第27話

 昼下がり、館の調理場。

 あの面白い妻(イリス)が一人奮闘している姿を、館の従業員の連中が陰でコソコソと眺めていた。


「あ、やっと卵割れるようになったのね」

「あーあー竈の火に腰が引けてる」

「メモを見るのはいいけど、焦げちゃう焦げちゃう!」


 俺はそいつらの背中に音もなく近より、そして壁にトン、と肘をついた。


「「「「――!!!!!!」」」」


 悲鳴を飲み込んで、連中は体を縮みあがらせた。


「しゃ、社長」

「なぁに覗き見してんだ」

「あ、危なっかしいなあと……思いまして……」

「あっそ。手伝ってやらねえのか?」


 彼女たちはお互い顔を見合わせる。

 気にはなるけれど、手を貸すにはちょっと気が引けるといった様子だ。

 イリスにどんな風に接すればいいのかわからないのだろう。


 俺は一人奮闘するイリスの姿を見やった。


 ――イリスはどこからどう見ても、人形みてぇな深窓の令嬢だ。

 育ちの良さがうかがえる、夜の帳をそのまま映しとったような黒髪に、血管が透けるような青白いほど白い肌。ドレスから覗いた首も手も細くて頼りない。

 強いのはその眼差しの色だ。


 一見目立つ顔立ちじゃないような振りをして、その真っ黒な瞳の思慮深い色に気づいてしまえば、目が離せない。

 染みひとつない肌にぽつんと落ちた小さな泣き黒子がより一層、眼差しの深い色合いと影を落とす長い睫毛と、小さくとがった鼻先の華奢さを引き立てる。

 

 一目見た時から息を呑むほど綺麗な女だと思った。

 貴族令嬢は仕事でいくらでも見てきたから、その高貴な血に惹かれただけという訳じゃない。

 大人しい令嬢、派手な令嬢、いろんな令嬢を俺は見てきた。

 キレーな女だな、と思うことは何度かあった。けれど、それ以上に『知りたい』とは思わなかった。


 だから、イリスを妻に迎えることが決まった時も女としては「どうせキレーな女なんだろうな」というくらいの興味だった。

 きっと親の言いなりに嫁いでくるだけの、ただのキレーなお人形がやってくるだけなのだと。

 実際に会って話すまではいわゆる『白い結婚』で済ませられる自信があった。


 顔を合わせた瞬間。俺は直感的に、こいつは違う、と思った。

 イリスの眼差しには、どう見ても親の言いなりに嫁いできた人形とは言わせない強さがあった。


 イリスは綺麗な女だ。それでいて、己の魅力に全く気付かない奇特な女だ。

 ドレスも似合わない色合いのものを着て、髪も古風なまとめ方をして化粧も薄い。

 だから地味で野暮ったいという自己評価に落ち着くのも理解はできる。

 だが、どんなアクセサリーよりも眼差しに秘めた強い意志が、何よりも彼女を輝かせている。


 実際、屋敷に入ってからの『マナーブック』としての仕事ぶりは凄まじく、あっという間に屋敷の使用人の信頼を得た。

 学も教養もなかった奴らが自然と背筋を伸ばして「ごきげんよう」と王都言葉で話せるようになった。

 一筋縄ではいかない商会の女たちにも、『マナーブック』として一歩も引かず、しかし同時に彼女たちの社会に自ら歩み寄る姿勢も見せている。


「痛っ……」


 イリスが一人呟き、指先を舐めている。

 その姿がいたいけでたまらず、俺はその背中を抱きしめたくて仕方ない。


 イリスは――俺の妻は、俺の街(ソラリティカ)に馴染もうと、頑張ってくれている。

 俺の為に。


「奥様、次は人参を切るのですか? 危ない危ない」

「ああ、その持ち方だったら滑っちゃう…!」


「なあ、お前ら」


 俺の言葉に彼女たちははっと俺を見た。


「お前ら、来月から給料上がるぞ」

「え?」


 突然の言葉に、彼女たちは目を見開いてぽかんとした顔を見せる。


「イリスが入ってきてから貴族の財布が緩くなった。それに、あんたらがしぶしぶ身に着けた王都語が王都の連中には好評らしくて、下手に安く値切られることも減った」

「うっそ、それだけで?」

「悔しいが、田舎言葉しか口にできねえとナメられるからな」

「……そうなんだ……若奥様、だからとても丁寧に言葉を教えてくださったのね……」

「あいつは俺らになくてはならない女だって、お前らもわかってるはずだぜ」


 見守るだけだった彼女たちの空気が、少しずつ変わってきた。


「確かに、身一つでこんな田舎まで嫁いできたのに、若奥様から弱音を聞いたことはないわ」

「どんな時も落ち着いていて優しくて…」

「そうよ。コルドラさんに無茶を言われたって、別に無視してりゃいいのに、誠実に向き合って…」「それどころか、コルドラさんを庇ってくださったわ」

「そもそも……こういう社長に嫁いでくるだけで、よっぽどの度胸よ」

「そうよね。どう見ても社長ってただのチンピラかヤクザだもの」

「道を歩けば子供は泣くし、気が弱い貴婦人は腰を抜かすし」

「……俺の事はどーでもいいだろ」


 俺はくすくすと笑い始めた従業員たちの背中をたたいた。


「ほら、いってきてやってくれ。お前らがサボってたのは見逃してやる」

「きゃっ!」


 彼女たちが厨房に入ってくると、イリスは振り返り、驚いた顔を見せた。


「み、皆さん?」

「ほら、私たちが教えてあげますよ。何を作りたいんですか?」

「今練習しているのはみじん切りを炒めるところです。最終的には……」

「それなら大丈夫、一緒にやりましょう!」

、美味しい手料理社長に食べさせてあげちゃいましょう!」

「はい!」


 イリスが頬を染めて嬉しそうに頷く。


 その姿を目に焼き付け、俺は山積みの仕事へと速足で戻っていった。


「楽しみにしてるぜ、イリス」


 妻の事を考えると、足が軽くなる。どんな面倒事にぶちあたっても、胸を張って強くいられる。

 俺はイリスが好きだ。

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