一章―始― 3
*
菫子は、俊元の後に続き、清涼殿へと向かった。昨日と同様、簀子に膝を付こうとして、帝に中へ入るように促された。父が少納言、殿上人とはいえ、菫子自身が同等の扱いになるというわけではない。とはいえ、帝が許可をし、そうするように言われたのなら、従うまで。菫子は昼御座の中へと入り、膝をついた。
「毒小町、参りました」
「そなたを、
「えっ……」
宮中に関する事務を執る、
「わたしを、でございますか」
「不服か? 毒は薬に通ずるゆえ、適役かと思うたのだが。その上となると、
「不服など、滅相もございません。わたしなどに尚薬が務まりますでしょうか。それに、現在の尚薬の方は……」
「ああ、そこは気にするでない。今はおらぬ」
「いないのですか」
尚薬が空席となったら、準ずる位置にいる者が繰り上がるはずなのだが、いないというのは、どういうことなのか。
「現在、薬司には誰も従事していないんだ。正月の事件の責任を取って、全員解任した」
「そういうことでしたか」
俊元が補足する形で説明してくれた。もし菫子が尚薬になっても部下はいない状態ということだ。そこは少し安心した。宮中で調査するには、やはり役職があった方が動きやすいという帝の配慮、無下にするわけにはいかないだろう。
「謹んでお受けいたします」
「うむ。では早速、正月の事件の話をしたいところだが、その前に
「はい。噂は不正確なものでございますから」
今上帝は、御年二十四であり、同じく二十四の弟宮がいる。これは、双子ということではなく、兄宮――帝は正室の子で、弟宮は更衣の子で、異母兄弟である。生まれは数週間の差なのだが、母の身分からいっても兄宮が優位に立つのは明らかである。半年ほど前、先帝の出家に伴い、東宮に立っていた兄宮が即位した。目の前にいる、今上帝の誕生である。当時から現在に至るまで、今上帝に子はいないため、東宮には弟宮が立った。
この兄宮と弟宮の関係はあまり良くない、という噂は確かに聞いたことがあるが、菫子はほとんど知らない。
「さて、どこから話すか」
「主上自らお話しになるのですか。そして、何故楽しそうなのですか」
俊元の言う通り、帝はわくわくしているような表情を浮かべている。正月の事件に繋がる話なら、楽しい話ではなさそうなのに。
「たまにはよいであろう。腹の探り合いをしなくてよい相手は久しぶりだからのう。……毒小町よ、そなたは私と東宮、どちらにつく?」
「どちらにもつきません。強いて申し上げるならば、尚薬として主上にお仕えする立場でございます」
「うむ」
帝は満足そうに頷いた。お気に召す答えだったようだ。この帝の周りには、従順な臣下とそう見えるだけの信用ならない臣下とが入り乱れているのだろう。事情を何も知らない上に、家の勢力も中流となれば、菫子は疑わなくてよい相手だ。どちらにもつかない、興味がないと言い切ったことも、お気に召した一因だろう。
「まずは、私が東宮になった頃のことから話すか。おそらくはそこから始まっておるからのう。五年前、先々代の帝が薨去され、先帝が即位されたのと同時に、私が東宮となった。それは知っておるな?」
「はい、存じております」
「東宮を決める直前、弟から贈り物が届いた。特別に取り寄せた高価な薬湯だと言ってな。怪しいものであったゆえ、それと分からぬようにし、礼だと言って送り返した」
何てことのないように言っているが、贈り物をそのまま送り返すとは、なんと大胆なことをする方だろうかと、菫子は息を呑んだ。そんな菫子には気付かずに、帝は話を続ける。
「弟は原因不明の病により、しばらく宮中に上がることが出来なかった。加持祈禱をさせていたようだが、先帝即位には間に合わず、大礼は欠席しておった」
意味は分かるな、と言いたげに帝は首を僅かに傾けて、菫子を見た。
弟宮は、兄宮を退けて自分が東宮になるために、毒かそれに値するものを送り付けた、ということ。兄宮はそれを切り抜けたが、弟宮は明確に敵意があることを示したようなものだ。それを口にするのはさすがに憚られるので、菫子はこくりと頷くだけにした。
「そして、今の状況は私が帝で、弟は東宮だ。私がいなくなれば、弟は念願の帝の地位を得ることとなる。だから、命を狙われているわけだ」
随分とあっけらかんと言い放ったが、その目は冷ややかだった。
「まあ……東宮は策略が得意な性格ではない。一人でしたことではなく、裏に何者かがいるのは確実だ」
「私もそう思っております。そもそも、本当に命を奪うつもりかは、微妙なところかと存じます。脅して譲位させるのが、目的かと」
「そうだな」
俊元の分析に、帝は素直に頷いた。帝は大きく息を吐くと脇息に体重をかけ、くつろぐ体勢を取った。話し手は俊元が引き継いだ。
「近頃、流れ始めた噂があるんだ。東宮を決める時、今上帝は弟宮へ毒を送り付けて東宮の座を奪い取ったのだ、と」
「それは……事実と真逆ではありませんか」
「そう。流したのは東宮派の者たちだろう。歳の変わらないご兄弟ということもあって、元々、東宮派はいたけれど、この噂のせいで、不信感を持った者も多くて、誰がどちら側なのか区別しづらい状況だ」
「噂が虚偽であると、訂正はなさらないのですか」
菫子がそう言うと、予想していた問いのようで、帝はゆるく首を振った。
「首謀者が誰か分からないうちは、訂正するつもりはない。疑わしい者がいるにはいるが……。はっきりと証拠を押さえてから、それと共に公表する。そのためには、毒の証拠が必要だ、よいな」
「かしこまりました」
かなり責任重大の調査であることを、改めて認識した。菫子は深々と頭を垂れて、気を引き締めた。もしも、弟宮が帝を殺してでも、と思っていたら。菫子の肩には帝の命そのものが乗っていることになる。意識しなくとも、肩に力が入る。
「そこまで気負うことはない。調査は俊元と共にするのだ、こやつに任せればよい」
「主上の仰せの通りに」
口にした文言ほどは、かしこまっていない様子で、俊元は軽く頭を下げた。この二人の信頼関係というか、距離の近さはどこから来るのだろうと、少し気になった。
「主上は、橘侍従様を信頼なさっているのでございますね」
「うむ。俊元の母が私の乳母であったからな。乳兄弟というわけだ」
通常、尊い方の養育は、同時期に子を産んだ、身分のある女性が担う。帝と俊元は幼い頃から共にいる間柄ということだ。信頼の高さに納得した。
「頼むぞ、毒小町」
「はい。かしこまりました」
ふと、俊元が帝に近付いて、何やら耳打ちをしていた。帝は、確かにな、と呟いてもう一度菫子の方へと向き直った。
「頼むぞ、尚薬よ」
「……!」
思わず帝ではなく、俊元へと視線を向けてしまった。毒小町と呼ぶのはやめた方がいい、という内容のことを進言してくれたようだ。宮中に仕える女官は、大抵その役職名で呼ばれるため、菫子が尚薬と呼ばれるのは自然なことではある。だが、すでに呼び名があるのにわざわざ言い直してくれたことに、心遣いを感じた。
「ありがとう、ございます」
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