五章―菫― 2


***


 葵祭の日付が迫ってきて忙しさが増す、ある日、俊元は梨壺にいた。


 帝からの遣いで、東宮の見舞いに来ているのだ。近頃、東宮は調子が悪く祈祷の数を増やしたとか。東宮の傍仕えの者たちは、表立って口にはしないが、俊元へぴりぴりとした視線を向けてくる。対立しているのに、見舞いに来るなんて、などと思われているのだろう。さして気にしないが。


「東宮様、橘侍従殿がお見舞いにいらっしゃったそうです」

「おお、俊元か。入ってくれ」

「しかし、東宮様、中へは近しい者しか入れてはならぬと……」

「構わぬ。俊元は兄上の乳兄弟、私にとっても兄弟のようなものだ」


 不服そうな官人だったが、東宮の言葉に従って俊元を中に入れた。もう少し感情を外に出さない工夫をすべきだと思うが、まあそれは俊元が口を出すことではない。


「東宮様、お加減はいかがでございますか。主上も大層ご心配でいらっしゃいました」

「うむ。兄上にご心配をおかけして、申し訳ないことであるな」


 東宮は、兄である帝のことを煩わしく思っている節は見られない。むしろ、尊敬しているように思える。俊元のこともこうして招き入れるくらいであるし。兄を害したい、ましてや殺したいと思ってはいないだろう。ただ、あまり頭の回る人ではなく、言葉の裏を読む能力が欠けている。周りの人間に数週間差の兄との対立を煽られ、利用されてしまっている現状だ。


「ああ、東宮様、無理して起き上がらずとも」

「しかしな、こうも頻繁に床にいると気が滅入るというものだ。俊元が来てくれて、少し気分が良くなった気がする」

「東宮様、もしや何か悪いものを口にされたのではありませんか」

「ここ数年、食事をするとよくこうして体調を崩すのだ。相当強い物の怪が憑いているのだろうと、皆が言うておる」


 上体を起こした東宮の様子が、どこかおかしいように感じた。物の怪のそれではなく、体の内側で何かが起きているような。毒ではないかという考えが浮かんだ。藤小町と共に調査をしてきたからこそ、もしやと思い至った。


 もしそうなら、祈祷を増やしたところで意味はない。藤小町に診てもらった方が、回復の手がかりが掴める。東宮が何年もこの調子なら、今回の毒の事件には全く関わっていないとみていい。完全に傀儡にされている。東宮をここまでして利用するなど、怒りが沸いてくる。


「いい薬師に心当たりがございます。出過ぎたこととは存じますが、手配させていただいてもよろしいでしょうか」

「うむ、では頼む」


 東宮は、ゆっくりと体を倒して、再び床に横になった。少し熱もあるようで、苦しそうに息を吐いていた。これ以上長居しては、かえって負担になってしまう。俊元は東宮の傍を離れた。


 梨壺から出る渡殿に差し掛かった時、後ろから声をかけられた。振り返れば、兵部大輔がいた。高階伊範これのり、確か、藤小町の大叔父にあたる人物だ。兵部大輔は、兵部卿に次ぐ兵部省の二番手の地位であり、正五位にあたる。武器の管理など軍事管理を司るため、俊元とは業務の違いもあって、今まで彼とはあまり話したことがない。


「東宮様のために、薬師を紹介してくださるとか」

「はい。主上も心配していらっしゃいます。お早い回復の助けになればと存じます」

 どうやら東宮との会話を聞いて、声をかけてきたらしい。わざわざそのために呼び止めたとは、律儀な人なのだろうか。


「それは、本当に薬師ですかな。近頃、噂の毒小町を呼ぶつもりでは?」

「お望みでございましたら、主上の許可をお取りして連れて参りましょう。知識の深い者ゆえ、主上も頼りにしておられます」

「なんと。それは困りますな」


 言い終わる前に、兵部大輔は俊元の口元に布切れを押し付けてきた。妙な香りがして、途端に眠気に襲われた。毒は効かないが、体にそう害のないものは、受け付けてしまうことがある。こういう眠りを誘うものなどは。


 意識が飛んだ。




 どれくらいの時間が経ったのか。俊元は見覚えのない物置のような場所で目を覚ました。柱ごと後ろ手に縛れていて、身動きが取れない。しばらくもがいてみたが、びくともしなかった。


「よく眠っておったな」

「兵部大輔殿……! このようなことをして、どういうおつもりですか」

「東宮様を、毒小町に診せるわけにはいかないのだ」


「それは、東宮様の不調の原因が、毒であることが露見するからですね」

「そうなっては厄介だ。第一、毒小町は今回の毒の事件の犯人だ。証拠もある。主上はそのような者を宮中に招き入れることを許可なさった。これはとんだ失策。譲位を促すほかあるまい?」


 彼が、源大臣と並んで帝を排しようとしている東宮派なのだ。毒についての入れ知恵をしたのは、兵部大輔だ。梨壺、東宮の住まいに行って、警戒をしていなかったわけではないのに、藤小町の親類という情報で、つい気が緩んでしまった。近頃、忙しくて念誦堂へ行けていないことがずっと気にかかっていた。いや、俊元が会いに行きたいと思っていた。


「彼女が犯人だと?」

「そうだ。毒に詳しいゆえに、毒で事件を起こしたのだ」

「藤小町が、犯人なわけがない!」


 自分でも驚くほどの、大きな声が出た。藤小町が、毒で人を害するようなことは絶対にしない。他の誰かを傷付けるくらいなら、自分の死を望むような、脆くて強い人。だからこそ、傍に居たいと思うのだ。


「ほう。弱みを握られて無理やり従わされているわけではないのか。意外だ。だがまあ、明日には毒小町が犯人であるという沙汰がくだる。橘侍従の名前で」

「なっ……!」

「証拠は、その後で揃えればよい話」

「藤小町を嵌めるというのか。俺の名前まで使って。卑劣な」

「あの娘に惚れたか。酔狂なことだ。……これは使えるかもしれんな、伝えておくか」

 兵部大輔は、言いたいことだけ言うと去っていった。


 そのまま、数日が経過した。生かしておくつもりはあるらしく、水と食料は与えられていた。俊元が消えて、宮中では騒ぎになっているだろう。帝も心配しているだろう。申し訳ないと思いつつも、何も出来ずに時間だけが過ぎていく。


 何やら外が騒がしい。唐突に、兵部大輔が現れて、連れ出された。外の様子を見て、ようやく騒がしさの合点がいった。



 今日は、葵祭だ。

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