三章―子― 2
*
夜更け、戸が叩かれた。今日は、双子が前に暮らしていた山に用事があるとかで、空けていた。もし、以前の女房や変な度胸試しの者だったらどうしようと、声をかけるのを少し躊躇った。が、今まではそんなこと気にしていなかったと思い直し、戸の向こうに話しかけた。
「どなたですか」
「私だ」
菫子は、安堵と呆れでため息をついた。その声は帝のものだった。また、抜け出してきたらしい。
「主上、供の者は……やはりいないのでございますね」
「うむ」
「お一人でお越しになるのは、おやめくださいませ」
「別によいであろう。息抜きも必要なことだ。近頃は特に騒がしいでな」
それを聞いて、菫子はまず言うべきことがあったと思い直して、姿勢を正した。
「主上、この度は女御様のご懐妊、おめでとうございます」
「あー……うむ。そうだな」
「?」
帝の反応が何かおかしい。女御の懐妊をめでたく思っていないかのような。第一子は中宮との子が良かったということなのか。それとも何か別の。
ふいに桐の箱が、菫子の前に差し出された。促されて開けた箱の中には、杯が収められていた。
「主上、こちらはどのような品でございますか」
「正月の時に使った杯だ。調べよ」
中宮の証言から、調べたいと思っていたけれど、まさか帝直々に持ってくるとは思わず、箱の中を二度見してしまった。
菫子は、杯を取り出して観察してみた。内も外も朱色で塗られていて、美しい品だ。きちんと洗われているようで、何か痕跡を探すのは難しいかもしれない。明日、熱湯を用意して、内側に付着したものがないかを調べてみることにする。
「こちら、しばらくお借りしてもよろしいでしょうか」
「うむ。当日はいくつか杯が用意されていたようだから、俊元が同じ形の杯を回収しておるところだ。それも合わせて調べよ」
「かしこまりました。わたしは持って来ていただくものを見るばかりで、調査は橘侍従様あってのものでございますね」
「まあ、あやつは私を裏切れないからのう」
帝は、『裏切らない』ではなく、『裏切れない』と言った。その含みのある言い方に、菫子は思わず眉をひそめてしまった。帝は、口を滑らせたな、と呟いたが、菫子のその反応を咎めることはしなかった。代わりに、少し話を聞くように言ってきた。
「二人とも幼い頃、俊元と遊んでいた時に、私が大怪我をしたことがあってな。怪我のきっかけはあったが、あれは遊んでいた延長で、大した責任ではなかった。だが、大人たちの会話を聞いて、このままでは俊元が処罰を受けてしまうと知った。会えなくなるのは嫌だと思うて、一人で転んだのだと言った。俊元を責めるなと」
帝は、昔を懐かしむように、目を細めていた。
「俊元が罰せられることはなかった。最悪、責任を取って処刑なんて馬鹿なことを言いだす者もいたゆえ、間違えたとは思うてはいない」
「あの、もしかして、それは小弓で遊んだ時、のことでございますか」
俊元から聞いた話とよく似ていると思い、菫子は恐る恐る尋ねてみた。すると、帝の目がゆっくりと見開かれていった。
「驚いた。俊元から聞いておったとは。あやつがこのことを他の者に話すとはな」
「あ、いえ、怪我をさせてしまった相手が主上だとは、おっしゃっていませんでした。今、話を聞いて、思い至ったに過ぎません。わたしも、誰にも話しておりません」
「よいよい。そなたのことも、俊元のことも責めているつもりはない」
帝はひらひらと手を振って、菫子の弁解をさらりと受け取った。一つ咳払いをして、帝は話を戻した。
「その怪我のことがあってから、元々あった俊元の忠誠心が強まった、と共に、縛り付けたのだ。私に命を救われたから、私を絶対に裏切れなくなった」
帝は寂しそうにそう言った。裏切らない、というのは、帝にとってはいいことであるのは間違いないのに、俊元自身のことを思ってのその表情なのだろうか。共に育ってきた乳兄弟は、主従だけの関係ではないのは、二人を見ていて、菫子も分かっていた。
「だからこそ」
そう言った帝の視線が菫子とぶつかった。きょとんとする菫子を見て、ふっと小さく笑っていた。
「尚薬のために、あやつが動いたのを見て、安心した。私以外の誰かのためにも動けるのだと。それでこそ、信用出来るというもの」
「橘侍従様がわたしをお呼びになったのは、主上を狙う毒の正体を突き止めるためでございましょう。わたし、ではなく主上のためかと存じますが……」
「それはそうであるが、わざわざ十年前に会った少女を見つけて、呼び寄せたのは、範疇外であろう。まあ、そなたも桜衣を大事にしておるようだし、どっちもどっちかのう」
「え……?」
帝の視線は、菫子の後ろにある桜衣に向いていた。今の話、桜衣のことを知っている、というか、桜衣の君が、俊元なのだと、そういうことにならないか。菫子は、整理が付かず、えっと、と言葉にならない声を繰り返した。
「うむ?」
菫子の様子を妙に思ったらしい帝が、しばし考えた後、ああ! と声を上げた。
「まさか、言っておらぬのか! 言わずに見守ると、力になると、そういうことか。俊元のやつ……」
帝は、腕を組んで先ほどよりも険しい顔をしている。どうするかのう、と呟いていて、顔の険しさは増すばかり。
「主上……都合の悪いことでしたら、聞かなかったことにいたします」
「だが、九割方言ってしまったからのう。これは、俊元に一発殴られようかのう……」
「お、おやめください。それは橘侍従様が不敬になって処罰を受けてしまいます」
「そうだな」
帝は、諦めがついたように、息を吐いた。そして、その口から詳しく語られた。
菫子が桜衣の君と呼ぶ少年は、父に連れられて高階家に来ていた俊元であった。偶然に念誦堂にいる菫子を見つけて、なぐさめてくれたのだ。いつか連れ出すという約束をして。その後、今上帝が即位し、俊元も侍従の立場となったことで、ある程度の融通が利くようになり、ようやく菫子を呼ぶことが出来たのだという。
「私が俊元から聞き出したのは、こんなところだ。ついこの間まで、私が念誦堂にある桜衣に気付くまで、秘密にしておったからのう。聞き出すのには苦労した」
帝の言い方からして、俊元は相当渋ったのだろうと推測出来たが、今の菫子には、それに意識はほとんど向かなかった。
「では、あの夜の桜衣の君を、わたしは……殺めてはいなかったのですね……」
相手が俊元ならば、毒の効かない俊元ならば、桜衣の君は、菫子の毒で亡くなってはいなかったのだ。あの優しい少年の命を、菫子は奪っていなかった。
「よ、よかっ、た……」
安堵から来る涙は、次から次へと、溢れ出してきて、帝の御前だというのに、止められなかった。
「おや、泣かせてしまったのう。これは俊元にも小鬼たちにも怒られそうだ。私は退散することとしよう」
必死に涙を堪えようとしていた菫子を気遣い、帝は念誦堂を後にした。一人残された菫子は、あの日の朝、桜衣があることで味わった絶望を上書きするように、ぎゅっと桜衣を抱きしめて涙を流し続けた。窓からは、十六夜月が念誦堂の中を照らしている。
「生きていてくれて、ありがとう」
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