三章 ―子―

三章―子― 1

 弥生の半ば、麗らかな日に、宮中にある知らせが駆け巡った。


 麗景殿の女御の懐妊。


 このめでたい知らせに、宮中全体が浮き立っている様子が、念誦堂にいる菫子にまで伝わってきた。中宮も女御も、帝はどちらも平等に上御局にお召しになっていたが、どちらかといえば、中宮の方が寵愛を受けているという類の話を以前聞いたことがあった。中宮は、帝が東宮の頃から共にいるのだから、当然のことと気にしていなかった。ただ、子については妃である時間とは、関係のないことなのだと、改めて思った。


「女御ってどんな人ー?」

「わたしもお会いしたことはないわ。藤原の姫君で、十九歳と聞いたわ。半年前に今上帝がお立ちになってから入内した方よ」

「藤原? じゃあ、藤小町の親戚ってこと? めでたいじゃない」

「うーん……、かなり遡れば、もしかしたら関係があるかもしれないけれど……。親戚というには、恐れ多いわ」

「そう。……誰かが、こっちに走って来る」


 紫檀が、戸を通して外を見るようにして、そう言った。確かに言われてみれば、足音が聞こえてきた。ぱたぱたと慌ただしい感じがした。


「ねえー! そこにいるんよねー!」

 足音が念誦堂の前で止まったと思ったら、大声が飛んできた。菫子と紫苑、紫檀でお互いに顔を見合わせて、首を傾げた。三人とも、声に心当たりはない。


「あれー? いないのー。毒小町さーん!」

「えっ、ちょっと」

 そんな大きな声で、毒小町と呼ばれたら困る。菫子は、呼びかけを辞めさせるために、外に出た。双子は、念のため中にいるように言った。


「あ! ほんまにいた! そもそもこんなところに念誦堂あるなんて知らんかったなあ」


 出た瞬間に目が合ったのは、一人の女房。溌剌とした瞳がこちらを見つめていた。装いは花山吹の重ねで、淡朽葉の着物の五衣に、青の単衣がのぞいている。陽の光が当たる髪は、真っ黒ではなく少し茶色がかっている。


「あなたが毒小町やね! えー、可愛い子やないの。恐ろしい見た目をしてるなんて言うたの誰よ。あなた何歳? うちは十七で――」

「……何の用かしら」

「ああ、そうやった。頼みがあるんよ」


 彼女の賑やかな声が気になってか、紫檀と紫苑が顔を覗かせている。目ざとくそれを見つけた彼女は、可愛い子が増えた! なんて声を上げたけれど、菫子はそれを流した。


「頼みって、何かしら。そもそも、どうしてここを知っているの」

「うち、色々と顔が広くて、念誦堂に毒小町がいるって小耳に挟んでな。だから、来てみたんよ」


 あっけらかんと言う彼女に、菫子は驚いた。噂程度は女官や女房にも流れているだろうが、それを信じて実際に真正面から来る人は、そういない。内緒話をするように声をひそめて、彼女は頼みを口にした。


「女御様の子を、お隠ししてほしいんよ」

「…………え?」


 今、彼女が言ったことが、理解出来なかった。隠す、は亡くなることを意味する。つまり、女御の子を、殺めてほしいと言っているのだ。


「毒小町は、毒に詳しくて、密殺が得意って聞いてな」

 それを聞いて、一瞬にして頭に血が集まった心地だった。真実と作り話が混ざって、おかしなことになっている。侮辱された気分だった。世間からそう見られていると分かっていても、面と向かって「お前は人を殺す道具だ」と言われて、怒りがふつふつと上がってきた。手のひらに爪が食い込むほど、握りしめた。


「手、痛いよ。大丈夫」

 紫檀が、菫子の手を撫でた。すっと、怒りが引いていき、目の前の彼女に向けずに済んだ。

 菫子は、すっと心を落ち着けて、彼女を見つめた。


「わたしは、進んで人を殺めたりしないわ」

「そっか。まあ、そうやよね」


 彼女の反応は、あっけらかんとしていた。そもそも、彼女の口調や態度が、人を殺めることを依頼する風ではない。度胸試しが変な方向に行っているのか。それにしては、女御の子を殺めて欲しいなんて、不謹慎がすぎる。もし誰かに聞かれたらただでは済まない。

 彼女は、うーん、と一人で悩んでいたが、再び菫子に向き合った。


「こんなこと頼むんは、良くないと思うてる。でも、でも、このままじゃ、女御様のお立場が危ういんよ……!」


 言っていることの意味が分からず、眉をひそめる。さらに何か続けようとした彼女よりも先に、紫苑が菫子と彼女の前に立ち塞がった。


「もう、子どもを殺せとか、変なこと言わないでよ! うちの子はそんなことしないんだから!」

 帰れ帰れ、と紫苑が敵意を剝き出しで言い、彼女はさすがにもう何も言わずに去っていった。






「藤小町、さっき、怒ってた?」

「うん。ありがとう、紫檀。抑えてくれて」

 紫檀は、ふるふると首を振った。それから、少し驚いたように続けた。


「最初、泣きそうなのかと思った。でも、怒ってたみたいだから、驚いた」

「それはあたしも思った。あんた、ちゃんと怒れるようになったじゃない」

 言われてみれば、昔は怒りすら沸いて来ず、そういうものだと流すか、打ちひしがれるかのどちらかだった気がする。


「……反省するわ」

「違う違う! 反省なんかしなくていいの!」

「理不尽に怒るのは、普通。いい傾向」

「そう、かしら」

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