第40話
「白い結婚」をずるずると引きずったまま、俺とイリスは未だに寝室どころか、屋敷さえ離して暮らしていた。
寒々しい渡り廊下を通って別館へと向かい、いつも二人でくつろぐ居間に向かえば、ソファに座って熱心に何かを読んでいた。
「イ……」
声をかけようとして、止める。
髪を下ろしてハイウエストのナイトドレスに着替えたイリスは、背筋を伸ばしてコルセットを絞った日中の姿より、ずいぶんと幼なげに見えた。
暫くその様子を眺めていたが、俺にまだ気づかない。
そっと後ろに回るように忍び寄り、声をかけないままに背後を取る。
イリスはまだ気づかない。
よほど読み物に没頭しているらしい。俺は耳元に唇を寄せて囁いた。
「何読んでんだ」
「ひゃっ」
イリスは小さな声をあげて本を取り落とす。
「ル………、ルーカス」
驚いたのだろう、はあはあと息を乱し、胸に手をあてて呼吸を整えている。
「お、驚きました……」
「だろうな」
口の端を吊り上げながら落ちた本を拾い上げ、隣に座る。
本は意外にも絵本だった。ライカが今朝持っていた、二つに破れていた古いものだ。
「ルクシアーノ伝説の絵本か」
「はい。ライカさんが本日のお土産です、と」
「何考えてんだあいつ。二つに破れたのを土産にすんなよ」
言いながらイリスの手へと返すと、妻はそんな本でも大切そうに膝に置き、本の表紙を撫でた。
「ルーカスがご商談で手に入れられた土地が、この土地なのですね」
「聞いていたのか」
「ええ」
俺は絵本の、おどろおどろしい表紙へと目を落とす。イリスの白い指が表紙に描かれた魚の化物を撫ぜているのを見て、なぜかもぞもぞとした嫌な気持ちになった。白い指が汚れそうな気がしたのだ、たかが絵なのに。
「化け物が女神を食っちまったって話だな。不幸な話さ」
「不幸かどうかって、わかりませんよ」
意外な言葉に思わず顔を見る。そんな俺に、イリスは黒目がちな目を向けた。薄く口角の上がった微笑みにどきりとする。最初よりずっと、柔らかく笑むようになったと思う。
長い黒髪の匂いがこちらまで香るのを急に意識そうになったところで、妻はまた絵本へと目を落とした。
「だって、本当のことって魚と女神様にしかわかりませんもの。本当は……女神様は魚と一緒に暮らしたいと望んだから、土地までも彼の色に染まったのかもしれません」
イリスのまろやかな手が、絵本を丁寧に開く。そこには怪魚に食べられてしまう前の女神の絵が、さも恐ろしいものとして描かれていた。
「本当に嫌な相手なら、土地を守るために、女神様の力で跳ね除けることもできたでしょう。けれど跳ね除けるどころか土地ごと彼に染まろうとした……それを、事情を知らない人々が見て『女神が飲み込まれて不毛の土地になった』と絵本にしたのかもしれません」
「想像力逞しいなあ、あんたは」
「つい」
イリスは綻ぶように笑う。
「近ごろ、悪い噂やお話を見たり聞いたりする度に、色々と思いを巡らせてしまうようになったのです。本当は違うのではないか、悪くはなかったんじゃないか、って。だから絵本にも、つい……ふふ、おかしいですね」
不意に俺は、俺の顎の血糊を拭った時のイリスを思い出した。
イリスはなんて事でもないように受け入れ、湯の準備まで整えてくれた。
くつろいだ様子で俺の傍に寄り添ってくれているけれど、本音はーーどうなのか。
「なあ」
俺はソファの背凭れに腕をかけ、イリスに半ば被さるように体を寄せる。灯明を背で隠すようになり、イリスに影が落ちた。
無防備に俺を見やるイリスの顎に指をかけ、俺は片眉を上げてみせた。
「あんたの亭主も、頭から丸ごと食っちまうバケモンかもしれないぜ?」
イリスは目を瞠りこちらを凝視している。こぼれ落ちそうな瞳が今、何を考えているのか俺にはわからない。
黒々とした双眸に俺が映っている。きっと俺の瞳にも、妻が映っているのだろう。
顎にかけた指を滑らせ、頬を撫でて髪を梳く。
少しくすぐったそうに身をすくめる。そこまでされても、イリスは抵抗一つしなかった。
抵抗してくれよ、と思う気持ちと、抵抗しないでくれという気持ちがないまぜだった。
「俺はあんたの住んでいた王都の人間でもなければ、王侯貴族の育ちでもない。よくわからない男相手に、怖いと思うことはないのか」
「それは……」
一瞬でもいいから、俺の脅しに怯えてほしいと思っていた。
俺はなぜ怯えてほしいのか。なぜ拒絶されたいのか。
ーー拒絶されなければ、これ以上、白い結婚のあんたに対して、図に乗ってしまうから。
たっぷり時間をかけた末、イリスの唇が開いた。
「わかりません。私も、私の気持ちが……うまく言葉にできなくて。でも」
「でも?」
髪を撫でるついでに、垂れた一房を耳にかけてやると、耳の端が真っ赤に染まっているのが露わになった。
「私、は……あなたが……」
胸に手をあて、つかえるような仕草を見せながら、イリスは首を横に振る。長い黒髪が俺を絡めとるように、俺の肘を流れる。
「……私が知っている『あなた』だけでなく、私の知らない『あなた』……心配をかけまいと隠してくださっている『あなた』も……仮に、それが恐ろしいものだったとしても、全てがルーカスという人を形作っているのならば……私は……」
ーー全部愛おしいと思います。
イリスは小声で、消えるように呟いた。
袖の端をきゅっと握られる。俺を堰き止めていた何かが、壊れた気がした。
「わかった」
俺は立ち上がり、つかつかと部屋の扉へと向かう。
扉の向こうには無粋な執事どころかメイドの一人もいない。俺は内心舌打ちする。ーー余計な気を回しやがって。
かちゃり。
鍵をかける。お膳立てされた気恥ずかしさを押し殺し、俺はイリスを振り返った。
「あ……」
俺の視線に射抜かれ、イリスがひくりと肩を震わせる。それでも嫌がるように見えないのは、俺の勝手な妄想なのか。
「ルーカス……?」
「その。……話すだけにしろ、余計な茶々入れられたくねえだろ」
「は……はい」
どんな商談のときよりも、ずっと胸が早鐘を打ち鳴らして仕方ない。
イリスも白い頬を真っ赤に染めて、頬を押さえてこちらを見ていた。
別に、白い結婚の関係はまだ崩さないーー崩せる時ではない。
けれど。
「ただ一緒にいたいだけだ。……いいだろ?」
妻は黙ってコクリと頷くと、そのまま下を向いて固まってしまった。
夜は、更けていく。
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