番外編/イリス、ルーカスの幼馴染と対決する。

第20話

 私はイリスと申します。

 カレリア侯爵令嬢姉妹のうち、婚約破棄された上に婚約者を妹に取られた、地味で空気な黒髪姉のほうです。


 ……ええと、違います。訂正いたします。カレリア侯爵令嬢の姉でした。


 今の名前はイリス・ストック。

 婚約破棄された上に婚約者を妹に取られた、地味で空気な黒髪姉です。

 しかしその後、新興貴族ルーカス・ストック男爵に妻として迎えられることになりました。


 夫ルーカス様はいわゆる一代で財を成した実業家。

 実家カレリア家の借金を肩代わりしてくださる代わりに、彼は妻となった私に『貴族社会のマナーブック』としての役割を求めました。

 取柄は侯爵令嬢の礼儀作法と知識だけ、そんな地味で空気な私にはぴったりの仕事です。


「いや、あんた別にそこまで卑下するほど地味でも空気でもねえよ」

「もったいないお言葉ありがとうございます。ご期待に応えるため、精いっぱい頑張りますね」

「……あんたがそれでいいならいいんだが。とにかく、頼むぜイリス」


 住まいは王都から遠く離れた商業都市ソラリティカ。海に面した太陽の明るい街。

 私はルーカス様のお屋敷やストック商会にて、マナー研修や王都情報の講習会などを始めるようになりました。


---

 

 まずお屋敷の使用人の皆さんに向けたレッスンから。

 とはいっても最初は大したことはしておらず、上手にお辞儀するコツや方法、お屋敷の方々が実は方言だと気づいていなかった言い回しや単語の王都言葉への言い換えなど、基礎的なことからスタートしました。

 皆さんルーカス様の教育方針のおかげで基礎的な読み書きはできていたので、特に問題なくレッスンは順調に進みました。


 そしてマナーブックとしての暮らしに慣れた二か月後。

 次はルーカス様の経営する会社である、ストック商会でのレッスン開始を求められました。


「もうすぐ夏だ。船がどかどかやってきて、貴族相手のでかい商談が舞い込む季節がやってくる」

「どかどか……でかい……」

「っつーわけで、今度は俺の職場の連中に、あんたの令嬢としての知識と礼儀作法を遠慮なく叩き込んでやってくれねえか」

「『叩き込』めるかは自信がありませんが……ルーカス様の大切な社員の方々が胸を張ってお仕事ができるよう、微力ではございますが尽力いたします」


 それから私は毎日ストック商会へと向かい、社員の方々の名前と顔を覚え、彼らが知りたいこと、足りないと感じている情報を調べ、そして少しずつマナー研修を開始いたしました。

 比較的若い人が多いアットホームな屋敷に比べて、歴戦の猛者のような社員の人々がぞろぞろいらっしゃいます。


 最初はスムーズに進んでいた研修ですが、やはり何事も、全てがすんなり上手くいくことはなく。


---


「あたしは貴方を絶対、ルーカス社長の奥様だって認めませんので」


 私はダイニングテーブルを挟んだ目前の女性に鋭く宣言されました。


 今は午前中。場所はストック商会の社屋三階に位置する食堂。

 一緒にいるのは、ストック商会で働く女性社員の方、総勢15名です。

 今日は仕事が少なく、昼食前の一時間を皆さんからいただくことができたので、簡単なテーブルマナー講習を行っている最中でした。


「あの……コルドラさん?」


 私は怒りをあらわにした女性、コルドラさんの名前を呼びました。

 しんと静まり返った昼食時の社員食堂に、私の困惑した声が響き渡ります。


「社長は会社が大きくなって調子に乗ってるんですよ」


 コルドラさんは煉瓦色の瞳で、私を憎々しげに睨みつけます。


「皆で一緒に力を合わせて頑張ってきたのに、ここぞとばかりに爵位なんて貰っちゃって。次は若奥様のような、何もできない青い血のご婦人を娶って、何をお考えなんでしょうって、あたしは思いますけどね。若奥様、実家に帰るなら早いほうが傷にならずに済みますよ」


 彼女をいさめるように、同期の女性が彼女の袖を引きます。


「コルドラ……やめなよ、この人は社長が選んできた正真正銘の若奥様よ、」


 しかしコルドラさんは私をにらんだまま。


「正真正銘の若奥様がなんですか。ちょっと挨拶が上手で、都会の言葉ですました顔で話すことくらいしかできない人、の伴侶なんて認められないわ。肩書だけのお飾りにするならともかく、ストック商会の女主人として社員教育ですって? あたしたちを馬鹿にしてるわ、ってば何を考えているのかしら」


 わかりやすくルーカス様を呼び捨てにして、ご立腹の女性――コルドラさんはカチャン、とカトラリーを鳴らして席を立ちました。そしてそのまま、そばかすの浮いた頬を真っ赤にして、結い上げた髪のリボンを鞭のようにしならせ、どすどすと食堂を去ってしまいました。


「……」

「い、イリス奥様、大丈夫ですか?」


 呆然とする私に、傍に控えていたメイドのキキがこわごわと話しかけます。

 キキの発言を皮切りに、思い出したように他の女性社員たちが私を見てにこにこと笑顔を作ります。


「気にしないでくださいね、若奥様。ええと……コルドラさんはお仕事熱心な人なので」

「まあ……その、はい……そうそう! あの、今日のテーブルマナー研修も勉強になりました」

「ありがとうございます若奥様」

「うふふふふ」

「ふふふふ」


 私は気遣いをしてくださる皆さんの顔を見ました。


「ありがとうございます。それでは、本日の研修は一旦ここまでにいたします。昼休憩の時間までもう少しだけありますので、それまで皆さんで今日のおさらいの時間にしていただければと思います」


 私は立ち上がり、そして食堂を後にします。

 後ろからついてきたキキが、コソコソと私の背中に言いました。


「……あの人……もともとヒステリーすごかったんですけど……やっぱりイリス奥様に噛みついちゃいましたね……」


 やっぱり、というキキの感想は、他の女性従業員の方々の顔を見てもわかりました。

 私がキキを伴い食堂から出たところで、彼女たちはいっせいにおしゃべりを始めます。


「コルドラさん、社長がプロポーズしたら結婚してあげてもいいかしら、なんて言ってたもんね……」

「ルーカス社長の幼馴染だったらしいし、今でも社長にぎゃんぎゃん言える唯一の女だったじゃん。そりゃ勘違いするよね」

「でもさー、どうするんだろうね若奥様。コルドラさんほどじゃないけど商会で働く女ってみんな気が強いし、あんな世間知らずのご令嬢みたいな人がやっていけるのかな?」

「実家に泣きつくんじゃない? 知らないけど、カレリアって相当な名家なんでしょ?」

「相当ってレベルじゃないよ! 王国創立以来の十二侯爵家の一つだよ」

「なにそれ、貴族の中でも階級あんの?」

「ばーか、そんなこと言ってるから社長がわざわざを嫁にもらうんじゃない」

「でも……正直こんなところに嫁いできたの、よほど本人に難があったとかじゃない?」

「あんな大人しい顔して、何かあるのかね……」

「社長との結婚もちょっと裏がありそうよね。だって社長、今でこそすごい実業家だけど元々は父親の顔も知らない育ちなんでしょ?」

「シッ。いいじゃん、父親がなんだって。あの顔ならどこの出自でも最高だし」

「あー、いいなあ若奥様。私も貴婦人だったら社長夫人になれたのかなー」

「貴族ってそれだけで得よね」


 私は壁にそっと背を持たれさせ噂話を耳にしていました。どうやら彼女たちは私が借金の代わりにルーカス様に買い取られた没落令嬢だということはご存じないようです。

 噂話が好きな方々がそろってもカレリアの没落が話題に出ないことに、私は少し安心しました。


 ふと隣を見れば、キキが泣きそうな顔をしていました。


「イ、イリス奥様……気にしないでくださいね。ただの噂話なので……」

「ありがとう。傷ついてはいないから安心して、キキ」


 噂は重要な情報です。少なくとも、私のような新参者にとっては一言も聞き逃せない情報がたっぷり詰まっています。

 そもそも噂を立ち聞きするようなお行儀の悪いことをしている私は傷ついたなんて言える立場でもありません。陰口をなくすなんて、無理なことなのですから。


「私に人望がないのは当然の事、どんな評価をされていても素直に受け止めます。改善はそこからです」

「イリス様、お強くてらっしゃいますね……」


 キキは感嘆を漏らしますが、大したことではありません。

 正直なところ王都の社交界における腹の探り合いより、噂話もあけすけで率直なだけに何倍も楽だと感じます。笑顔と柔らかな態度の裏に隠された本音を読みあう貴族の社交は気疲れするものでしたので。直接的に嫌がらせをされるのは、実家の義母で慣れています。


 私はストック商会の経営者である、ルーカス・ストック男爵の妻。

 屋敷の使用人の皆さんには女主人として認めてもらうことはできたのですが、商会の女性陣にはこのように、まだまだ受け入れてもらっていません。

 しかし受け入れてもらうのも、私のルーカス様の妻としての役目です。


「今はまず、目の前のことから実績を積み重ねていかないとね」


 私は気持ちを切り替え、意見を求められていた外商部門へと向かいました。

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