二章―香― 2



 夜遅く、細い月がわずかに空に見える頃、念誦堂の戸が叩かれた。

 双子は寝ていたし、菫子も寝ようとしていたところだった。俊元はあまり夜更けには訪れないから、何かあったのかと不安がよぎる。


「どなたですか。橘侍従様ですか?」

「私だ」

「主上!?」


 菫子は跳ね起きた。どうして、ここに。

 慌てて戸を押し開ければ、本当に帝がそこに立っていた。しかも一人で。


「主上、何故、ここに。えっと、供の者は」

「いない。一人で来た。入れてくれるか」

「は、はい」


 帝は、ゆるりと念誦堂の中へと入ってきた。この状況が飲み込めず、菫子は部屋の隅で突っ立っていた。こんなに近くで帝にお目にかかることなど、通常あり得ないことだ。服装だって、今慌てて袿を羽織ったものの、礼を欠いてしまっている。


「よい。公的な訪問ではないゆえ、気にするでない」

「しかし……」

「仕方なかろう。源大臣の進言を無視するわけにもいかず、そなたを清涼殿に呼べなくなったのだ。だから来た。心配するな、清涼殿を抜け出すことは時々しておるからのう、慣れておる。誰にも知られてはおらぬ」

「はあ……」


 菫子は、気の抜けた声しか出なかった。菫子を呼べなくなったからといって、こんな大胆なことを、宮中の頂点たる帝がするなんて。今頃、帝がいなくなった清涼殿では、どうなっているのやら。


「いい加減、そこに座れ。話がしづらいであろう」

「では、失礼いたします」

「俊元から話は聞いておる。中宮のことは――――お」


 菫子と帝が向かい合って座り、話し始めたところで、双子は何事かとようやく目を覚まし出した。目をこすりながら、見慣れぬ人物に眉をひそめた。


「としもと、じゃない」

「むう……誰よ」

「ほうほう、この者たちが例の小鬼か。可愛らしいのう」


 帝は、愉快そうに双子をまじまじと見つめていた。俊元から双子のことは聞いているらしいが、鬼と分かったうえでこの反応とは、今上帝はなかなかな御方だ。


「だからあんた誰よー」

「紫檀、紫苑、この御方は、今上帝よ」

「は?」

「え?」


 さすがの二人も、驚いている。そして、何故かぎこちない動きで首を動かして、菫子の方を見つめてきた。


「え、ちょっと、あんた帝のお手付きが? え?」

「違うわよ。紫苑、落ち着いて。ちょっと紫檀、出て行こうとしないで、落ち着いてって」


 盛大な勘違いをした二人が、それぞれ慌てふためくので、収拾が大変だった。帝はその間も、おかしそうに笑って見ていた。気を悪くしたのではないならいいのだが。

 二人が落ち着いたところで、帝はもう一度観察するように見つめた。


「鬼といっても見た目はそう変わらんな。何を食すのだ?」

「美味しいもの!」

「人間と、そう変わらない」

 紫苑も紫檀も帝に対して敬語を使うことなく、普通に話していて、はらはらした。


「二人とも、主上の御前よ。話し方をきちんと……」

「いいじゃない。物の怪が人間の型に収まる必要ないでしょ。ねえ、帝?」

「ははっ、それはそうだな。尚薬も、そう気にするでない」

「ですが……」

「他の人がいたら、それらしくする。いい?」


 紫檀がそう言って菫子を見上げてくる。どうして菫子が説得される側になっているのか。そもそも念誦堂に帝と鬼が一緒にいる光景が不思議だ。よく分からなくなってきて、考えるのをやめた。


「そなたらには、今度何か美味しいものを届けさせよう。さて、尚薬、本題だ」

「はい」

「私自身は正月当日、高熱のせいであまりよく覚えていない。中宮から聞くのは妥当と思う。だから中宮に話を付けた」

「本当にございますか」

「ああ。まずはそなたに会ってみたいと言うてな、薫物合たきものあわせに出席して欲しいと」


 薫物合。練香ねりこうを各々持ち寄って、その香料の合わせ方によって、判者が勝敗を決める、物合ものあわせの一種だ。宮中で催される遊びの中でも、優雅で華やかなものゆえ、人も多く集まるはず。


「そのような、中宮様や他の方々に危険が及ぶようなこと、出来ません」

「尚薬が毒小町であることは、中宮には話しておる。その上で、女房たちには知らせぬようにと言ってある。中宮は、工夫はしておくから安心しろ、と言っておった」

「しかし、わたしは夜しか外を歩けぬ身でございます」


「毒小町であることを伏せて、参加せよ。そなたの顔を知っている者は少ない。藤壺周辺の者で知っている者はまずおらぬ」

「ですが……」

「中宮がそなたに興味を持っておるようだ。会ってやってくれ」


 帝に下手に出るような言い方をさせてしまったことに、菫子は焦った。中宮が会いたがっているのなら、話を聞くことが出来るのなら、願ってもないことだ。それでも、毒小町である菫子が、宮中の遊びに参加するなんて。


「そうだな、そこの小鬼も参加を許そう。小鬼は毒が効かぬのであろう」

 ここまで言われれば、さすがに菫子が頷くしかない。


「……主上がそこまでおっしゃるのでしたら。かしこまりました」

「あたしも行くの? 藤小町を守ればいいんでしょ。任せてよ」

「紫苑、わたしから、他の方々を守るのよ。間違えないで」

「えー、そう変わらないと思うけど」

 帝は菫子が了承したことに、満足そうに頷いた。


「尚薬よ」

「はい」

「ここへ来てすぐに、青梅の件を見抜いたそなたの手腕、信用しておる。焦らずともいい。時間をかけてよい。犯人を見つけ出せ」

「心得ております。必ず、お応えいたします」

「うむ。とはいえ、祭は心置きなく楽しみたいものだな」


 祭というのは、賀茂祭かものまつりのことを指す。卯月、中の酉の日に行なわれる一大行事で、特に路頭ろとうの儀と呼ばれる、斎院と勅使を中心とした行列は、路上に見物客が溢れかえるほどの人気と聞く。


 この祭まで、つまりはおおよそ、ひと月の期間が与えられたということだ。菫子は気を引き締めて、頭を垂れた。


「かしこまりました」

「そういえば、そなた、鈍色以外の着物は持っておるか。薫物合で、あの装束では毒小町と公言しているようなものであろう」

「申し訳ございません。手持ちがございません」

「ならば、下賜するか。いや、俊元に選ばせる方がよいな。言っておこう」


 着物のことは帝に言われるまで思い至らなかった。だが、菫子が何か言う前に帝の中で解決したらしく、頷いていた。


「さて、長居してしまったのう。そろそろ戻るとする。ではな」


 帝は、さらりと立ち上がると、戸を押し開けて、そのまま夜の庭を堂々と歩いていった。何故あれで見つからないのか不思議である。

 何だか嵐が過ぎ去った後のような、疲労感があった。凄いことになってしまった気がするが、今日は大人しく寝ることにした。

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