一章―始― 9
*
三日経った昼下がり、念誦堂の戸が叩かれた。
「どなたですか」
「橘侍従です」
戸の向こうから、俊元の声が聞こえてきた。菫子はすぐに戸を開けたかったが、そうもいかないので、もう一度、戸に向かって声をかけた。
「中に入っていただいて、大丈夫です」
戸を引いて入ってきた俊元は、中の状況を見て、目を点にし、それから口元に手をやっておかしそうに笑った。
「ずいぶん懐いたな」
今、紫苑が菫子の膝を枕にしてくつろいでいる最中だった。俊元が入ってきたことなど気にせず、猫のようにごろごろとしている。紫檀は、室内の配置を悩んでいて、物を動かしては考えて、を繰り返している。
「違うー、この子があたしたちに懐いたの!」
「そうね」
菫子は膝の上で抗議した紫苑に、答えた。菫子が頷けば、紫苑は満足そうに笑った。
「橘侍従様、この二人もここにいてもよろしいでしょうか。主上にお許しをいただきたいのです」
「害がないのは見て分かったから、俺から主上に言っておくよ」
「ありがとうございます」
紫檀がとことことやって来て、俊元にぺこりと頭を下げた。
「ありがとう」
「いいや。こっちの小鬼は礼儀正しいようだね」
「むー、あたしを馬鹿にしてるのー! 礼くらい言うもん、ありがとー」
紫苑が頬を膨らましながら体を起こした。なんだかんだ礼は言っているのが、可愛らしい。俊元が紫檀に名を聞いていて、紫檀が二人分答えていた。その隙に紫苑は菫子の手を引き寄せて握った。温かさが気に入ったらしい。菫子は反射的に手を引きそうになるが、紫苑の力に負けて、手は持っていかれる。
「……」
俊元がその様子をじっと見ていた。さすがに視線を感じたらしい紫苑が、俊元に無邪気に言い放った。
「あんたもすればー?」
「えっ」
その発言に驚く菫子とは対照的に、俊元は静かに目を伏せて首を横に振った。
「藤小町を怖がらせたくは、ない」
その表情が悲しそうに見えたのはきっと気のせいではない。菫子はぐっと両手に力を込めて、勇気も込めて、話しかけた。
「あの、怖いのは自分の毒で、橘侍従様ではなくて。えっと、その、手、触れてもいいですか……」
俊元の目がゆっくり大きく見開かれた。もしや、さっきの表情は見間違いで、厚かましい者、と思われてしまっただろうか。急激に不安になった菫子は、やっぱり何でもない、と言いかけた。
すると、俊元がそっと菫子を窺いながら、一歩ずつ近づいてきた。菫子の様子が大丈夫だと判断したのか、俊元は真ん前に腰を下ろした。
「どうぞ。怖かったら、無理はせずに」
そうして、穏やかな微笑みと共に右手を差し出してくれた。
菫子は、自分の両手が震えているのを自覚しながらも、俊元の右手へ、手を伸ばした。指先が触れた時、怖さが背中を走った。だが、同時に俊元が、藤小町、と呼んでくれた。優しいその声音のおかげで、それ以上怖さは広がらずに済んだ。
両の手のひらで触れた俊元の手は、菫子のものより大きくて、少し骨ばっている。ぎゅっと力を込めると同じ分だけ返してくれた。紫檀や紫苑とは違う、人の温かさがじんわりと伝わってきた。それから、どうしてか鼓動が早くなってきた。ちらりと俊元を見る。
「怖くない?」
「はい」
「ん、良かった」
俊元のほっとしたような顔を見て、さらに鼓動が早まった。前に一度過呼吸を起こした相手だから? 相手が物の怪ではなく、人だから? それとも。
「さて、梅の件の報告をしようと思うけど、このままする?」
「慣れないので、一旦、離し……ます」
「分かった」
手が離れても、手にぬくもりが残っている。温かさが逃げてしまうのがなんとなく嫌で、菫子は両手を合わせて握った。
双子は俊元の報告には興味がないのか、二人で室内の配置をあーだこーだ言っている。
「結果から言うと、犯人は見つかった。
「そうでしたか、見つかって良かったです」
「一人で考えて実行したと言っているけれど、正直微妙なところかな」
「橘侍従様は、少将様に指示をした人がいるとお考えですか」
「まあね。ひとまずは、少将に公に処分が下されたし、正月の事件は無事に解決した。本当に助かった」
俊元は、膝に手をついて頭を下げた。菫子は頭を上げるように言って、こちらこそと思いを込めて、一礼をした。
「わたしが、毒小町のわたしが、主上の役に立てたなんて、夢のようです」
「主上も感謝していると伝えてほしいと仰せだった」
「もったいなきお言葉でございます」
これで、菫子の役目は終わった。褒美として、毒小町を終わらせることが出来る。詳しく状況を調べたり、家への褒美を用意したりと、まだ時間はかかるだろうから、それまでは俊元や双子といることは許されるだろう。
ふと、思い出したように俊元が言った。
「そういえば、童女には遅れて症状が出たのに、主上はすぐに症状が出たのはどうしてだろう」
「そうですね。童女の毒性がわずかに、銀の瓶に反応が出ないほど少量、移っていたのかもしれません。ただ、症状の出方は体質によるところが大きいので、毒に耐性のない主上であれば、あり得る範囲かと」
「ん? 待って、主上の耐性のこと、話していなかった?」
何のことか分からず、菫子は首を傾げた。毒に耐性があるのは俊元の方で、帝は毒に耐性はないのではなかったか。
「ああ、そうか。藤小町が自分で気付いたから、話しそびれていたのか。主上に毒が効かないという話は確かに虚偽だ。でも半分本当なんだ」
「どういうことでしょう?」
「幼い頃から、毒に体を慣らしておいでで、常人よりは毒に強いお体でいらっしゃる。そうだな、毒に耐性がない常人を一とし、俺のような全く効かない者を十とするならば、主上は四から五の耐性をお持ちだ」
「常人なら死んでしまうような毒でも、重症で済むということですか」
言いながら、菫子はさあっと血の気が引いていくのを感じた。それが本当ならば、事件は終わってなどいない。
「主上が耐性をお持ちなら、青梅の毒にあたることはございません! それほどの耐性がおありなら、盃程度の梅の粉で、熱を出されるはずがありません」
「!? ならば、別の毒が盛られていた、と」
「その可能性が高いです」
だが、童女の口にした毒は青梅で間違いない。犯人もそれを認めている。ということは、その時、帝にだけ別の毒を盛った? 誰が、どうやって。
「まずいな。俺は主上が盃をお飲みになってすぐ、童女の元に行ったから、詳しい状況が分からない。もちろん主上自身にお尋ねしてみるけれど、当日お傍にいた方々に話を聞かなくては……」
「正月の事件は終わっていないと、公表しなくてよいのですか」
「真犯人は、隠しおおせたと油断しているはずだ。その間に調べを進める。藤小町、もう少し、協力してもらえるかな」
「はい」
終わりは、まだ先のことのようだ。
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