三章―子― 7
*
「え、嘘……だったのですか」
「ああ」
後日の俊元からの報告は、予想外のものだった。
「女御様のご懐妊は、嘘だったんだ。共寝もなく不安で、実家からの圧に耐えられなくて、どうにかして藤壺方に勝たなければと、相当追い詰められていらっしゃたようで」
「主上には、そのような嘘、すぐにばれてしまうのに、ですか」
「それにすら頭が回らないほど、だったようだ」
帝に愛され、子をもうけ、それが男子であることを求められ、入内している女御は、その肩にどれだけの期待を背負っていたのだろう。きっと、背負いきれずに潰されかけてしまったから、焦って短絡的な嘘をついてしまった。中宮とは共寝をしているのに、自分とはしてくださらない、そう思って、より焦ってしまったのだろう。
「主上は、今回の事件が落ち着くまで夜伽はしないと、中宮様、女御様双方に伝えていらっしゃったようだ。御子が出来て、お二人に東宮派の手が及ぶようなことがないように。でも、東宮派がどこにいるか分からないから、詳しいことは言えなかったと」
「そうでしたか……」
帝の考えも理解出来る。でも、それが結果的に女御をさらに苦しめることになってしまった。
そして、密通相手が存在しないと分かった今、唐胡麻を持ち込んだのは、東宮派の可能性が高くなった。本当に、女御が懐妊していた場合、命が危なかった。
「そういえば、藤小町はこれから藤壺へ行くんだよね。送っていくよ」
「送るのはあたしの役割なんだけどー」
「じゃあ、俺もお供していいかな」
「仕方ないから許してあげる」
留守番の紫檀を置いて、菫子と俊元、紫苑は藤壺へ向かう。俊元は藤壺の手前まで、ではあるけれど。
今回の件で、お礼を言いたいから藤壺に来て欲しいと、中宮から要請があった。必ず来て欲しいと、念を押されたため、再び桜重ねを身に纏うことにした。
「相模、参りました」
「いらっしゃい」
出迎えたのは紹子だった。そのまま中宮の御前に連れて行かれる。頭を垂れて挨拶を済ませて、もう一人いることが気になった。女房というには、明らかに雰囲気が違う。一番上に羽織っている着物が小袿であることに気付き、彼女が何者かを察した。
麗景殿の女御、藤原
「初めてお目にかかります、女御様。相模と申します」
「あなたが近頃の麗景殿の問題を解決してくれたと、聞きました。感謝しますわ」
「恐れ多いことでございます」
「どうしても、相模にお礼が言いたいとのことで、藤壺に来てもらったの。来てくれてありがとう」
「いえ。とんでもございません」
中宮は、女御に向き直ると、少し険しい顔を見せた。
「一つ、聞きたいことがあるわ。主上は、わたくしに『待っていて欲しい』とおっしゃった。あなたにも、そう言ったのではないかしら?」
「は、はい。そうですわ」
菫子や紹子がいる状態のまま、中宮が話し出したことに戸惑いを隠せない様子だったが、女御は、中宮の問いを肯定した。
「そう。……主上の妃が、主上のお言葉を信じずにどうするの」
「……っ」
女御は、唇を噛みしめて俯いた。そして、絞り出すようにして、言葉を吐き出した。
「わたくしは、恐ろしかったのです。高貴なお生まれで、お美しく、いつも堂々としていらっしゃる中宮様と、妃として並ぶなんて、恐れ多いのです。でも、父や兄は中宮様に負けるなと言うのです。わたくしなど……っ」
「顔をお上げなさい。宮中は、湖の上のようなものよ、わたくしたちはそこにいる水鳥」
「水鳥……」
「水の上だけ見れば、優雅に泳いでいるように見える水鳥も、水中では必死に足を動かして、もがきながら進んでいるわ」
菫子は、中宮が自らのことを水鳥に例えたことに驚いた。表面上は穏やかに見えても、中宮も内心では不安や心細さを抱えていたのだ。それを、恥とせずに女御を励ますために話している。
「中宮様、わたくしは」
「顔を上げ、姿勢を正しなさい。それだけでも水面での姿は変わるわ。自分のところの女房たちを不安にさせてはだめよ。あなたは麗景殿を預かる主人なのだから」
「はい……!」
女御の顔つきが変わった。麗景殿の女房たちがぴりぴりしていたのは、不安の裏返しだ。女御がしっかりと立つことが出来れば、きっとそれも収まっていく。
その後、中宮の計らいで今回の懐妊のことは、誤って使用した油による体調不良を、医師が懐妊と誤診してしまったと発表することになった。
菫子がお暇する時に、紹子も一緒に立ち上がった。見送りをしてくれるのかと思ったら、香箱を持ってついてくるつもりのようだった。
「中宮様、香の勉強に行ってまいります」
「あらあら、右近、友人が出来て嬉しいのは分かるけれど、浮かれ過ぎないでちょうだいね」
「はい」
中宮の言う、友人が自分のことだと理解が追い付かなくて、菫子はきょとんとしてしまった。
「右近と仲良くしてあげてちょうだいね」
「は、はい」
菫子は、ぎこちなくそう返答した。
*
紹子は頻繁に念誦堂に遊びに来るようになっていた。俊元や紫苑、紫檀とは違って、毒が効かないわけではないのに、気にせず香を作りにやってくる。
「女御様のとこに油を持って行った人は、分かったん?」
「いいえ。まだ調べているところだそうよ。数が多くて大変だとか」
未だに特定出来ない杯の毒、そして今回の唐胡麻、明らかに毒に詳しい者が関わっている。菫子が見つけ出さなければ、帝も中宮も女御も、危険に晒してしまう。
「お正月の件、解決に協力した人って、藤小町やよね」
「それも勘?」
「うん。あとは流れ的にそうやなーって」
香料を選びながら、紹子はさらりと言った。他にも勘づいている人はいるかもしれない。
「右近さんは、正月の儀式の時は、どこにいたの?」
「ちょうど嫌がらせされてた時やから、端っこの方やったなあ。離れてても、主上のおわすところは、装飾も華やかで豪華で、見たことのない綺麗な鳥までいて、絵巻物みたいやったよ」
「そうなの」
紹子が、帝が倒れたところを目撃していれば、と思ったが、離れていたならあまり見えていないだろう。公には解決したとさせている正月のことをこれ以上掘り下げることもない。
「右近さん、香料選べたかしら」
「ねえー、藤小町と橘侍従様って、恋仲なん?」
「えっ!?」
手に持っていた乳鉢を取り落とすところだった。
「あれ、違うん?」
「違うわ。調査に協力をしているだけで、そんな」
「でも、憎からず、って顔に書いてるんよね。あ、そうや、歌とか贈ってみたら」
平安貴族の恋の始まりは、調度品などの隙間から相手を見る
ただ、俊元とは侍従と女官として初めから顔を合わしているし、そもそもそういうものでは、と紹子に言うでもなく口の中でもごもごと。
「出会いが常とは違うんなら、今から始めればいいんよ!」
「そう、かも、しれないわね」
紹子の圧に押されて、菫子は頷いた。そこから、香のことはほったらかしで、歌を考える会になった。歌には疎い菫子は、苦戦したが、紹子とああでもないこうでもないと、考えるのは、少し楽しく思えた。
菫子は一人の時にも、歌を考えていた。もしも、俊元に贈るとしたら、と何度も考えた。いいと思えるものが出来たら、紙にしたためてみようと、思えるようにもなった。何と言って渡そうかと。
――――当然のように、渡せるものと、思っていた。
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