一章―始― 4
*
清涼殿を後にし、菫子は一つ大きく深呼吸をした。気負うことはせず、気合いを入れた。
「じゃあ、移動しつつ、正月の事件について話すよ」
「いいのですか。他の人にも聞こえてしまうのでは?」
「事件自体は、その時に宮中にいた者なら知っているから、問題はない」
「そうでしたか。では、お教え願います」
菫子は、俊元の話を一つも聞き逃すまいと、耳に集中を傾けた。
「事件があったのは、元日節会の後、
「主上は、大丈夫だったのですか」
「大丈夫だった、ということになっている。……本当は飲んですぐに気分が悪くなり、その後、高熱を出されていた」
後半は、周りに人がいないことを確認してから小声で教えてくれた。公的には、帝は毒が効かないことになっているから、これだけは他の人に聞かれてはならない。
「童女も、その後回復はしたけれど、大問題になった。主上に毒を盛るなど、あってはならないことな上に、それが正月のめでたい席だったこと、多くの目があったはずなのに、ってね」
「それは、確かに大問題ですね。正直、主上が今普通にしていらっしゃることが信じ難いくらいです。誰とも会わない、という対策を取ってもおかしくはありませんのに」
「俺もそう進言したけど、首謀者を突き止めるためには、隠れているわけにはいかない、と仰せで。警備や毒見は強化しているけど、効果があるかというとあまりないかな。不甲斐ないけれど」
俊元は、困った笑みでそう言った。確かに、蟲毒の件も帝を狙ったものである可能性は高い。帝が表に立つことで、首謀者の尻尾を掴もうという意図は分かるが、かなり危険を伴う策である。帝自身がそう言っているのを、俊元でも止めることは出来ないのだろう。
菫子は、事件の話を聞いて、自分のすべきことを考えた。
「事件の時、使われた盃、それを入れていた壺などを見せていただきたいです。用意をした人、その場にいて出来るだけ童女に近かった人にも話を聞きたいところです」
「盃と壺は手配中だから、少し待ってて。当日童女の傍に控えていた、その子の姉には、今から話を聞きに行く」
俊元は、菫子がそう言うことを予想して、すでに動いていたらしい。調査をするとなれば当然の流れかもしれないが、仕事が早い。
「仕事は出来る方なんだ。頼ってくれていいよ」
「とても頼もしいです。よろしくお願いします」
前から、男性が歩いてきた。身なりからして
「橘侍従」
「どうかなさいましたか、
「その後ろにおる者は、例の毒小町ですかな」
「はい。正月の件で調査を行っております」
檜扇を持っていながら、菫子はつい顔を隠すのを忘れていた。親しくない男性に顔を見られるのはよろしくないとされているため、宮中の女性は男性と対する時、檜扇で顔を隠す。その習慣がない菫子は、源大臣と呼ばれた男性と目が合ってしまった。すぐに目を伏せたが、聞こえてきたのは、侮蔑の声だった。
「かようなものが宮中におるなど」
「……っ」
明らかに菫子を人として見ていない言い方であった。帝や俊元と話した直後なだけに、聞きなれた言葉がいつも以上に、それが菫子に鋭く突き刺さった。取り出しかけていた檜扇を、ぐっと握りしめる。
「源大臣殿、その言い方はいかがなものかと」
「これは失礼。
「ご心労が重なっておいでですから。源大臣殿がお力添えしていただければ、有難く存じますが」
「これから伺うところゆえ、心配せずに」
どちらも丁寧な言葉を並べてはいるが、その裏側に睨み合うような、牽制し合うような雰囲気を感じた。
源大臣は、再び菫子に目をやると、事務連絡のように淡々と告げた。
「大臣の名において、毒小町の昼間の行動を禁じる。戻りなさい」
「お待ちください、主上の命で調査をするので――」
「触れれば死ぬ毒なのでしょう。昼間に動いて死人が出たらどうするつもりですかな」
「それは」
「その代わり、夜だけは行動を許しましょう。橘侍従と共にならば」
源大臣の言うことはもっともだが、まるで俊元ならば死んでいい、とも取れる発言に、菫子は耳を疑った。話は終わりだと立ち去ろうとする源大臣に、俊元は抗議の声を上げた。
「お待ちください!」
「先を急ぐゆえ」
「うっ」
一歩前に踏み込んだ俊元を、源大臣は肘で躊躇なく押して、そのまま去っていった。肘は脇腹に当たり、俊元は体勢を崩した。後ろに倒れ込んだ。倒れたのは菫子のいる位置。菫子は慌てて身を引いた。だが、咄嗟のことで、後ろには高欄があり、避け切れなかった。
俊元の腕に、菫子の手が触れてしまった。
「……!」
気を付けていたのに。突然のことだった、なんて言い訳にならない。触れてしまった。俊元が、毒に侵されて死んでしまう。どうしよう。また、菫子のせいで人が死んでしまう。
「……はあっ、はっ、は、はあ」
呼吸が浅くなる。いくら息を吸っても、肺に入っている気がしない。肩を上下させながら、菫子はその場にしゃがみ込む。目の前がじんわりと暗くなってくる。このまま目を閉じてしまいたくなる。
「藤小町!!」
その声で、暗闇から引っ張り上げられる。驚いた拍子に、少し息を吸うことが出来た。顔を上げると、俊元と目が合う。心配そうに菫子のことを見ていた。
「橘侍従、様、毒は……」
「俺は毒が効かない体質だから、大丈夫だよ」
「本当に、本当に、何とも……ないですか」
「何ともない。大丈夫、ゆっくり息を吐いて、吸って。そう上手」
落ち着いた声で言われ、徐々に呼吸が楽になってきた。何の変化も起きていない腕を見せて、もう一度大丈夫、と言ってくれた。本当に、俊元には菫子の毒は効かないようだ。体中の力が抜けるほど安心した。
「申し訳ございませんでした」
「いや、謝るのは俺の方だ。源大臣のあれは、いつもの俺への嫌がらせだから。巻き込んで、申し訳ない」
「嫌がらせ……?」
「主上がさっき、疑わしい者がいるとおっしゃっていたのは覚えてる?」
菫子は、こくんと頷いた。
「それが、さっきの源大臣。兄帝、なんて言っていただろう。あれは帝になる弟がいるっていう揶揄だ。もちろん主上がいらっしゃるところでは言わないけれど。大臣だから、力も大きくて、確証がないとこちらも動けない。他にも関わっている東宮派はいるはずだから、そこも突き止めないといけない」
「はい、心得ております」
「……いや、今は少し休もう。念誦堂まで送るよ」
菫子は素直に頷いた。さっきは相手が俊元だったから良かったものの、他の人であったら、と考えると恐ろしい。菫子はゆっくりと立ち上がった。俊元の腕を借りるのはまだ怖くて、自分の膝に手をついて体を支えた。牛の歩みのように遅い、菫子の足に俊元は合わせて歩いてくれた。
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