭を堂々と歩いていった。何故あれで見つからないのか不思議である。
何だか嵐が過ぎ去った後のような、疲労感があった。凄いことになってしまった気がするが、今日は大人しく寝ることにした。
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