一章―始― 6



 その夜、控えめに戸が叩かれた。俊元だと分かり、菫子はすぐに戸を開けた。何故か驚いた顔をした俊元が立っていた。


「どうかなさいましたか?」

「いや、こういうこと言うのもあれだけど、せめて戸の向こうにいるのが誰か確認してから開けた方がいいと思うよ。宮中にはたくさん人がいるから」

「ここにいらっしゃるのは橘侍従様だけなので……。ですが、そうですね。気を付けます」

 俊元はまた入口近くに腰かけると、昼間に聞いた話を教えてくれた。


「当日、薬子を務めた童女は、実家に帰されていたから、その近くにいた姉に話を聞いてきた。目新しい情報はあまり得られなかったかな。童女が手順通りに盃を受け取って、それを飲んで、女官に渡した。しばらくして、苦しそうにうずくまった、と」

「どんな風に苦しんでいたか、言っていませんでしたか」


「妹があんなことになって、かなり慌てていたから、詳しくは覚えていないと言っていた。本当なら、倒れる前のことも合わせて話したかったけれど、仕方がない。その童女が倒れてから運ばれていくまでのことを報告するよ」

「別の方にもお話を?」

「いや、その子を運んだのが俺だから」


 少し驚いた。童女が倒れた時、帝も毒を口にしてしまっていたはずだ。なのに、俊元は帝から離れていたと言う。


「主上から命じられたんだ。その子を死なすな、とね。毒を口にしたらしい童女に近寄ろうとする者は誰もいない。姉は取り乱していたし。俺が抱えて医師の元まで運んだ。俺ならどんな毒であろうと関係ないから」

「そうでしたか」

「童女は、おそらく眩暈を起こしていた。自力では立てなかったし、頭が痛い、とも言っていた。それから……異様に汗をかいていた、と思う」

「なるほど」


 菫子は頭の中で、症状から毒の特定を試みるが、いくつかの候補に絞り込めはするものの、特定までは出来ない。


「それから、朱器殿しゅきでんへの立入許可が出た。当日に使われた盃を確認出来る。けど、いけるのは、夜だけと言われた。大臣からの指示が行き届いているらしい」

 俊元は申し訳なさそうにそう言った。俊元のせいではないというのに。


「今から、見に行けるのですか」

「ああ。でも、藤小町、夜が恐ろしくはない?」


 俊元は、菫子のことを心配してくれていたのだ。女人は夜を怖がるもの、源大臣はそう考えて、夜だけ許可したのだろう。実質、昼も夜も動けない状態にしようと。

 菫子は、口の両端を持ち上げて微笑んでみせた。


「わたし、夜は好きなんです」

「好き? 恐ろしくないだけでなく、好むと」

「はい。明けぬ夜はないと言う人もいるけれど、夜は悪いものではありませんよ。わたしにとっては、陽のもとよりも居心地がいいです。夜が明けぬことを望む者もいるのです」

 菫子は、格子の窓の向こうに見える藍色の空を見上げた。


「……夜が明けてしまえば、また一日を生きねばなりませんから」


 視線を戻すと、俊元と目が合った。目をわずかに見開いたまま、表情が固まっていた。何かを言おうとして、開いた口が閉じられ、また開かれた。


「生きるのは、辛いこと、か?」

 菫子は、微笑むだけで答えた。わざわざ言葉にすることではない。でも、俊元が悲しそうな顔をするから、少し心が痛んだ。やはり優しい人だ。何か話を、と思っていたところに桜襲の羽織が目に付いた。


「わたしが夜を好きになった、きっかけがありまして。聞いていただけますか」

「もちろん」

 夜はまだある。朱器殿へ向かうのは少し後にする。


「昔、母が亡くなったばかりの頃、高階の家の念誦堂にこもって、泣いていたんです。まともに寝ずに、何日もずっと。特に夜が怖くて、怯えていたのを覚えています。ある日の夜、少年がやってきて、大丈夫、となぐさめてくれました。その時に『夜は怖くない。君に寄り添う友になってくれる』と教えてくれたんです」

 菫子は桜襲の羽織を手に取った。ふわりと軽い肌触りが心地いい。


「わたしは、泣き疲れたのと安心したのとで、眠ってしまいました。起きた時にはもう少年はどこにもいなくて、夢だったのかと思いました。でも、この羽織がわたしの肩に掛けられていました。桜衣の君、と勝手に呼んでいます。あの頃のわたしを、救ってくれた方です」

「そう、か。その……話の少年は藤小町の知り合い?」

「いいえ、存じ上げない方でした。大叔父上の知り合いのご子息だったか、今となっては知るすべもありません」


 俊元は、そうか、と言うと羽織を見ながら、何やら考え込んでいるような、悩んでいるような、よく分からない顔をしていた。だがそれも少しの間で、菫子に目線を戻すと柔らかい笑顔を向けた。


「昼よりましだから、ではなく、夜が『好きな理由』が聞けて、良かったよ」

「橘侍従様は、夜はお嫌いですか」

「嫌いじゃないよ。昼も嫌いじゃない。ただ、平穏がいいと思うよ。近くにいる人が笑顔でいて欲しいと、思っている」

 そう言う俊元の瞳と口調からは、信念のようなものが感じられた気がした。




 朱器殿は、宮中の東南に位置する、儀式用の朱器を納めている殿だ。念誦堂から向かうには、紫宸殿の前の庭を横切るのが最短だが、夜に歩くのは危険であり、そもそも女房装束では着物を引きずってしまうため、庭を歩くのは難しい。ぐるりと渡殿をまわって向かう。


 夜の宮中は暗い。灯火を置いてはいても、それが照らすことの出来る範囲はとても狭い。前を行く俊元の背中も、灯火の横を通ればはっきりと見えるが、そうでないところは闇にぼやけてしまう。


「ここが朱器殿。暗いから、足元に気を付けて」

「はい」


 段差に注意しつつ、菫子は中に入った。俊元が皿に油を張ってある、灯台に火をともしてくれた。そのおかげで何とか室内を見ることが出来る。四角く区切られた棚に、様々な形の器が整列していた。ここから目的の物を見つけ出すとなると、時間がかかりそうだ。


「これらが、正月に使われた器だ」

 俊元が指さして教えてくれたおかげで、時間は全くかからなかった。これだけの物を把握しているとは。侍従の本来の仕事ではないはずだから、この調査のために調べたのだろう。仕事が出来ると自負するだけある。


「では、失礼します」

 菫子は、盃を手に取った。美しい朱色の塗りの盃。慌てて落とした時のだろうか、ほんの少し塗りが剝がれている。しかし、それ以外は特に問題は見られなかった。次に、銀の瓶を見る。毒が入った飲み物が入れられたなら、銀に何らかの変化が見られるはず。もし洗った後だとしても。


「……変化、ありませんね」

 この瓶には毒は入らなかった、ということになる。しかし、現に毒にあたった者がいる。毒がない、なんてことはないはずだ。


「この瓶を使った後に毒が入れられたと? いや、童女もあたっているから、それはないか」

「はい。初めから毒が入っていたと考えるのが妥当なのですが、瓶には毒の反応がありませんので、どうしても矛盾してしまいます」

「童女の時に毒があり、銀の瓶に入ると消え、主上の時にはまた毒がある。そんなことあり得るのか……」

 余計に混乱した状況を抱えて、俊元と菫子は朱器殿を後にした。


「明日、当日飲み物を用意した女官の一人に話を聞くことになったんだ。あの様子からして、何か知っているのかもしれない。何とか、夜に話を聞けないか、頼んでみることにするよ」

「夜に、ですか」

「そうすれば、藤小町も話を直接聞ける。人伝では分からないこともあると思うから」

「ありがとうございます。ですが、あまりご無理はなさらないでください。昼間も調査をされて、こうして夜にも。橘侍従様、休めていますか?」


 働き通しで、心配になる。この調査が帝の命に関わるとは理解しているが、俊元が倒れてしまうことは、帝も望んでいないはずだ。


「心配ありがとう。調査に任じられているから、通常の業務は免除してもらっているんだ。同僚からは、さぼりやがって、と言われているけど」

「それなら、よいのですが。――わっ」

 会話に意識が持っていかれていて、足元に注意していなかった。軽くつまずいてしまった。転ばなくて良かった。


「大丈夫!? こっちに――っと、ごめん」

 俊元は自然に差し出した手を、さっと引っ込めた。菫子が触れて、取り乱したのを思い出して、気を遣ったのだろう。引っ込んでしまった手を見て、少し寂しく思っていることに、気付いて、菫子は自嘲した。なんて、身勝手なのだろう。

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