二章―香― 6



 弥生三日、曲水の宴そして薫物合の当日。


 菫子は再び紫苑に手伝ってもらい、桜重ねの着物を身に纏った。紫苑も、貴族の子女が身に付ける細長ほそながを着て、薫物合について来ることになった。本人は動きにくいと言っているけれど、淡紅と萌黄の、桃の色目が可愛らしくて似合っている。


「紫檀はどこにいるのかしら」

「としもとと一緒に曲水の宴の方行くって言ってたよ。一応、陰陽師の祓えが終わってから合流するって言ってた」

「陰陽師は、苦手?」

「苦手っていうか、見境なく祓おうとするやつがいるから、面倒なの。あいつらはすぐあたしたちが鬼って気付くから」


 紫苑は、頬をぷくーっとさせてそう言った。怖がっているわけではなく、不満を持っているようだった。この様子なら、紫檀を心配する必要はないだろう。


「紫苑、今日はよろしくね」

「任せてよ」

 頼もしい返事を聞いて、菫子は紫苑と共に念誦堂を出た。


 薫物合が行われるのは、中宮の住まいである藤壺。帝のいる清涼殿から近いことから、弘徽殿と並んで格の高い殿舎である。今上帝の正妻たる中宮が住まうのだから、言わずもがなではあるが。


 招かれたとはいえ、そのようなところに出向くことに、菫子は緊張していた。手を握りしめれば、くしゃりと衣擦れの音がした。指先から肘までを覆う、手覆いを紫檀が作ってくれたのだ。手先が器用であっという間に作られていくそれを見て、感心した。これのおかげで誤って誰かに直接手が触れてしまうことを防げる。顔に触れるようなことはまずないので、残る懸念は髪。そこは紫苑に守ってもらうことにした。


「大丈夫。どーんと構えていればいいの。あんた可愛いし」

「不安なのは、着物のことじゃないわ」

「そうなの? としもとに可愛いって言われなかったから、自信なくしてるんじゃないの」

「違うわ、そうではなくて、薫物合が上手くいくかとか、誰にも触れずにきちんと終われるかとか、そういうことが心配で」


 ふーん、と気のない返事をして、紫苑は前からやって来る人の足音を察知して立ち止まった。菫子も立ち止まり、軽く頭を下げつつ、通り過ぎるのを待つ。

 違うと言いながら、言い訳のように言葉を並べ立てていたと、後から思った。


「行くよー」

「分かってるわ」

 菫子は、すっと背筋を伸ばして、気持ちを切り替えた。誰にも毒の危険を及ぼさず、無事に薫物合を終えること。他に気を取られていては成功しない。


 藤壺に到着すると、女房にこちらへと席に案内された。下座に案内されて腰を下ろしてから、随分と出席者同士の距離が開いていることに気が付いた。


「どうしてこんなに離れているのです?」

 参加者の一人が、疑問を口にした。先ほど菫子を案内してくれた女房がそれに答えた。


「本日は、中宮様が身に付けられる薫物を御自らお選びになりますので、互いの香りが混ざることのないようにとの、御采配でございます」

「そうでしたの。さすがは中宮様、香り一つにも素晴らしいお心配りですわ」

 菫子は、それが帝伝いで聞いた、中宮の『工夫』であることを理解した。香のため、と言いつつ、菫子が他の者と距離を取れるようにした配慮だ。


「すごい……」

 見事な采配に、思わず感嘆の声が零れた。毒小町と知ってなお会いたがる中宮を、少し不信に思っていた部分もあったのだが、そう思った自分を恥じた。


「とっておきの練香を用意しましたのよ」

「あら、私もですわ。中宮様に選んでいただければ、とても栄誉なことですもの」

「今日のために、香箱を新調しましたの」

「まあ美しい漆塗りですこと。私にも見せてくださいませ」

 女房たちが、色めき立っている。中宮に仕える女房にとっても、この薫物合は一大行事のようだ。


「中宮様がお見えになります」

 女房の声を合図に、女房たちはぴたりと話すのをやめて頭を垂れた。菫子も彼女たちに倣って礼をした。紫苑にも同様に促した。


 几帳の後ろから中宮が現れた。寧子やすこ内親王――藤壺の中宮。その呼び名を体現するかのような、紫の薄様の五衣、そして藤のかさねの小袿を一番上に纏っている。女房や女官が唐衣を身に付けて正装となるのに対して、妃などの貴人が人前に出る装いは、小袿だ。この空間で唯一、小袿を身に付けているのが、中宮である。そうでなくても、流れるような豊かな黒髪に、高貴な方に許される紫色に負けない麗しさ、満ち足りている微笑み、その全てに圧倒される。


「皆、よく参ってくれましたね」

 穏やかに春風が吹くかのように、中宮は声をかけた。


 帝の二つ上と聞いたので、二十六になる。ただ、彼女の穏やかさや落ち着きは、年齢というより、彼女自身の持ちうるものに見えた。


「あなたが橘侍従からの紹介の子ね」

「はい。相模さがみと申します。こちらは紫苑でございます」


 菫子は、今回の薫物合には偽名で参加することになっていた。藤小町や尚薬と名乗って、万が一毒小町と悟られることがないように。相模としたのは、会ったことのない年上の従兄が以前、相模守を勤めていたからだ。


「では、始めさせていただきます」

 薫物合が始まった。灰が満ちた香炉に熱した炭を入れ、それぞれに持ち寄った練香を、炭に触れないよう、灰の中に入れ込む。温められた練香から、香りが広がっていく。そうして、香りを聞く。


「あら、素敵な黒方くろぼうの香りね」

「奥ゆかしい香りが、中宮様そのものと思い、調合をさせました」

「素晴らしい香りですわ」

 その次は、香箱を新調したと言っていた女房。披露したのは、梅花香だった。


「可愛らしい梅の香りだわ」

「やはりこの季節には、梅花香がふさわしく思いますわ」


 菫子の番が来た。香炉に練香を準備して、蓋を開けた香箱に入れる。それを紫苑から女房に渡してもらう。極力触れる可能性があることは避けるべきだ。女房が、それまでの物と同じように中宮の前にそれを置いた。


「これも梅花香だけれど、合わせる人によって変わるというのは本当でございますね」

「ええ、華やかな香りの中に、静かな強さを、わたくしは感じるわ。いい香りね」

 中宮がそう言って菫子の香を褒めてくれた。無事にお気に召していただけたなら、今日の仕事の大半は終わったと思っていいだろう。


 次の香へと移ろうとした時、女房の様子に異変があった。どうしたのかと、視線を向けると、女房の手が赤くなり、いくつもの湿疹が出現している。反対の指先で手のひらを擦っていて、痒そうだ。


「申し訳ございません。手がおかしいのです。赤く、痒みが収まりません」

「私も、先ほどから痒くて仕方ありませんわ」

「何ということでしょう」

「私は何ともありませんわ、一体どうなさったの」


 場は、にわかに騒がしくなった。菫子には症状は出ていない。手覆いを付けていて、何にも触っていないからだろう。だが、他の女房たちは、症状が出ている人と出ていない人がいる。中宮は出ていない。どういうことだろう。

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