第42話 2巻発売御礼SSその2 ほのぼのお庭デート

「イリス。じゃああの雲は何に見える?」

「……そうですね、ピアノ……でしょうか……」

「ピアノ?」

「ルーカスはいかがですか?」

「…………岩の塊……」

「岩の塊、ですか……」


 よく晴れた春の午後。庭師のトム渾身の傑作の庭のガーデンベンチで並んで座りながら、屋敷の主であるルーカス・ストックとその妻イリスは空を眺めていた。

 そして浮かぶ雲を指差しては、何に見えるか、黙々と話している。


ーーなぜこんなことになったのか、話は半日前に遡る。


◇◇◇


 午後の、柔らかな日差しの心地よい束の間のひととき。

 ルーカスは堅苦しい執務机から離れ、長ソファに足を伸ばし、手紙に目を通していた。昼の商談の合間に片付けておきたい、雑多な要件のものだ。

 そこに紅茶を淹れたライカティヒが音のない所作でやってきた。


「ん」


 ローテーブルに置かれたそれを手に取り口をつけ、再び手紙に目を通すルーカス。

 ライカはじっと見つめている。


「あの。私思ったんですけどね、旦那様」

「ああ」

「奥様との会話、仕事の話か風呂メシ寝るだけじゃないですか」

「は?」


 ルーカスが視線をあげれば、銀髪の犬は物言いたげに目を細める。


「何が言いたい」

「もっと甘ったるい会話くらいしてみたらどうですか」

「はあ? できるかそんなん」


 反射的に言い返す言葉の荒さにうっかり動揺が滲んでしまい、舌打ちしそうになるルーカス。

 そしてライカが従者にしては乱雑な仕草で、ぽす、と置くのはゴシップ新聞。


『冷めた夫の道具でいるのは嫌! 人妻の燃えるような浮気』

『実録・馴染みの肉屋と昼下がりの逢瀬』

『夫の知らない私の好きな花言葉を知っている、そんな執事に恋をした』


「……お前そんなん読んでんのかよ」

「私っていうか、女性陣が大好きですね、こういうの」

「くだらない」

「本当にくだらないですか? 風呂飯寝るの旦那様」

「…………」


 ルーカスは青ざめている。


「な、何が言いたい」

「奥様のことですよ」


 長い髪をくるくると指でいじりながら、ライカは半眼で答える。


「奥様、ご実家カレリアではさんざん都合の良い道具として扱われて、いざ嫁いできたとなったらマナーブックとして白い結婚を命じられて」

「……い、今更政略結婚だけじゃねえのは知ってんだろ、お前も」

「私はわかりますけど、奥様に通じてます?」

「っ…………」

「ね、旦那様」


 長ソファの背もたれに手をかけ、ライカはこちらを煽るような眼差しでわざとらしく小首を傾げてみせる。ルーカスの手の中の手紙は、いつの間にかくしゃりと握りしめられている。


「せっかく恋愛結婚できたとしても、奥様の愛情に胡座をかいて、仕事の話か風呂メシ寝るで会話が終わる生活じゃあ、いずれ奥様に退屈されても知りませんよ」

「……イリスはそういう女じゃない」

「でもただのお人形だった人を、普通の女に変えちゃったのは旦那様でしょ?」


 ふふ、と思わせぶりにライカは笑う。


「律儀で貞淑な自慢の奥様が、夫に不満を募らせ、寂しさを持て余し、それでも空虚な風呂メシ寝るの言葉に笑顔で応じる、それこそゴシップの序曲そのまんまですよ。あああかわいそう ぶし」


 顔に新聞を押し付け、ルーカスは部屋を去る。


「他の話もしてるに決まってんだろ、馬鹿」

「本当にそうでしょうかね」

「……次の客が来る。そろそろ無駄口はやめろ。新しいジャケットを出せ」

「はあい」


 しかし商談の合間も、頭の隅を、テーブルに投げ出されたセンセーショナルな記事が頭をよぎり続けーー


◇◇◇


 というわけで、翌日。冒頭の状態に戻る。

 なかなか続かない会話は、結局二人の共通点が仕事のこと以外ほとんどないことに繋がっている。


 沈黙が続いて、汗ばんできた気がする手のひらをぬぐい、ルーカスは妻の膝あたりに目を向ける。丁寧に揃えられた手は爪まで薄くて小さくて、つま先まで、触れるだけでぱきりと折れてしまいそうな、舶来品の薄い白磁のようで。


「……綺麗だな、空」

「ええ」


 ただ会話がないままそこにいるだけで、満足してしまう。

 色々考えて気を回すのはやはり向いていない。決断したルーカスは空を眺めたままのイリスに体を向けた。


「イリス」

「はい」


 くつろいだ表情のイリスが、従順にルーカスを見て笑む。

 視線を向けられると言葉に詰まるが、ここで詰まったら、またいたずらに時間を持て余すばかりだ。


「……その……俺と……いて、……つまらないか?」

「えっ」


 意外なことを言われたと言わんばかりに、黒目がちな瞳がぱちくりと目をみはる。


「つまらそうな顔、してましたか?」

「いや、それは全然、そんなことはない」

「よかった」


 そう言って微笑まれるだけで、こちらの時間が止まってしまう。


「ルーカスこそ、お忙しいのに私との時間、割いてよろしかったのですか?」

「は? 気にしてんのか、んなこと」


 次に驚くのはルーカスの方だった。イリスは手を横に振る。


「い、いえ! ……ただ、いつも会いたいな、と思うタイミングで……構ってくださるので……気を遣わせていないかしら、私がご迷惑になってはいないか、と……。私が訪れるまでと今では、お時間の使い方も変わってしまったでしょうし」


 イリスはもじもじと両手を絡ませながら躊躇いがちに言う。


「……別に……事実を言った方があんたも納得すると思うから言うが、あんたが来るまではそれはそれで面倒事が多かったんだよ」


 ルーカスは口に出しながら思い出す。

 わざわざ屋敷と商会の店舗を離しているのは、そういう連中が押しかけないようにする、というのも理由ではあった。


「露骨に娘を売り込んでくる親父やら、玉の輿狙いの女やら、貧乏貴族からの釣り書きやら、押しかけてくる奴やら。そういうのの処理に煩っていた時間を考えれば、あんたが来ていい意味で暇ができたし、あんたと一緒に空でも眺めてぼーっとしてる方が、よっぽど楽しい」


 楽しい。

 つい溢れてしまった本音に耳が熱くなる。

 イリスがどんな反応をするやら、気になって様子を伺うと、イリスは唇きゅっとつぐむような、何かを堪えるような、ささやかな恥じらいの顔を見せていた。


「楽しいんですね」

「……ああ」

「あの……私、あまり夫に……その……どういうふうに妻として接すればいいのかわからなくて……その。…………ライカさんに相談したんですよ」

「は!?」

「落ち着いて、落ち着いてください」

「……ああ」


 ルーカスが座り直したところで、イリスは話を続ける。


「私、その……ルーカスのことがはじめてなので……その。夫にどう接すればいいのか……どんな風にしたら、ルーカスが喜ばれるのか……わからなくて」

「……別に、普通にしてりゃそれでいいよ」

「で、でも! お仕事の話や、庭が綺麗ねって話くらいしかできませんし……」

「それの何が悪いんだよ」

「……も、もっとその……男女の仲らしい好意の示し方って……あるなら……示したいなって……」


 目の前で真っ赤になって茹だって小さくなっているイリスを見下ろしながら、

 ルーカスは全ての真相がわかった気がした。


ーーイリスが俺との関係、特に色恋ごとについてこっそりライカに相談した。

ーーライカが変化球の気を回して、俺にイリスに構えとせっついた。



 ルーカスは髪をかきあげ、深くため息をついた。


「……あいつに相談すんな、俺に聞けばいいだろ」

「それはそれで……違うような気もしまして……」


 いや、ライカは悪くない。

 自分がはっきりと、イリスに好意を示してなかったのが悪い。

 そういう意味では、ゴシップ記事で冷や水を浴びせられたのは適切だ。


 ルーカスは座り直し、肩がふれあう程の距離に座る。

 膝の上でびくり、と震えるイリスの手を、上から包むように握った。


「あんたはそこにいるだけで十分さ。触れたけりゃ勝手に触るし、あんたがしたかったら好きにしてくれ」

「ルーカス……」

「だからあんたも、いちいち手管だの示し方だの気にしないで、俺に好きに甘えてくれよ」

「…………肩に……」

「ん」

「肩に、少しもたれても……いいですか……?」


 返事の代わりに、肩を抱き寄せて腕に収めてやる。

 俯いたイリスが小さく微笑んだ気配がする。


「幸せです、ルーカス」


 その態度が何よりこちらを満たしていることに、早く気づいてほしいと願いながら。ルーカスは小さな頭を撫で、体温を感じながら瞼を下ろした。


◇◇◇


 ーー少し離れた場所にて。

 庭先でデートにしけこむ二人を、庭師トムとメイドのキキ、焚き付けたライカと用事でたまたま訪れて飛び入り参加したコルドラがカメリアの生垣の隙間から覗いていた。


「……寝たわね」

 これは、コルドラ。


「寝ましたね……」

 キキ。


「会話より肉欲、肉欲より睡眠欲…………この二人らしいというか……情緒が10歳というか……」

 ダンゴムシを丸めながら言うのは、ライカ。


「まあ、旦那様も幸福ですよね。時計が一周するまでデートに時間を費やして、雲と花と朝食と仕事の話だけ。キスすらせずに手を握って寝たら満足してくれるお嫁さんなんて、あつらえたように旦那様向けの配偶者です」

「似合いなのは間違いないわ」


 最近髪をきったばかりのコルドラが、襟足をいじりながら言う。


「だって外で居眠りなんて絶対しない奴だったもの。無駄にキラキラしたクソガキだった昔はもちろん、隙を見せたら即人攫いだったし。金持ちになった後も、いつ寝首かかれるかわかんないし」


 同意するようにキキが頷いた。


「確かに確かに! ルーカス様、徹夜ですっごく怖い顔してても寝なかったですもんね!」

「ご立派なことです」

「ちょっと。あんた褒める立場じゃないでしょ、ライカ。時々昼寝してんのしってんだから」

「夜は忙しいんですよぉ色々」

「なぁにが番犬よ」

「まあまあ、コルドラさん、ライカさん」


 若い主人夫婦のまどろむ姿と、若い使用人や従業員のコルドラが仲良く盛り上がる姿を、老年のトムはしわの深い顔でじっと見つめていた。


「……幸せだ、な」


 庭師になるまでの波瀾万丈な人生。そしてここに集う者も全て、思い出したくもない苦しい過去をもつ人間ばかりだ。

 それがただ、他愛ない色恋に笑い合って過ごせる。

 老境に至ってこの場で平和な場所に安寧の居場所を得られる幸福。

 それはトムにとって、視界が滲むほど、得難い幸福だった。


「……わしも長生きせねばならんな」

「あ、トムさんどこ行くんですか? キキもお手伝いします」

「二人に日傘を」

「あそっか! うっかりしてました!」


 パタパタと屋敷にかけていくキキと、その後を追うトム。

 ライカとコルドラは、まだ新婚夫婦を眺めながらああだこうだと言っている。



ーー若き成金商人と元没落令嬢の、束の間の幸福の時間は過ぎていく。

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