終章―幸― 6
*
皐月五日。この日は、
また、菖蒲の
宮中には、菖蒲の香りが満ちていて、爽やかな心地だ。
「藤小町は、騎射を見に行かなくて良かった?」
「はい。人が多いところへ行くのは、気がひけますので。ここにいても、充分に端午の節句を味わうことは出来ますから」
菫子は、完成した別棟を見上げた。以前ここにあった念誦堂よりも一回り大きい建物。母屋と庇があり、宮中にある殿舎を小さく一人用に縮小したような造りである。壁も柱も、屋根も綺麗な立派なものだった。
「本当に、このような立派なものを賜って、よろしかったのでしょうか」
「藤小町は、主上の命を救った人だからね。ある程度のものを造らないと、主上の面目もあるからっておっしゃっていたよ」
三日ほど前に完成し、荷物を運びこんで、ようやく昨日片づけ終わったところだった。紫檀と紫苑も手伝ってくれた。今日は、気晴らしに紹子と共に端午の節会を楽しむと出掛けていった。
新しい別棟にも、菖蒲が飾られているので、ここにいても行事に参加出来ている気分だった。
「そういえば、橘侍従様こそ、武徳殿へ行かなくてよろしいのですか。主上のお付きがあるのでは」
「ここ最近、忙しかったから、この端午の節句くらいゆっくりするといい、っておっしゃってね。もう東宮派のことは気にしなくていいわけだし、お言葉に甘えることにしたんだ」
「そうでございましたか」
俊元と隣に並んで、柔らかな風に吹かれる。そんな時間がとても愛おしく思える。
菫子の髪が風になびいて、顔を隠してしまった。俊元の手が伸びてきて、髪がすくい上げられ、硝子を扱うかのような繊細な手付きで、耳にかけられた。思っていたよりも俊元の顔が近くにあって、菫子は自分の顔が熱くなるのを感じた。きっと赤くなってしまっている。檜扇で顔を隠そうしたが、やんわりと俊元に止められた。
「ねえ、藤小町、歌を書いたと聞いたのだけれど」
「ど、どこからそれを」
「右近から教えてもらってね。俺宛てだって聞いて。見せてくれない?」
紹子が、うちが後押ししといたからなーと言っているのが、容易に想像できた。菫子は、頭の中で紹子に文句を言いつつ、どう答えたらいいか必死に考えた。
「あの、初めて書いたもので、お見せできるようなものでは」
「誰だって、最初は試行錯誤するものだよ」
「春に書いたもので、もう、季節外れ、です」
「ちゃんとした歌合じゃない。気にしなくていい」
何を言っても逃げられそうにない。菫子は、少々お待ちください、と言って、以前紙にしたためた歌を持ってきた。恥ずかしさから、俊元の顔をまともに見ることが出来ず、手元だけを見て渡した。
とても、読み上げる勇気はなかった。菫子の書いた歌は、藤を見守っていた桜、その桜は今は橘になったのだろうか、と詠んでいる。つまり、桜衣の君は、あなたですか、と聞いている歌だ。
「これは……。どこから、このことを」
「主上から、聞きました」
「あー……なるほど」
俊元は、歌の書かれた紙に額を押し付けるようにして、大きく息を吐いた。歌の出来があまりにもひどかったのかと、菫子は不安になってきた。が、顔を上げた俊元の表情を見て、どうでも良くなった。
菫子を真っ直ぐに見つめる瞳は、真剣そのものだった。
「恩着せがましいと思って、言わなかった。十年前のことがきっかけではあるけれど、今の藤小町にとって、必要な人になりたいと思ったから」
「なっています。わたしにとって、橘侍従様は、大事な方です」
「それは嬉しいな。でも桜衣のことを言わなかったせいで、不安にさせたみたいだね、ごめん。これで、許してもらえるかな」
俊元が取り出したのは、桐の平箱だった。開けるように促され、蓋を上げた。
「わあ……」
中に入っていたのは、薬玉だった。菖蒲と蓬を組んで玉を作り、花ときらびやかな糸を飾り付ける薬玉。美しく配列された花に、見事な細工に目を奪われる。両手でそっと持ち上げてみれば、菖蒲の香りがふわりと広がった。
「わたしが、いただいて、よろしいのですか」
「俺が、藤小町に渡したいんだ。受け取ってくれる?」
「はい。もちろんです」
俊元に手伝ってもらい、さっそく薬玉を柱に飾り付けた。別棟が、より華やかになった。菫子は嬉しくて、目の奥が熱くなっていくのを感じた。
「橘侍従様。わたし、今、幸せ、なのだと思います」
「これからもっとたくさんの幸せを見るよ。藤小町は」
「一緒に見てくれますか」
「ああ、もちろん」
~了~
毒小町、宮中にめぐり逢ふ 鈴木しぐれ @sigure_2_5
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