四章―鬼― 4
*
翌日の朝早く、彼らはやってきた。
「開けてください。調査について、お話があります」
戸の向こうからは、礼儀正しい声が聞こえてきた。菫子は、その声に応えた。双子は疲れが取れないらしく、すやすやと寝ていた。今は無理に起こさなくてもいいだろう。
やってきた役人は、六位を示す深緑の袍を身に纏っている。調査のことと言っていたから、俊元の遣いだろうか。
「帝の暗殺未遂、および女御様の体調不良の原因についてです」
「何か進展があったのでしょうか。橘侍従様はこちらにはいらっしゃらないのでしょうか」
「はっ、何を白々しいことを」
「え」
急に役人の口調が変わった。いや、それまでのが演技だったのだ。菫子に戸を開けさせるための。
「女御様への献上品の油をすり替える指示をしたのはお前だ。正月、主上の盃に青梅の毒を入れたのも。すぐに捕縛、と言いたいところだが、余罪を調べるのと、そのおぞましい体は厄介。暫定的に、ここで軟禁という処置になった」
「待ってください! わたしは何もしていません」
「立て続けに毒による事件が起こり、それを全て見抜くなど、出来過ぎている。お前が仕組んだことに決まっている」
「そんな……!」
正確には、『全て』ではない。正月の公になっていない杯の毒が何か、分かっていない。ただそれを言ったところで意味はない。菫子が何を言ったところで、きっと通じない。
「わたしではありません。橘侍従様にご確認を。お願いします!」
「何を寝ぼけたことを。その橘侍従様が、この処置を下されたのだ」
「…………え?」
役人の言ったことが理解出来ない。俊元が、菫子を犯人だと、そう言った。嘘だ。そんなことあるはずがない。
「橘侍従様から、詳しいことを聞いている。藤小町、などと呼ばれていい気になったか」
菫子の中で、何かが音を立てて、割れて、崩れて、壊れた。脆いけれど、大切に育ててきたそれが、一瞬にして、なくなった。
目の前が真っ暗になる。気が付くと、床にへたり込んでいた。役人の声が頭上からしたが、あまりよく聞こえない。
「ここには常時、見張りが付くこととなる。逃げられると思うな」
「……」
役人は、さっさと戻れと手で払う動作をした。菫子は、よろよろと立ち上がって、念誦堂の中に入って戸を閉じた。
何も、考えられない。どうして。なんで。どうして。嘘。そんな言葉ばかりが回る。
「藤小町? どうしたのー」
紫苑が目を擦りながら起き上がった。菫子は酷い顔をしていたのだろう。紫苑がぎょっとして、駆け寄ってきた。紫檀も続けて起きてきて、菫子の手を握ってくれた。
「何があったの」
菫子は、役人から言われたことを二人に伝えた。窓から外を見た紫苑と、戸の隙間から様子を窺った紫檀が、同時に首を横に振った。本当に見張りが付けられているらしい。
自分の口で話して、事実がようやく理解出来た。菫子は、俊元に裏切られたのだ。それなのに、舞い上がって歌を作ったり、なんて滑稽なことか。
「二人とも、巻き込んでごめんなさい」
「待って待って! あんた、その役人が言ったこと、信じるの? としもとにとって、あんたがその程度だったと思ってんの!?」
「そうだったのよ、きっと」
「あーもう! 言い方変える」
俯く菫子の顔が、紫苑の両手で強制的に前を向かされた。紫苑の拗ねたような顔と目が合った。
「藤小町にとって、としもとはその程度? 他人から言われて、簡単に見限るような相手?」
「……っ」
菫子だって、信じたくない。俊元は、十年前からずっと菫子を支えてくれた人。裏切られたなんて、信じたくないに決まっている。
「他人の伝聞は、当てにならない。本人に聞こう」
紫檀が言うからこそ、その言葉には説得力があった。双子であるのに、夫婦と伝承されてしまった、二人だから。
「うん……」
ばんっと無遠慮に戸が開かれた。先ほどの役人が立っていて、菫子たちを見下ろしていた。
「こいつは仲間か?」
投げつけるようにして、人をこちらに飛ばしてきた。何とか避けて、足元を見ると、見慣れた女房がうずくまっていた。
「右近さん!?」
「ええと、忘れ物取りに来ただけやよ。なのに、この人が怖い顔して」
「……! 右近さん、手!」
倒れ込んだ紹子の手が、わずかに菫子の髪に触れてしまっていた。反射的に離した紹子の手には、黒い花の痣。
さあっと、すごい勢いで血の気が引いていくのが分かった。紹子が、毒に触れてしまった。菫子の毒のせいで、紹子が死んでしまう。
「ああ……いやああああああ」
役人が、毒小町の毒は本物のようだ。用心しろ、女房を連れて行け、と話している声が、とても遠くで聞こえた。
「藤小町!」
「う、右近さん、わたし、わたしのせいで……っ」
「そんな顔せんで。うち、体は丈夫やし、こんなのどうってことない。大丈夫大丈夫、おっとっと」
紹子は、にっこりと笑顔を浮かべながらそう言った。だが、足元がふらついている。役人に腕を持たれ、連行されていってしまった。紹子は、ずっと、菫子に向かって、大丈夫、と言い続けてくれた。
役人が、この化け物め、絶対に出てくるな、と言って、戸を乱暴に閉めた。戸を勝手に開けたのは、そっちじゃないかと混乱しきった頭で、そんなどうでもいいことを思った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「藤小町」
紫苑が声をかけてくれるが、何も聞きたくないと首を振った。菫子の手は、箪笥をがさごそとある物を探していた。懐剣が、見つからない。
「探してるのは、これ?」
紫檀の手に、菫子が探していた懐剣があった。そんなところにあったのか。紫檀に、貸して、と手を伸ばしても渡してくれない。
「お願い。貸して。わたしがいたから、こんなことになった……」
「だめ。死ぬのは、だめ」
「わたしのせいで、右近さんは……! もっと早くこうすべきだったの。幸せになりたいなんて馬鹿げたことを言って、生きてしまったから、こんなことに」
「でも、あたしは藤小町が死ぬとこなんて見たくない!」
人が死ぬところを見たくない、いつだったか言ったことが自分に返ってくるとは。でも、じゃあ、どうしたら。
「ううっ……」
菫子は、声を押し殺して泣いた。菫子が泣く資格はない。分かっている。でも止められなかった。
「右近さん……っ」
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