五章―菫― 6


「兵部大輔殿、大人しく投降してください」

「大人しくするのはお前のほうだ、侍従。この娘がどうなってもいいかい」


 大叔母は再び菫子に刀身を突き付けた。紫苑が蹴り飛ばそうとしているのを止め、菫子は大叔母を真正面から見つめた。俯いてばかりで、こうして面と向かって見たことはなかった。


「……なって、いません」

「は?」

「こんなの、脅しになっていません」


 菫子は、刀身を素手で掴んだ。ぐっと力を込めれば、つうっと刀身に沿って血が流れる。それは、柄を持つ大叔母の手まで迫る。


「くっ」

 大叔母は菫子の血を避けて、懐剣を手放した。二人の間には、毒の血が付着した懐剣が転がった。菫子はそれを拾い上げて、車の外に投げ捨てた。人の命を奪えるもので、脅したりしたくない。俊元が鞘で応戦したように。


 菫子は、血の流れる手のひらを大叔母に向けた。


「動かないで、ください」

 初めて、大叔母に反抗した。本当はもっと早くこうして大叔母を拒絶するべきだった。遅くなったけれど、菫子ははっきりと大叔母を退けた。


「この、失敗作のくせに」

「動かないで!」

 こちらに一歩迫って来た大叔母を、もう一度血をもってして止めた。菫子の毒は熱が出るだけで死ぬことはない。ならば、高熱を覚悟して飛び込んでくる可能性もあった。だが、母の時も、今も、自分の手は汚さず安全なところにいる。この人が、そんなことはしないと考えた。


 その読みは当たっていた。大叔母は、床に落ちた血ですら触れないようにして、腰を下ろした。刺すような視線を菫子にぶつけてきたが、今はもう怖くない。


「よく出来た、うちの子えらい!」

「ありがとう。紫苑」

 紫苑が菫子の頭を撫でる仕草をして、にっこり笑った。でも怪我なんかしちゃって、と心配しつつも怒っていて、まるで本当の母のようだった。

 菫子は、車から身を乗り出して、俊元に後を託した。


「橘侍従様。大叔父を、お願いします」

「了解」


 大叔父は、兵の一人が落とした刀を拾い上げた。感触を確かめるように何度か握り直した後、鋭い突きを俊元へ繰り出した。それを受けた俊元の鞘が、これまでにない音を上げる。


「そこらの兵とは訳が違う。鞘で勝てるつもりでいるのか」

 俊元は、大叔父の攻撃を受ける一方。じりじりと後ろに下がっていく。苦しそうに歯を食いしばっていたが、柄を握り、刀を引き抜いた。大叔父に切っ先を向けて、牽制。


「橘侍従様!」

「大丈夫」

 勝つから大丈夫なのか、殺さないから大丈夫なのか、どちらかは分からなかったが、菫子は俊元を信じるしかない。大叔母のことは、紫苑がきっちり見張ってくれているから、菫子は俊元と大叔父の戦いを見守る。


 俊元は、鞘を放り投げることはせず、二刀流のように構えた。大叔父からの頭上からの重い攻撃。刀で弾き返す。俊元は横薙ぎに鞘を振るうが、避けられる。大叔父は、さらに早く連続で攻撃をしてくる。刀を斜めにして受け流す。突きが来る。俊元は身を翻し、避ける。


「くっ」

 が、避け切れずに左腕を刀が掠めた。袍がぱっくりと裂かれ、腕には赤い血の筋が出来ていた。少し掠っただけのように見えたが、思った以上に深く斬れてしまっているらしい。血が腕を赤く染めている。


 それまで鞘でしか攻撃をしていなかった俊元が、刀を大叔父に向けて振るった。刀身がぶつかり合い、甲高い音が響いた。交差している刀に、俊元はさらに鞘を重ねる。刀を通して二人の力が拮抗する。ぐっと両者が力を加え、その反動で後ろに飛びのいた。


「はあっ!」

 一旦距離を取ったと思った、次の瞬間、俊元は間髪入れずに一歩を踏み出した。刀を大叔父の顔ぎりぎりのところで振るう。大叔父が思わずよろけたところで、鞘で脇腹、柄頭でこめかみを打った。ふらりと足元が揺れる。


 だが、まだ倒れない大叔父へ、俊元はさらに大きく一歩を踏み出して、的確にみぞおちを突いた。


「……ぐっ、あ」

 大叔父は声にならない声を上げて、地面に突っ伏した。

 刀を鞘にゆっくりと納めてから、俊元は大きく息を吐いた。菫子の方を振り返ると、その顔には疲れが滲み出ていたが、いつものように穏やかに微笑んだ。


「良かっ、た……」

 安心して、緊張していた体の力が抜けた。だが、安堵の余韻に浸る間もなく、大叔母の喚き声が耳を貫いた。


「殿! どうしてそのような者に負けているのです! 全て上手くいっていたというのに。お前が! お前が余計なことばかりするから。そう、全てお前のせいだ!!」

 大叔母は、なりふり構わず菫子に襲い掛かって来た。


「……っ」

 菫子は、血のついた手のひらを突き出そうとした。が、やはりこの毒で人を傷付けたくはない。手を握りしめて血を隠し、菫子は目を瞑った。


「あーもう、仕方ないなあ」

 ため息と共にそう呟く紫苑の声が聞こえて、菫子は瞼を押し開けた。


 紫苑は、さっと御簾を下まで下ろした。そして、ぐっと全身に力を込めたかと思うと、その姿が青鬼に変化した。車の天井いっぱいまで到達する異形の姿に、大叔母は、ひぃっとか細い声を出して、失神した。


「うるさいんだよ、ばーか!」

 すぐにいつもの子どもの姿に戻った紫苑が、腰に手を当てて、倒れた大叔母に向けてべーっと舌を出した。


 車の外で、たくさんの足音がこちらに近付いて来ていた。まだ兵がいたのかと体を強張らせる。御簾を少し押し上げて様子を窺って、杞憂であったことを知る。


「としもとー! 大丈夫?」

 紫檀が、宮中の警備の者たちを引き連れてやってきたのだった。俊元から呼んできて欲しいと頼まれていたようだ。警備の者たちは、この状況に驚いていたが、もうすぐ斎院の列がやってくるため、急いで場の収集に動き出した。


 俊元は、指示を出す役割を担い、せわしなく動いていた。伸びている兵たち、気を失っている大叔父と大叔母を拘束していく。全員を警備の者に引き渡し終えて、ようやく路上は元の通りになった。


 引き渡しが終わってすぐ、車の後ろ側から、俊元が乗り込んできた。鈍色の着物を身に纏っている菫子が外に出るわけにもいかないので、車の中で待っていたが、俊元の無事な姿をこの目で見るまで、気が気ではなかった。


「橘侍従様……!」

 乗り込んでくるなり、菫子は俊元に抱きついた。触れるのが怖い、のは二の次だった。俊元が死んでしまっていたかもしれない、失っていたかもしれない、そう思うと今更ながらに怖かった。ちゃんと、ここにいることを確かめたかった。


 俊元は、驚いていたが、優しく抱きしめ返してくれた。唯一、菫子が安心して抱きしめ合える人。とても、温かい人。


「……巻き込んで、申し訳ありませんでした」

 俊元の袍に顔を埋めたまま、菫子はそう言った。俊元が攫われて、危険な目に遭ったのは、菫子のせいだ。


 菫子の背中にまわっていた俊元の手が、菫子の頬を包み込んだ。持ち上げられるようにして、菫子は上を向かされた。近くに俊元の顔があった。


「謝罪よりも、感謝の方がいいな」

「……! ありがとう、ございます」

「どういたしまして」

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