番外編2/ルーカス・ストックという男と、その猟犬について

第32話

「お気をつけていってらっしゃいませ、ルーカス様」


 外出前の準備をしていると、妻のイリスがタイミングよく挨拶にやってくる。今日も長い黒髪をきちんと纏め、瀟洒な白いワンピースドレスを着た妻は楚々とした深窓令嬢らしい佇まいだ。


「失礼いたします。ネクタイが」


 近づいてきたイリスが背伸びして、白い両手を伸ばしネクタイを整えてくる。結ぶのが苦手だと嘯(うそぶ)いた俺の言葉を素直に受け止めた彼女は、時折、こうして曲がっているのを直してくれる。


「指の怪我、治ったな」


 先日の料理対決で痛々しい火傷跡が残っていた白い手は、ようやく手袋なしに過ごせるくらいには傷跡が消えている。


「……ご心配おかけいたしました」


 彼女は、はにかんで恥ずかしそうに指を隠す。その指先を取って口付けてやれば、びく、とわかりやすく目を瞠って硬直する。


「あ……」

「今日は遅くなる。宿泊するかもしれない。俺を待たずに寝ていろ」

「かしこまりました。お気をつけて」


 泣きぼくろの鮮やかな、黒い澄んだ瞳でイリスは言う。

 女のところに泊まるんだったらどうする? なんて意地の悪い冗談すら言えないほど素直に見送られ、俺はなんとも言えない、むず痒いものを感じながら屋敷を後にした。


***


 ーーホワイトワンド伯爵家は、とある呪われた領地を持っている。

 ホワイトワンド領南西に位置する、川に面した小さな領地ルクシアーノだ。


 小麦を植えてもじゃがいもを植えてもコーンを植えても、何をやっても全く実りのないその痩せた土地ゆえに呪われた領地といわれているーー訳ではない。


 ルクシアーノには伝説がある。

 かつてこの土地には「ルクシア」という女神が暮らしており、彼女は土地の守り神としてルクシアーノを加護していたそうだ。


 ある日、彼女は一匹の小さな魚を見つけた。

 それは満ち潮に流され、海から川へ遡ってきた小魚だった。

 ルクシアは瀕死の小魚を哀れに思い、その真っ白な手のひらで掬い上げ、満月の夜に海に放流してやった。

 彼女はただ女神の慈愛として小魚を救った。

 しかし、小魚は彼女の慈愛に恋心と執着を抱いてしまった。


 小魚はわざと何度も川を遡り、彼女に掬い上げられ放流されるようになった。


 小魚が永遠に小魚であれば、女神にとって小魚の恋慕は戯れ言である。

 しかし小魚は満月を浴びるたびに成長し、しまいには川を氾濫させるまでの大魚となり、ルクシアに会うためだけに川を遡った。


 彼は満月の光と女神の無自覚に放つ豊穣の力により、川幅を満たすほどの大きさまで成長した妖魚となってしまったのだ。


 女神ルクシアは慈愛の女神だ。

 しかし同時に彼女は、ルクシアーノという土地を守る女神でもあった。


 水害を受け続ける土地を憐れみ、彼女は、川を遡ってきた妖魚に告げた。


「貴方はもう、行くあてを惑う小魚ではありません。どうかもう来ないでください。これ以上、私の大切なルクシアーノの土地が苦しむのを見過ごせないのです」


 妖魚は怒りに体を赤く染めながら答えた。


「ルクシア。僕は貴方の優しさが好きだった。けれど貴方は僕に来るなという。貴方が本当に僕の事が好きで、本当に土地の事を心配するのなら、海に住んで僕の妻になってくれるはずだ。海に来てくれれば全て解決したのに、貴方は僕に二度と来るなと言う。そんなに僕のことが嫌いか、許さない!」


 妖魚は叫び声をあげ、ルクシアを大きな口でぱくりと一飲みにした。

 そしてルクシアの体は妖魚の喉につかえて圧迫し、そのまま、ルクシアも妖魚も死んでしまった。


 その遺体が打ち上げられたルクシアーノはみるみるうちに土地が腐り、痩せ衰え、女神の加護も消え失せた土地となった。


 今でも川では年に一度、魚とルクシアを追悼する祭りが開かれているーー


「ってまあ、川が何らかの原因で逆流して、腐った魚が土地に打ち上げられたって話ですね多分。女神は女だから作物を産む土地。そして彼女を食った魚っつーのは土地を汚す海の汚物、という訳でおそらく腐った魚」


 馬車の中を吹き抜ける乾いた風につるりとした銀髪を靡かせ、執事が呟く。女のような端正な顔立ちに長い睫毛、陶器のように硬質で日焼けしない白い肌。

 こうしてただ座っているだけなら恋物語の主人公にでもなりそうな容姿をした男は俺の執事だ。

 執事は古本屋で見繕ってきたらしい半分に割れた郷土絵本を両手に分けて持ち、ストーリーを淡々と分析する。


「教訓話として読むならば、『明らかに人の話聞いていない、ヤバそうな奴に迂闊に優しくすると面倒なことになる』って事でしょうかね? ヤバい奴に正論ぶつけたら逆上されるから気をつけろ、と言ったような。おお怖い」


 まるで感情の読めない飄々とした顔で抜かす執事を俺は半眼で呆れつつ眺めていた。

 俺は一言もしゃべっていないのに、胡散臭い執事は一人でさらに話を続ける。


「まーわかりますよ、激情の逆上が怖いのは。私も何度腹に貴婦人の包丁を突き刺されたことか。ウッ」


 こいつが言っているのは軽口のようで半分くらいは本当のことで、着痩せする腹にはいくつも生々しい縫合痕が稲妻のように走っている。

 ライカティヒ・クドリャ。俺がかつて拾った猟犬だ。


 ーーホワイトワンド伯爵領に向かう馬車には、俺とライカが二人で乗っていた。

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