一章―始― 2


 ――こんこん


 戸が叩かれている音がした。俊元が来るのはもっと後だと思っていたのだが。菫子は、そっと戸を押し開けた。


「おはよう」

「おはようございます」

 俊元が戸のすぐ傍に立っていた。皿を乗せるための一人膳、高坏たかつきを両手に持っていた。


「朝餉を持ってきたけど、食べられる?」

「あ、ありがとうございます。わざわざ」


 美味しそうな香りが立ち上ってくる。朝餉を受け取ってありがたく頂戴する。粥や漬物、鰯の干物も用意されていた。

 俊元は入口近くに腰を下ろして、こちらを見ている。毒が入っていたとしても、効かないのにな、と思いながら菫子は食べ進める。


「毒は入ってないよ」

「!?」


 心を読まれたのかと思って、驚いて漬物を喉に詰まらせるところだった。目線でどうして、と問えば、俊元からは微笑みを返された。


「顔に出てたよ。あ、念のため確認するけど、生物でないものには、毒の効果は出ない? その器とか」

「はい。物に毒が移ることはありません。わたしの体に直接触れなければ、毒は現れませんので、例えば着物の上から触れても問題はありません。怖くてそのようなこと、させませんが」

「なるほど。俺がいれば、ある程度の調査は出来そうかな。それともう一つ、食べながらでいいから、少し聞いてもいい?」

 菫子は口をもごもごと動かしながらこくんと頷いて、肯定した。


「昨日、参内した時、付きの者が高階たかしなの家の者だったような気がしたけど、どうして?」

「それは」

「あ、言いたくないことなら、無理にとは言わないけど」

 気遣う言葉は、やはり慣れない。言いたくないわけではなく、俊元の顔を曇らせそうな話だと思っただけだ。


「高階は藤原の分家筋にあたります。わたしは、幼い頃から高階の家で過ごしてきました。毒を生まれ持った子を、高階の家に預けて隔離する決まりになっているので。礼儀作法などは大叔母上から教え込まれましたが、距離を取ってのものでしたから、間違えれば物が飛んできました」

「……」


「隔離されていましたから、侍女も最低限の食事を運ぶのみで、直接話したことはあまりありません。怖がらせたくはなかったですし」

「その頃から念誦堂で生活を?」

「念誦堂に籠るようになったのは、母が亡くなってからです。それまでは離れにいました。まあ、六歳までのことなので、あまり覚えていませんが」

「そうか」


 案の定、俊元は顔を曇らせて、言葉を探している様子だった。生まれてすぐに離れで隔離され、六歳からは念誦堂に籠った。前者はほぼ強制的であったが、後者は自分で選んだことだ。他人の事情でこんな風に心を痛める俊元の方が、よっぽど優しいと思う。

 俊元が何かを言う前に、菫子の方から問いを投げかけた。


「あの、それより、どうして今回の調査にわたしを呼んだのですか。他にも適任者はいると思うのですが」

「ああ、それに関してはまず、正月に宮中にいない、さらに言えばそれ以前もいないこと。これは騒動に関わっていない人を選ぶため。次に、毒に特化して詳しいこと。医師とか陰陽師とか、並みの知識では手掛かりが掴めなかったから。それから」


 俊元は、そこで何故か言葉を一度切った。菫子のことを見つめながら、言うべきか迷っているようにも見えた。


「それから、何ですか」

「俺の個人的な理由、かな」


 含みのある笑顔を共に返されたが、答えになっていないような。ともかく、先に聞いた二つの理由で、だいたいは納得出来た。かなり難航しそうだということも分かった。

 朝餉を完食し、そろそろ清涼殿へ移動してもいい頃合いだ。高坏を持って立ち上がろうとしたら、さっと俊元に持っていかれた。


「行こうか。ど――」

「?」


 おそらく毒小町、と呼びかけようとしたのだと思うが、俊元は止まってしまった。ちなみに、小町と付いているが、かの小野氏の姫君との関連はないらしい。美しい娘だが毒を持つ、と揶揄して先祖の周囲にいた者たちが勝手にそう呼び出したのだという。それを代々継ぐことになった。

 俊元は、少し考える素振りをしてから再び口を開いた。


「君のことは、何と呼んだらいい?」

「お好きに。毒小町、とでも」

 昨日と同じことを言ったが、俊元は首を振った。


「その呼ばれ方、君は好きじゃないだろう」

「そ、れは……」

「藤原の姫君だから、そうだな、藤小町とうのこまちと呼んでも?」

「……はい、問題ございません」


 毒小町と呼ばれ、時には自称するのは、自戒でもあった。毒を生まれ持った者が周りを傷付けてしまうことのないように。それを好き嫌いで考えたことはなかった。でも、好きではないと言われた時に否定出来なかった。嫌、だったのかもしれない。


「じゃあ、改めて。藤小町」

 俊元は片手で高坏を持ち、空いた方の手をこちらに差し出してきた。それがあまりにも自然で、菫子は困惑した。


「え、えっと」

「段差があるから、転ぶといけない」

「いえ、大丈夫……です」

「俺には毒は効かない。怖がらなくてもいい」


 そう言いつつも、差し出した手を引っ込めた。無理強いはしないようで、菫子はほっとした。俊元に毒が効かないという話を信じていないわけではないが、菫子の体の毒が絶対に効かない、とは言い切れない。それが怖い。

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