三章―子― 4


 昼過ぎになって、俊元がやってきた。てっきり回収を進めている杯のことかと思ったが、話は麗景殿のことだった。


「麗景殿での原因不明の体調不良を、至急なんとかするようにって主上から言われてね。杯のことは後回しでいいから、藤小町にも相談して、解決しろと。思っているよりも、状況が良くないのかも」

「分かりました」


 俊元の顔をじっと見つめてみると、なんとなく桜衣の君の面影があるような気がした。菫子自身も幼かったし、あの日のことは朧げにしか覚えていない。でも、その彼が目の前にいること、それは本当のことだ。


「ん? 俺の顔に何か付いてる?」

「いえ、何でもありません」

「そうだ、藤小町、手貸して」

 俊元に言われるがまま、菫子は右手を俊元に差し出した。俊元は自分で言っておきながら、驚いた顔をしていた。


「どうかなさいましたか」

「いや、怖がらなくなってきたな、と思って」

「!」


 言われて、俊元に対して触れてしまうかもしれないと、怖さを感じなくなっていることに気が付いた。恥ずかしくなって、手を引こうとしたが、俊元の左手によってそれは阻まれた。温かい手に包まれて、それから指が絡められた。そんなに力が入っているようには見えないのに、菫子の手は逃げられない。


「あの、橘侍従様……?」

「触れることに慣れていけたらいいと思ってね。人に触れないように警戒するのは必要なことだけど、俺相手には気を抜いていいってこと。ちゃんと覚えてて」

「……はい」


 俊元が、桜衣の君で、十年前のあの夜のことをずっと覚えていてくれて、ここに呼んでくれたのなら、菫子はこの人にとてつもなく大切にされているのでは。桜衣の君の話は、俊元にもしている。その上で名乗らないのなら、こちらから桜衣の君はあなたですね、と気軽に尋ねることが出来ない。俊元の返答が怖くて、聞けない。触れることが怖くないのに、こんなことが怖いだなんて。


「さて、麗景殿でのことだけど」

「お待ちください。手、このままでは、集中出来ません」

「……。そうか、じゃあまた後で」


 俊元がするりと手を引いて、菫子はいつの間にか早くなっていた鼓動に気付かれてはいないかと、胸に手を当てた。


「麗景殿では、それまでこんなに一気に女房たちが体調を崩すことはなかった。だから、近頃の贈り物の中に原因があるんじゃないかって考えている。でも、贈り物自体が多くて、特定に時間がかかりそうなんだ」

「何か、怪しいものの目星はあるのですか」

「いいや。だから、贈り物の一部と部屋にあったものを借りてきた。見てもらえるかな?」

「かしこまりました」


 念誦堂の外につけるように、一輪の荷車があった。着物が入っている櫃、笛の入った箱、漆器の上を籠で覆った火取ひとり香炉、高価な紙類、灯台、化粧道具、檜扇など、文字通り荷車の上で山積みになっていた。これで一部だという。


「確かに、たくさんございますね」

「ああ。この中にあればいいのだけど。もしなければ、いよいよ原因不明となってしまう」

 菫子は、荷解きされた物から順に手に取って観察していく。一つ一つの品が高価なものであることがよく分かる。ただ、その後ろには権力にすり寄る者の姿が見えるような気がして、あまりいい気はしない。


「中宮様は、大丈夫でしょうか」

 出過ぎたことと分かっていたが、菫子はそう尋ねた。他の妃への嫉妬を表に出すのは、はしたないこととされている。おそらく中宮は今回の女御懐妊のことを知っても気丈に振る舞っているだろう。だが、女御へ嫌がらせをしているという心無い噂については、菫子でも怒りを覚えた。


「あの噂は、女御様側が勝手に言っていることだ。麗景殿の女房たちが、少々口が過ぎることは度々問題になっていたが、今回のことは主上もお怒りだ。すぐに抑えられるだろうけれど、原因を特定するのが一番効果的と思う」

「その通りですね。力を尽くします」


 菫子は口を閉じて、目の前の贈り物たちに意識を集中させた。この中に、麗景殿の方々を、ひいては中宮を助けることの出来る手掛かりがあるかもしれない。

 火取香炉を手に取る。陶器で作られた香炉を入れるのは漆器。再び漆による症状を疑ったが、これはしっかりと時間を置いて乾燥されている。あの騒動以来、使われる漆器の基準が厳しくなったと聞く。心配はなさそうだ。


 灯台を調べていた時、違和感を覚えた。今は、油は張られていないが、それでも匂いが少し変だった。通常、麻や椿の実のものが使われるため、こんな妙な匂いはしない。ましてや女御の使うものなら、香りも良い椿が選ばれるはず。


「椿油……」

 椿油は、灯り用だけでなく、顔や髪に塗って整える化粧品としての役割もある。ふと、嫌な予感がして、化粧道具の中にある、椿油を探した。瓶の中に満ちている椿油に、鼻を寄せて匂いを確認した。わずかだが、灯台の油と同じく妙な匂いがする。注意しなければ気が付かないだろう。


 気分が悪くなり、腹痛を訴える人たち。点と点が繋がる。と、同時に血の気が引いた。


「橘侍従様! この油が原因です。唐胡麻とうごま、もしくは蓖麻ひまと呼ばれる種から作られる油です」

「それは、毒、ということか」

「はい。植物から作られるものの中では、最大級の毒性です」

 俊元の顔が一瞬にして蒼白になった。そんなものが、女御の傍にあったと考えるだけで恐ろしい。


「椿油の中に混ぜられていたのは、少量ですので、大事には至らないかと思います。ですが、灯台の油として使うにも、化粧品として使うにも、どちらも危険なことには変わりありません」

「すぐに使うのを辞めるよう伝える。症状が出てしまった者には、どうすれば」

「灯台の近くに居て、吸ってしまった方は多くの水を飲み、安静に。化粧品として肌に塗った場合は、丹念に洗い流してください。嘔吐してしまう方も出てくるかもしれません。その対応も、お願いいたします」

「分かった」


 早口になってしまったが、俊元は菫子の指示を理解して、大きく頷いた。油が使われていた物を確認して、俊元は顔をしかめた。


「これは、贈り物ではあるけれど、日常で使うものを差し入れた、に近いように思う。いつも使うものが、すり替えられたと言ってもいい」

「すり替えた、ですか……。近しい者が関わっているのでしょうか」

「詳しく調べるつもりだけど、ひとまずは、原因が油だと伝えてくる」

 俊元は、菫子から椿油の瓶を受け取ると、清涼殿へと向かった。主上へ報告しつつ、女官を走らせるのだろう。


 菫子は、灯台に残った油を指で掬い取った。唐胡麻は、ほんの少量を下剤とすることもある。ただ、その扱いは非常に難しく、素人ではまず不可能であるし、危険性を考えれば、他のもので下剤を作る方が現実的。強い毒性は、危険であることは間違いないが、特に、妊婦には絶対に触れさせてはならないものだ。量が多かったらと思うと、ぞっとする。


「一体、誰が……」

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