第33話

 夏を迎えようとしている日差しが、青々としげる牧草を眩く照らす。

 ぬるい風に吹かれながら馬車に揺られ、俺はルクシアーノを目指していた。


 新たに建設する綿織物工場の用地を求めていた俺は、ホワイトワンド侯爵の口添えにより、長年交渉に悩んでいた土地を手に入れることに成功した。

 それだけじゃない。侯爵が俺の妻・イリスの対応ともてなしを大層気に入ってくれたお陰で、ホワイトワンド侯爵が持て余している領地の一部、ルクシアーノの買収まで成功する事になった。

 ルクシアーノは土地こそ痩せているが川のほとりに位置しているので商材の輸送にも便利で、倉庫や事務所を作るにはちょうど良い立地だった。

 

 一週間前。

 ソラリティカのよく晴れた海を眺めて白髭を撫でながら、ホワイトワンド侯爵は好々爺然とした目を細め、商談に快諾してくれた。


「うむ。あの呪われた土地を手放せるのなら嬉しいものだ。工場用地という事ならどんな土地でも困らないだろうし、君なら呪いも跳ね返して使ってくれそうなものだ」

「ありがとうございます。女神の不興をかわないよう、丁重に土地を活用させていただきますよ」


 俺は貴族向けの笑顔で応えた。



 そんな会話を一週間前ソラリティカで交わした俺は、公証人を通じて整えた書類と共にホワイトワンド侯爵のカントリーハウスまで向かっている。


「とんとん拍子ですよね、ルーカス様」

「ああ」

をなさったようで何よりです」

「ああ、良い土地を買えそうだな」

「土地のことじゃないんですけどぉ、私が言ってるのは」


 眩しい午前の日差しに銀髪をつやつやと無駄に煌めかせながら、こちらを白々しい表情で覗き込んでくるライカ。

 あえて返事を無視して、俺は馬車の外、羊が点々と牧草を食べているのどかな景色へと目を向けた。

 この執事の言う「良い買い物」とは土地のことではない。


「あれあれとぼけてます? 旦那様?」


 俺は食い下がってくる目の前の執事を意識の外へと飛ばした。


 ーーこいつが言っているのは、イリスのことだ。


 ホワイトワンド侯爵の口添えを得られたのも、こうして土地を好意的に買収できたのも。俺の力だけではここまで機嫌よく土地の売買が上手くいくことはない。


 俺は元平民、それどころか生まれも育ちも最悪だ。

 元修道女の女手一つで育てられた俺は炭鉱町ウエストミャーデンの底辺育ち、父親の出自も曖昧な孤児ということは少し調べれば明らかだ。

 ここまで実力で商会を大きくしても、身分と出自の壁は高く厚く俺の前に立ち塞がる。

 俺がいくら金を積もうと、身分不相応だと撥ね付けられることはしょっちゅうだ。しょせん成金だ、買収男爵だと、商売はうまくいかないことも多い。

 だからといって諦めて地べたに這い蹲って終わるつもりもない。

 

 多かれ少なかれ汚ない手段さえ使うことはある。

 没落貴族カレリア家に目をつけ、イリスを娶ったのも手段の一つだった。


 マナーブックとして雇ったこともそうだし、イリスという侯爵令嬢のコネクションや肩書きは当然期待して妻に迎えた。

 建国以来続く十二貴族家の一つ、カレリアの家名は没落しようが絶対的な力を持つ。


(イリス……)


 目の前の執事に茶化されないように、俺は心の中で妻の名を呟く。

 想像よりずっと有能で、ずっと芯が強く、その癖どこか放っておけない危なっかしい、俺の妻。


 ホワイトワンド侯爵の対応も。

 コルドラたち女従業員連中の取りまとめも。

 そして意外にも商売もーーあの白い結婚の妻の働きには大いに助けられている。


 ストック家の女主人として、商会を取りまとめるストック夫人としてすっかり板についてきた様子だ。


(白い結婚、なあ……)


 もはや今では白々しい大義名分だと、思いたいのは俺だけだろうか。

 今でも寝室は分けているし、抱き寄せることだって控えている。あくまで白い結婚だと言い切った矜持としてだ。

 だがーー最近、それ以上にうっかり踏み込みそうになる危うさを自分自身に感じていた。

 髪や指に唇を寄せても嫌がらない、ただ静かに頬を染めるだけのイリス。

 あの細い首を見下ろしている時や、夜ソファで語り合う時に髪を下ろして無防備に眠たそうにしている姿を見た時など、何か己の中の天秤がぐらりと傾いてしまいそうになる。


 俺はイリスを信頼している。

 負けを認めてしまえば、できればこれからも、ずっと傍にいて欲しいと思っている。

 だがそれはあくまで俺の勝手(エゴ)でしかないこともまた分かっている。


 白い結婚は終わりだ。傍にいろ。

 そう命じればイリスは逆らわないとはわかっている。けれどそれは厭だ。


 手前勝手の都合で貰い受けて、側に置いて白い結婚をさせて。

 やっぱりお前気に入ったから手を出させろ、なんて言えるかよ。


 ーー無様すぎる。

 自分が善人だとは思っちゃいないが、妻に迎えた女相手に、そこまで落ちぶれたくはない。


「ルクシアーノに着きましたよ、旦那様」


 ライカの声掛けにハッとする。

 馬車の窓外にはホワイトワンド侯爵領が広く続き、件のルクシアーノが細い川の対岸に見えた。豊かな放牧地帯のこちら側と違って、明らかに植生が違う。黒ずんだ土地に枯れた草木がぽつぽつと生えるばかり、それどころか川岸には魚の死骸やらゴミやら木屑が浮かぶような、分かりやすく『呪われた』土地だった。


 俺は川を見下ろしながら、誰に言うでもなく呟いた。


「ルクシアーノ伝説、か……」


 女神ルクシアの慈愛に甘え、欲望のままに喰らい尽くした化物。


(ヒトゴトとは思えねえな。俺も、イリスをとって喰っちまう化物と何が違う)



ーーー



 そして到着したホワイトワンド侯爵家の邸宅(カントリーハウス)にて。

 俺とライカを待ち受けていたのは、ホワイトワンド侯爵と執事の意外な姿だった。


「おお、よく来てくれたねストック卿」


 先日と変わらぬ人の良い笑顔を浮かべたホワイトワンド侯爵。

 従者に案内された庭先で再会した彼の装いは、なぜか射撃のスタイルだった。

 

 彼の隣でじっとりと、痩せぎすの中年の男がぎろりと睨む。鳶色の髪を撫で付けた典型的な貴族だ。

 身なりからしてホワイトワンド侯爵の親類だろうか。隣ですぐにライカが小声で「ホワイトワンド侯爵の甥、レイスバン子爵の次男ですね」と添える。ライカの微妙な声のニュアンスで、どうやら成金男爵(おれ)にとって厄介な相手だと察する。

 ーーイリスとはまた別の方向で、うちの猟犬は貴族社会の裏に精通している。


 握手を交わすと、ライカの言葉通り彼はレイスバン子爵子息、イクファー・レイスバンと名乗った。


「ストック卿の噂はかねがね。その若さでソラリティカ港の改修を進めた立役者と伺っている」

「有難う御座います。かつて我が国を守った軍港であるソラリティカが、再び国益のために花開くことを願ってのことですよ」

「これは驚いた。立派に貴族らしい口の利き方をするじゃないか」


 鳶色の瞳に映る明確な侮蔑に、俺は慣れた笑顔で応じる。

 俺たちのそばでホワイトワンド侯爵は大袈裟な身振りで話を始めた。


「通りすがりに見てきただろう、うちのルクシアーノの有様を。あれでも欲しいと思ってくれるなら、喜んで売り渡したいのだがねえ」


 ちら、とホワイトワンド侯爵は甥に遠慮したような態度を見せる。


(露骨に敵意を向けてきやがるオッサンに、最近流行の射撃なあ。……成程な)

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