四章―鬼― 2

 少しして、戸が叩かれた。紹子が、乳棒を忘れていたからそれを取りに来たのだろう。


「慌てて忘れてはだめよ、右近さ――え?」


 そこにいたのは、見知らぬ青年だった。見れば、彼の後ろにも大勢の男性が並んでいる。全員が同じ服装をしていた。動きやすさを重視し、脇部分を縫い合わせていない狩衣に、狩袴と呼ばれる細身で丈の短い袴を身に纏っている。蝙蝠かわほりを手にして取り澄ました様子。


 陰陽師だ。実際に相対したのは初めてだが、念誦堂を囲むように立っていて、こちらに向ける視線も好意的なものではない。菫子は咄嗟に紫檀と紫苑へ、部屋の奥にいるように手で示した。嫌な予感がする。


「ここに、陰陽寮が関与せず、使役もしていない物の怪がいるとのこと。物の怪が野放しになっている状態は見過ごせない」


 神託を告げるような、重々しい口調で念誦堂を囲んでいるうちの一人が言った。狩衣の色からしても、彼が一番上の位で、まとめ役なのだろう。


「出してもらおう」

「引き渡したら、どうするの」

「危険と判断したら、祓う」

 そういう彼らの手には、刀や弓が握られている。初めから危険だと決めつけているようだ。紫苑や紫檀を、祓わせるために渡したくない。


「断るわ」

 空気が一気に鋭くなる。


「なんだと!?」

「物の怪を庇うなど、謀反の志か」

「東宮様の容態が芳しくないのも、きっとその鬼のせいだ」

「それとも、毒小町らしく毒を盛ったか」


 一人が物の怪ではなく『鬼』と口にした。最初からここに鬼がいることを知ったうえで回りくどく、挑発してきている。怒りがふつふつと込み上げてきた。謀反でもないし、紫檀と紫苑は東宮に何もしていないし、もちろん菫子も毒を盛ったりなどしていない。


「あなた方、東宮様を診たの?」

「そうだ。陰陽頭おんみょうのかみが直々に」

「診たのに原因が分からず、それをこちらのせいにすると?」

 陰陽師たちが一瞬言葉に詰まる。


「陰陽道を否定しているわけではないわ。ただ、物の怪によるものを毒といったり、毒によるものを物の怪をいったり。それぞれを相手にして戦う者、双方への侮辱だわ」


 戸を開けた青年が、それはそうだ、と呟いていた。耳ざとく呟きを聞いた別の陰陽師に睨み付けられていた。戸を開ける、つまり毒小町に一番近い危険な役回りを、新人が担っているらしかった。


「御託はいい。物の怪を出さないなら、力づくで」

 陰陽頭の声で、他の者たちが刀や弓を構えた。いよいよ危なくなってきたが、紫檀と紫苑を引き渡すわけにはいかない。渡したくない。


 すると、菫子の横をするりと通って紫檀と紫苑が出てきてしまった。菫子の前に立ち塞がるようにして、仁王立ちをした。


「ちょっと、二人とも危ないから下がって……!」

「危ないのは藤小町じゃない。何してんの」

「弓で射られたら、危ない」


 二人が堂々と出てきたことに驚いて一瞬固まっていたが、状況を把握した陰陽師が札を二人の足元に投げつけた。


「正体を現せ!」

「!」


 その札から、突然白い煙が上がった。視界が真っ白になって、何も見えない。煙を吸ってしまったのに、むせることもなく、普通に呼吸出来ていることは不思議だった。陰陽道の術によるものか。


 視界が白かったのはほんの少しの間で、急に煙が晴れた。目の前には、赤と青、の壁。


「え……」

 菫子を護るように立っているのは、異形そのものだった。髪から見えるのは天に真っすぐ伸びる角、爪は鋭く尖っていて、口元から覗くのは長い歯、目はぎらついてその場の者を見下ろしていた。


 それは、紛れもなく、赤鬼と青鬼。


「あーもう、この姿可愛くないから嫌なのにー」

「僕も、好きじゃない」

 彼らから発せられるのは、いつもの紫檀と紫苑の声だった。赤鬼が紫檀で、青鬼は紫苑。姿は恐ろしい異形なのに、怖くはなかった。


 紫苑が、さてと、と言いながら水瓶を手にした。水で空に円を描くように、水瓶を振るった。水が空中で薄く薄く引き伸ばされて、念誦堂を丸ごと覆ってしまった。水の膜の中に入ったみたい。


「なに、これ……」

「結界。言ったでしょ、妖術で色々出来るって。まあ、こういう大がかりなのはこの姿でしか出来ないけど」


 鬼の姿を確認した、弓を手にしている陰陽師が、矢を放ってきた。菫子はしゃがんで頭を守る体勢を取った。だが、矢は一本も菫子の元へは来なかった。水の膜に弾かれて地面に転がっていた。


「紫苑。僕、外に出る」

「じゃあ、正面開けとく。いってらっしゃい」

 紫檀は、斧を持ってゆっくりと重量のある足を前に踏み出した。水の膜をするりと抜けて、呆気にとられる陰陽師たちの目の前に立った。


「よいしょ」

 軽い掛け声と共に、紫檀は斧を振り上げて、地面に叩きつけた。易々と切っ先が地面に突き刺さる。そこから稲妻が走ったかのように、地面がひび割れた。


「ひっ」

「なんだ、この力は」

 陰陽師たちが、後ずさっていく。菫子だって、紫檀の力に圧倒されて、腰が抜けそうだ。一振りで地面を割るほどの力、弓矢を跳ね返す結界。宮中の陰陽師たちを驚かせるほどの力を持つ、この二人は何者なのか。


「斧を持った赤鬼に、水瓶を持った青鬼、この力……まさか! おい、一旦下がれ!」

「何故です、陰陽頭!」


 何かに気が付いたらしい陰陽頭が、前に出ていた部下たちを下がらせた。こめかみを冷や汗が流れ落ちていくのが見えた。


「ねえ、紫苑。二人って一体……?」

「あいつらが説明してくれるんじゃない? 聞いてようよ」


 どうして下がるのかと問うている陰陽師たちと、問われている陰陽頭を指さして、紫苑が言った。少し楽しそうに、もったいぶった言い方だった。

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