二章―香― 7

「何ですの、これ」

「もしや、毒を盛られたのではありませんか」

「まさかそんな!」


 毒、という言葉に、菫子は思わず肩を震わせる。中宮からさりげなく視線を送られたことに気が付いた。わたしではない、と首を小さく横に振った。中宮は顎を引くようにして、頷いた。


「落ち着いてちょうだい」

 中宮の声で、混乱していた女房たちが、すっと静かになった。その顔には不安がありありと見える。


「手に異常がある者は、前に出てちょうだい」

 それに応えて前に進み出たのは、ここにいる人たちの三分の一ほどだった。手のひらが一際真っ赤なのは、参加者から香箱を受け取って中宮に差し出していた、女房だった。眉が下がりきって、泣きそうなのを必死に堪えている様子がいじらしい。


「あの、手を見せていただけますか」

 菫子は、気が付いたらそう口にしていた。紫苑が裾を引っ張って、ちょっと、と小声で止められたが、彼女たちの状況を見て、放ってはおけない。


 女房たちが困惑した様子で顔を見合わせていた。今回たまたま招かれただけの菫子に、突然手を見せろと言う者に、警戒するのは当然だろう。


「その者は、医術に通じているわ。見せなさい」

 中宮の助言のおかげで、女房たちは菫子へ手のひらを見せてくれた。手覆いをしているとはいえ、触れるわけにはいかない。少し距離を取って観察する。


「紫苑、この方の手をこっちに向けていただいて」

「分かった」

 見えにくいところは、紫苑に手伝ってもらった。


 ぶつぶつと湿疹が出来ていて、赤く腫れあがっている。彼女たちの様子から、相当の痒みがあるのは明らか。症状が出ているのは、手のひらのみで、手の甲や腕にはそれは見られない。


「痛くはございませんか」

「痛くはないわ」

「腫れたところを掻いてしまって、少し痛いですわ」

「私も……」


 症状がある者とない者との違いが、はっきりしない。充満した香によってのものなら、ここの全員が発症するだろうし、手のひらだけというのもおかしい。今、藤壺にあるものを見渡す。そして、菫子はある会話を思い出して、点と点が繋がった。


「そういうこと……」

「分かったの?」

 紫苑が菫子の顔を覗き込んで、尋ねてきた。菫子は、こくりと頷いて、それから症状が出た人たちに向き合った。


「灰汁で手のひらを洗い流してくださいませ。四日ほどで収まるかと思います。傷にならないよう、掻かないようにしてください」

「え、何の毒か分かりましたの?」

「誰の、誰の仕業ですか!」

 息巻く女房たちに距離を詰められて、ひやっとしたが、紫苑が間に入って取りなしてくれた。幼子を前にして、冷静になったようだ。


「これは、毒ではございません。いえ、見方によっては毒ともなり得るものではあります。……原因は、その香箱でございます」

「香箱?」

 中宮も含め、その場の全員がきょとんとしていた。菫子は、誤解を与えないように、慎重に言葉を選びながら話をする。


「皆様の症状は、漆によるかぶれだと思われます。漆の木や液状の漆に触れると、湿疹が出て赤く腫れることがございます。通常、漆は乾燥していれば、問題ありません。ただ、漆を塗り終え、乾燥させた後でも数十日ほどは、過敏な方でそのような症状が出ることがあります」

「なるほど、新調したばかりの漆塗りの香箱が、そこにあるじゃない」

 紫苑が、梅花香を持参した女房の香箱を指さした。皆の視線が香箱と、その持ち主の女房に向けられた。


「わ、私のせい……?」

「いいえ」

 泣き出しそうな彼女に向けて、菫子は首を横に振った。彼女自身が症状は出ていないから、余計に責任を感じてしまっているのだろう。


「漆かぶれの症状の有無は、人によりますし、その日の体調にもよります。普段から肌が弱くて困っているという方もいらっしゃるかと思いますし、今日の薫物合のための準備や緊張で、あまり眠れていなかった方もいらっしゃるのでは」

「あっ」

 女房の中から、心当たりがある、という反応が返ってきた。香箱の持ち主の彼女を責めるような雰囲気にはならずに済んだようだ。


「これは、偶然起きてしまったことで、悪意のある毒などではございません。かぶれは収まるまで待つしかありませんが、痒みを抑えるための薬を、後でお持ちすることは出来ます」

「お願いするわね」

「かしこまりました」

 藤壺に、安堵の空気が流れた。大事にならなくて、重症の人がいなくて、本当に良かった。菫子は紫苑と顔を見合わせて、微笑み合った。


「あの、よろしいでしょうか」

 一人の女房が、おずおずと声を上げた。中宮が発言を許可すると、彼女は、躊躇いながらも言葉を続けた。


「新しい漆器が原因ならば、曲水の宴でも同じことが起こってしまうかもしれませんわ。あちらで使う盃を、新しい漆器に変えたと聞きましたの……」

 菫子は、自分の顔が強張るのが分かった。水に濡れれば、よりかぶれの症状が出やすくなってしまうのだ。早口に中宮にそれを伝えた。


「まあ、なんてこと。今からなら間に合うわ。女官を遣わしてちょうだい」

「かしこまりました……!」


 慌ただしく、二人ほど女官が駆けていった。曲水の宴でも漆かぶれが出てしまえば、また帝の命が狙われていると騒ぎになってしまう。そうなれば、宮中は混乱してしまい、東宮派に有利となってしまうかもしれなかった。


「良かった……」

 菫子は、ほっと胸を撫でおろした。あちらには俊元も、帝もいる。中宮からの遣いを無下にすることはないだろう。


「相模」

「……は、はい」

 中宮に呼ばれたが、相模と名乗っていたことを忘れていて、返事が遅れてしまった。菫子は慌てて中宮に向き直った。


「お手柄だったわ。感謝します」

「もったいなきお言葉にございます」

「そして、あなたの持参した梅花香も、とても素敵だったわ。今回はこれを一の香に」

「ありがとうございます」


 女房たちの中には、少し悔しそうな顔をしている者もいたが、漆かぶれを見抜いた功績も相まった結果に、納得しているようだった。素敵な香りだった、と賞賛する女房もいた。香箱の女房からは、ありがとう、と感謝さえされた。慣れない賛辞と感謝に、どう応えたらいいか分からなかった。紫苑に小さな声で、笑っておきなさい、と言われ、笑顔で返すと、また笑顔が返ってきた。

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