第21話

 外商担当の方々へ現在の王都貴族社会についての話をして、質疑応答まで済ませ、私はキキと護衛を伴って港へと向かいました。

 船渠(せんきょ)の近くではもうすぐ到着する貨物船を待つ人々が準備に追われています。みな忙しいのか、メイドと護衛を連れた女一人が歩いていても目もくれません。気にしないでもらえるのは良いことです。

 私は彼らの邪魔にならない離れた場所で、静かに海風に吹かれました。


「確かに、ずっとルーカス様と苦楽を共にしてきた皆さんにとって、私は突然やってきた邪魔者に間違いないわ」

「イリス様、そんなこと言わないでください……お屋敷の人たちはみんなイリス様の事好きですし!」

「ありがとう」


 私は微笑みを作って首を横に振ります。


「けれど、お屋敷の人たちが私をすぐに受け入れてくれたのは、王都の実家からずっとついてくれていたキキが私を好意的に受け入れてくれていたからよ」

「私が、……ですか?」

「ええ。あなたは屋敷の使用人の皆さんから妹のように可愛がられているじゃない。そんな素直なあなたが私を受け入れてくれたことで、私はとても助かっているの。ありがとう」

「へへ……わ、私がお役に立てたならうれしいなあ……」


 そう。

 屋敷の使用人たちに比較的すんなりと「女主人」として受け入れてもらえたのはそもそも、キキという『王都の貴族恐怖症』だった女の子が私の味方になってくれたからです。


 対して。

 商会の女性陣の中では私は既に『やっかいな若奥様』として認識されてしまいました。

 最初数回のマナー研修ではうまく関係性を構築することができたのですが、郊外の工場へ対応に向かっていたコルドラさんがソラリティカの商会に戻ってきてからは、空気が一変。

 彼女がどうやら、現時点でのストック商会女性社員の要のようです。


 このままではルーカス様に期待された『マナーブック』としてのお役目も満足に果たせません。

 コルドラさんとの関係を何とかしなければ。


「おい! イリス!!」


 そのとき。

 海を眺めている私の背中に、ルーカス様の張りのある大声が飛んできました。


「ルーカス様」


 ルーカス様はちょうど船渠(せんきょ)に停泊した船から降りてきたところでした。

 タラップを軽やかに降りてきた彼は、遠くから見てもよく目立つ金糸雀(カナリア)色の髪に、獰猛なくらい背が高くて手足の長い体躯の男性です。

 太陽をはめ込んだようなぎらぎらとした琥珀の双眸まで全部が眩しい、遠目から見てもとても男性的な美丈夫です。私にはとても眩しくてもったいないほどの美男子です。


「何やってんだ、キキと護衛だけ連れて」


 彼はスーツのネクタイを緩めながら、大股でやってきて、あっという間に私の前へとやってきました。彼が隣に立つだけで海風が削がれて和らぎ、立っているのが少し楽になります。


「確かにこの辺りは治安がいいから、散歩に出てもいいと伝えていたけどよ」

「すみません、心配をおかけして」

「っ……たりめーだろ、あんたは俺の妻なんだ」


 彼は眉間に皺を寄せてつぶやきました。

 頬を赤くして、妻、という言葉を口にするのに抵抗があるようなご様子です。

 こんなとき――ルーカス様のような美丈夫の方の妻が、私のような地味で空気で申し訳ない、と思ってしまいます。美しい女性ならば、ここで迷いなく「俺の妻」と言えるでしょうに。


「そんなことよりもだな。イリス、何持っているんだ、それ」


 彼は私が手に持っていた書類へ目を向けました。

 

「ああ、こちらですか……講習会の内容をどうするべきか考えておりました」

「見せてみろ」


 彼は海風にばたばたと跳ねる書類を受け取り、両手で押さえながら読みます。


「なになに……王都貴族が気にするマナー・基礎教養、王都言葉とソラリティカ方言の敬語対応表。……屋敷でやっていたレッスンより随分簡潔だな?」

「はい。皆さん実践で使えるもののほうが覚えやすいでしょうし、体感として『使える』とご理解いただいた上で次のレッスンに進みたいと思いました」


 私は頷いてルーカス様に説明します。

 海風で少し聞きづらいだろうと思い、口元に手を添え背伸びしました。

 ルーカス様は黙って少し屈んでくださいます。


「屋敷のメイド講習は比較的若い人たちばかりでしたので、0からお伝えする内容でもよろしかったのですが、商会の女性社員の方々は私よりも年上で、しかも王都の方との対応経験もおありの方が多いので」

「ははあ。これまでのやり方を尊重して、プライドを傷つけないように配慮してるっつーわけだな」

「ええ。最初から私を拒絶されてしまえば意味がありませんので」


 このやり方は義母と妹に対し、貴族社会の規範を伝えようとしたときの失敗を踏まえたもの。

 義母はカレリア侯爵家の婦人としての作法や常識を身につけることを拒む女性でした。


『イリス、もう貴方のお母様はいないのよ。私の命令一つで修道院送りにもできる立場の癖に、偉そうなことを言わないで。私が今は侯爵夫人、この家の女主人よ』


 義母は苦労を重ねてきた人だとは存じているのですが、侯爵夫人になれた時点で、失礼ながら、努力をすっかり放棄なさった方でした。

 彼女としては侯爵夫人として貴族社会に順応することはむしろ、自分の出自を否定するような屈辱があったように見えました。


 まだ幼かった私は亡き実母からカレリア侯爵家の伝統を任された責任を感じ、少しでも新しい母親が社交界に馴染みやすいよう、カレリア侯爵家のしきたりと伝統を伝えようと努力しました。

 しかし……小娘の私が母ほどの年齢差のある女性に物事を教えるのは非常に難しく、結局残念な結果に終わってしまいました。

 だから今回こそは、年上女性に物事を教えるためにはきちんと段取りを踏もうと決めたのです。


 しかし。多少はうまくいっていたのですが。

 さっそく私のやり方は、コルドラさんに拒絶されてしまいました。失敗です。


「……とにかく、私も試行錯誤しながら頑張ってみます」


 余計な言葉は飲み込み、私は遠く広がる水平線へと目を向けます。


「何か困ったことがあれば俺に相談しな」

「はい。ありがとうございます」


 ルーカス様から返された書類をキキに渡します。彼女が鞄にしまってくれるのを手伝っていると、彼は真面目な顔をして私を見下ろしていました。

 私の様子を気遣っている、という眼差しです。


「……商会には少しは慣れたか」

「初日よりは、ずいぶんと慣れました」


 心配をかけないように私は笑います。


「まず、皆さんの顔と名前は覚えました。一人一人の方々の事を知っていくのは、まだこれからです。けれど皆さんすごくお仕事に一生懸命で、ルーカス様の事を大切に思われているのが伝わってきます」


 一生懸命で大切だからこそ、私が相応しい妻かどうかを真剣に見極めようとしていらっしゃる。

 ルーカス様とストック商会を愛しているからこそ、コルドラさんは私を認めない。

 それは理解しているのです。理解はしているのですが……


 不意に、ルーカス様が身をかがめてきます。

 ぎらぎらとした琥珀の瞳が近づいてきて――そっと、耳元に唇が寄せられました。


「なあイリス……少し落ち込んでただろ、あんた」

「えっ」


 思わずちらりとキキを見ます。キキは「キャー」と言いながら顔を手で覆っています。

 海風に紛れて、ルーカス様の言葉は聞こえていないようです。


「どうして、」


 どうして、貴方はすぐに私が落ち込んでいるとわかったのですか?

 その言葉が出ないまま黙っていると、図星を突かれた私の表情を見て、ルーカス様は琥珀の目を眇めて笑います。


「ばあか。俺を誰だと思ってんだ」

「ひゃ……」


 頭をくしゃくしゃと撫でられ、驚いて変な声が出てしまいました。

 頭を撫でられるなんていつぶりでしょう。父親にも、一度も撫でられた記憶はありませんので。


「嫌か?」

「あ、あの……いえ、恥ずかしくて」

「俺に手伝えることがありゃあ、遠慮するな。あんま一人で抱え込むんじゃねえ」

「はい。ありがとうございます」

「ん」


 ルーカス様は肩をぽんと叩くと、片手を上げて馬車のほうへと去って行きます。これから海運会社の方と打ち合わせの筈です。

 お忙しいのにわざわざ、一人たたずむ私に話しかけに来てくれていたのです。


「ルーカス様……お優しい方です」


 風を切って歩いていく彼の広い背中を見ていると、胸の奥が閊(つか)えたように苦しくなります。


「行きましょう、キキ」

「はい!」

「明日はホワイトワンド伯爵夫妻のご訪問だわ。デリケートな方だからちゃんと対応しないと…」


 私は王都から訪れる貴族対応を任されていました。お屋敷でおもてなしするのと同じです。

 具体的な商談については担当の方が行い、私がそのサポートをしていました。


 彼は一人で抱え込むなとおっしゃってくださったけれど。彼は毎日朝から晩まで忙しく働く身、たかが私の事でお手数をおかけするわけにはまいりません。


「私ができることは私がやらなければ、ですね」


 私は頬をぺちんとたたき、海風に踏ん張りながらも馬車へと向かいました。

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