第39話
玄関先に百合が一輪咲いていると思ったら、それはイリスだった。
「お帰りなさい、ルーカス」
白い肌によく似合う白いドレスを着たイリスが、夜更けとは思えないやさしい笑顔で俺を出迎えてくれた。
「待っていたのか。休んでいていいって言っただろ」
「ルーカスを迎えたかったのです。私の勝手ですので、お気になさらないで」
そう言ってイリスは黒目がちな目を細める。もうとっくに陽が落ちた時間にもかかわらず、彼女は黒髪を綺麗に結いあげ整えた姿のままだ。
まさか出迎えられると思わなかった。
「ルーカス……?」
黙り込んだ俺を不思議に思ったのだろう。イリスは首を傾げて不思議そうな顔をする。
「いかがなさいましたか?」
言えるか。まさか、顔を見た途端にほっとしてしまったなんて。
「……なんでもねえ。遅くなった」
玄関先で見つめ合ったままなのも馬鹿だ。
通りしなにイリスの髪を撫で、ジャケットをライカに渡して屋敷へと入る。
ネクタイを解こうとした時、イリスがじっとこちらを見ているのに気づいた。
「あの……」
「ん?」
俺の顔をじっと見る黒々とした瞳。
疑問をすぐに言葉にせず、何かじっと考え込んでいる様子だった。
「どうした?」
「お怪我されたのですか?」
窺うような声音に、どきりと鼓動が跳ねる。
まるで悪戯を見咎められた子供のような気分だ。
「……どっか怪我してるように見えるかよ」
「ええ。顎の下、耳の付け根あたりに、血を拭った跡が」
「……っ」
はっと首を押さえるが、もう遅い。鏡を見ても自分ではよく見えなかった場所だ。身長差があるゆえに、イリスだからこそ目に留まる場所だった。肝が冷える。
「えっと、あー……その、」
「お怪我をなさっている訳ではないのですね?」
「ああ」
「そうですか。でしたらよかったです」
緊張が走っていたイリスの表情がほぐれる。
彼女はそれ以上何も聞かず、俺を浴室へと促した。
「ではお疲れでしょうし、早くお身体を綺麗になさってください。お湯も用意しております」
すでに絶妙の湯加減で湯張りがされているようだ。漂う湯気だけでわかる。
「お夕食はいかがなさいますか?」
「いや……今日は、いらない」
「かしこまりました。では……」
イリスが背伸びをして、俺のネクタイを解く。どこか嬉しそうにしているような気がするのは気のせいだろうか。
冷えた細い指が喉元に触れた瞬間、手を取って引き寄せたい衝動に駆られる。
けれど、今抱き寄せては妻を汚してしまいそうで、俺はされるがまま、タイを引き抜かれた。
「ごゆっくりお寛ぎくださいね」
そう言い残しイリスは去っていった。
あれこれと準備を整えていたメイドたちが、俺を見て忍び笑いをする。
「奥様、馬車が登ってくる光を見て、すぐにご準備を命じられたのですよ」
「ずっと窓辺にいたってことか?」
「ええ。お帰りに気づいてすぐにパッと立ち上がって、『今日はお夕食はいらないでしょうから、お湯を』だなんて、いつもの旦那様の行動全部覚えてる感じで、すぐに」
「そうか……」
俺の行動パターンを完全に把握されている。
メイドたちは顔を見合わせてニコニコする。
「おかえり、ずっと待ってらっしゃったんですものねえ」
「お熱いわよねえ」
「ッ……待ってなくていいって言ったのによ、ったく」
いつ帰るともしれない俺を、なぜ甲斐甲斐しく帰りを待つのか。彼女が躾けられてきた夫人の嗜みというものなのだろうか。気を遣われるのは心苦しい。もちろん、顔を合わせて嬉しくないわけじゃないが。
迎えたかったから待っていたのだと言われると、正直悪い気はしない。
「旦那様……」
メイドたちの表情が何か思わせぶりでニヤニヤしている。
「なんだよ」
「物思いにふけってないで、早く綺麗になさって、奥様といちゃいちゃして差し上げましょうよ」
「だって旦那様とお話ししたくて、ずっと待っていらっしゃったんですから」
「ねえ〜〜」
そのにやにやの示す意味に耳が熱くなる。
「脱ぐぞ、さっさと出ろ」
「はーい」
彼女たちをさっさと追い出し、服を脱いだ俺は湯へと身を沈めた。
早くあの髪に触れて、あの顔を見て疲れを癒したい。
そう思えることがどれだけ幸せなことなのか、俺は噛み締めていた。
ーーー
風呂に入ってはあと息を吐いた時、呼ばれて飛び出るようにライカがやってきた。
「うわっここにまで来んじゃねえ」
湯気の向こう、ライカが当然の顔をしてそこにいた。どこにでも出没する執事に露骨に迷惑を伝える俺に構わず、ライカは話を勝手に続ける。
「私さっき、奥様に、危ない事してる旦那でもいいんですかって聞いたんですよ」
「バラすなって言っただろ」
「それはほら、返り血拭い損ねた私の不始末のケツ拭いと言いますか」
気色ばむ俺の声にライカは肩をすくめる。
血糊を見逃していたことを、多少なりと悪いと思っているらしい。
「そしたら私の言葉に、奥様なんて言われたと思います? 『ライカさんが一緒なら安心です、これからもルーカスのことを守って差し上げてください』ですって」
「……そうか」
「つまんないですね。夫婦の波風でも立ったらおもしろ〜いと思って言ったのに」
「おいこら、ケツ拭いなんじゃねえのかよ」
「〜♪」
さっきと話が違うのを指摘すると、口笛で誤魔化してくる。
「ったく……」
適当ばかりを並べ立てる執事を無視して湯に深く沈み込んでいると、ライカは不意に、声のトーンを落として言った。
「ところで旦那様。これは真面目な話なんですが」
「なんだ」
仕事の話か。それとも、今日の襲撃者についての話か。
真剣に耳を傾ける俺に、ライカは深刻そうにこう言った。
「旦那様、いつまで白い結婚ごっこしてんですか?」
「………………は?」
湯気の向こうを睨むと、ライカは手慰みに銀髪の先をくるくる弄んでいる様子だった。
「執事として僭越ながら申し上げますけどー。いまだに白い結婚と言い張って、変な距離感のままで膠着してんの、かえって本気っぽすぎて子供の初恋みたいでドン引くんですけど」
「……ご指摘どーーーーーも」
尻尾髪掴んで湯船に顔沈めてやらないだけ、俺も気が長くなったものだと思う。
頬が熱い。これは長く湯に浸かりすぎたせいで、恥辱でも、羞恥でも、なんでもない。絶対ない。
「ってかそろそろ、あれが不能なんだと思われるかm」
「そこまで言われる筋合いはねえだろ!!」
バシャン!
湯をかけて追い返そうとしたところで、ライカは既にそこから消えていた。ーー本当に神出鬼没な男だ。
「はあ……」
ため息をつき、金髪をかきあげる。
疲れた。ーー早く、あの黒髪に指を通したい。
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