607

 1925年1月24日、日食が観測された。皆既日食は北米大陸五大湖周辺からニューヨークを経由してイングランド北部に至る比較的広い地域で、部分日食は南米やアフリカ北部など、非常に広い範囲でも観測された。


 数秒、ユモと雪風は半分ほども欠けた太陽を見つめた。本来なら、日食と言えどまだこの段階ではとても肉眼では直視出来ないが、快晴だったはずの空にかかる、見る間に濃くなっていくもや・・のおかげで欠けていく太陽の輪郭がはっきりと目視出来た。

「……もしかして!」

 ユモと雪風は、同時に同じ事を呟き、向き合い、目の奥を覗き込み合う。

「……そういう、こと?」

「……そっちも、ってこと?」

 ほぼ同時に、二人は同じ同じ結論に達する。

「……ニーマントぉ!」

 だしぬけに、ユモは雪風が持っている輝かないアンシャイニング・多面体トラペゾヘドロンに向けて怒鳴る。

「教えなさい!知ってること全部!今すぐ!」

「いやちょっと待ってユモ、教えろったって、ニーマントさん明るい所じゃ……」

 明るいところでは、ニーマントは聞く事は出来ても話す事は出来ない。それを覚えていた雪風は、まさかユモがそれを忘れているとは思えなかったが、一応、突っ込んでおいた。しかし。

「大丈夫ですユキさん、今なら、しゃべれます」

「え?」

「だと思ったわよ」

 フンスと鼻息をついて、ユモは腰に手を当てる。

「どういう事?」

「日蝕は、太陽の陽のエナジーと月の陰のエナジーが相殺し合うごう。だから、周囲の明るさに関係なく、この合の間だけは、ニーマント、あなたの枷は意味を成さない、そうよね?」

「恐らく、それで合っているのだと思います。現に、私はこうしてあなた方と会話することが出来ていますので」

「ほらね」

「なるほど……」

 ユモの説明で、とりあえず雪風は納得する。

「で、ニーマント、あなたの話だと、この条件下で、あなたに見えているいくつかの『光景』のうち、あなたが強く惹かれた所にあなたは跳ぶ、そう言ったわよね?」

「はい。そして、ユモさん、あなたと跳んだ最初の時は、屋内だったので日蝕である事は気付かなかったのですが。二度目の、ユキさんを巻き込んだ時は確かにあそこは日蝕でした」

「じゃあ教えて、今、あなたには何が見えているの?」

 その中に、あたしが来たところがあるのだとしたら。ユモは、はやる心を抑えて、聞く。

「それなのですが。残念ながら、今は何も見えないのです」

「……え?」

 その、予想外のニーマントの答えを、ユモは即座には理解出来なかった。

「今、この周辺のエーテルは、あの青い光に、正確に言うなら青い光の元になっている何らかのエナジーの奔流にかき乱されています。恐らくはその影響で、私にはどこを向いても真っ青な光しか見えていません」

「……つまり、行き先はともかく、またどっかに跳ぼうと思ったら、日蝕が続いている間にあの青い光を止めなきゃいけないって事?」

 勿論、跳ぶのに必要な源始力マナが潤沢にあるという条件において、だけど。ユモは、言わずもがなのその条件は口に出さず、ニーマントに聞き返した。

「……日蝕の間に、いろんな妨害をかいくぐって、みたいよ?」

 妙に落ち着いた声で、ニーマントの代わりに雪風が答えた。

「そのようですね」

 ニーマントも同意する。はっとして、ペンダントニーマントを見つめていたユモは顔を上げる。

 周囲を見まわしたユモが見たのは、周りを取り囲む幾体もの『ウェンディゴ憑き』と、徐々に欠けていく太陽を覆い尽くさんばかりの、もや・・が形作る巨大な人のような何かだった。


「ちょっと……何よ、あれ……」

 その、徐々に密度を増し、輪郭がはっきりしてくる『雲の巨人』の赤く光る目を見ながら、ユモは呟く。

「私の拙い経験から言うならば」

 ニーマントが、ユモの呟きに答える。

「あれこそが、イタクァです」

「マジか……」

 雪風が、絞り出すように、言う。言って、思う。

――あれは、斬れない……――

 本能の、闘争心の赴くままに最強だろうそれを敵認定して、雪風は、臍を噛む。形のないものは、掴み所のないものは、斬れない。ましてや、あの大きさ。とてもじゃないけど、斬れない。

――違う。多分、ママなら、斬る。ママなら、やってのけるかも知れない。それに……――

 雪風は、斬れないと思うのは自らの未熟である事を認め、そして、頭を切り替え、決意する。

――……今すべきは、あれを斬ることじゃない……やるべきことは、考えることは、帰るための方法、それだけ!――

 急激に下がり始めた気温の中、雪風は、本能を理性で抑え込んだ。


「どうやら、あれ・・が帰ってきたようです」

 黒い男は、洞窟の天井を見上げながら、呟いた。

「まったく。あなたを置いてから、どこをほっつき歩いていたのだか」

「私があれ・・と共にあったのは丸一日ほどですが……」

 同じように上を見上げながら、オーガストも同意する。

「私の常識や価値観では、あれ・・の行動は把握出来ない。人の身であれ・・を理解しようなど、おこがましいにも程がある、それだけは、思い知りました……そもそも、私は、運が良かった。『ウェンディゴ症候群』にならずに済んだのですから……いや」

 オーガストは、自分の手を見下ろす。

「今の私は、人の身ですらありませんが……」

「後悔されているのですか?」

 黒い男が、オーガストに聞いた。

「そうですね……未練は、あります。私はもう、人として人と交わることはかなわないでしょう。うららかな晴れた日の午後、公園を散歩し、ベンチでホットドッグをかじるような安穏は、もう二度と得られないのですから」

 オーガストは、自分の手から目を上げ、黒い男に向き直って、言う。

「しかし、悔いはありません。これは、私が知りたいと願った、その代償なのですから」

「結構。実に、すばらしい。その意気や良し、です」

 黒い男は、顎に手をやって、頷く。

「是非とも、これからもあなたとは末永くよろしくやって行きたいものです」

「そうなることを、私も望みます……そうそう、悔いと言えば、ミスタ・ニーマントを奪い返されてしまった。これは、悔いていると言っても良いでしょう。彼からは、色々な事が聞けそうでしたし、これからの話し相手にもなって頂けそうでしたから」

輝かないアンシャイニング・多面体トラペゾヘドロンですか。確かに、私もあれには興味をそそられました。あれも、『私』かも知れないのですから」

 オーガストは、黒い男のその告白に苦笑して、聞く。

「一体、あなたは何人居るのですか?」

「さあて……何度も言いますが、私は『私』の中ではかなり若い方のはずです。ですから、とてもすべてを把握などできようもないのですが……そうそう、お気づきかもしれませんが、これ・・も『私』です」

 黒い男は、足元の、網の目とも蜘蛛の巣ともとれる形状の、床代わりの木の根のようなものをつま先でつつきながら言った。

「これが?」

 オーガストは、少し驚いて足下を見る。

「はい。『私』の中では、私のような人間に近い、人間に興味や親近感を持つ個体は比較的珍しいようです。多くの『私』は、姿形は人に似ていても、考え方や行動規範は人のそれとは大きく違う。私は、私の少ない経験からも、そう感じています。そして、同じ理由で、希に、このような」

 もう一度、黒い男は、つま先で足下の木の根のようなものを軽く蹴る。

「人間どころか、動物未満の、まともに意思疎通する事すら困難な『私』も生まれ得るのです……ヒトデの一種に、テヅルモヅルというのがいるのを御存知ですか?」

「いいえ、海産物は苦手で……それが、何か?」

「私も海洋生物は苦手なのですが、なんでもそのヒトデは、触手が無制限に増殖するのだとか」

「無制限に、ですか?」

「はい」

 正確にはヒトデ綱ではなくクモヒトデ綱に属するテヅルモヅルは、水中の微細な有機物を捕食するため、無数に分岐した触手を持つ。その触手は、中心付近こそ普通のヒトデやクモヒトデ同様に5本だが、先端部分は無秩序とも思える分岐を繰り返し、異様な形態となる事で知られている。

「この『私』も、恐らくは同様なのでしょう。知性も自意識もなく、ただ本能に任せて増殖する事のみを望む役立たずのこの『私』を、誰かがここにうずめ、凍らせ続けるために定期的にイタクァにここに来るよう命じた、そんなところでしょう」

「誰か、ですか?」

 素朴な疑問を感じたオーガストが、黒い男に尋ねる。

「誰か、です。誰かは分かりません。別の『私』か、あるいは最初の『』か。あるいは他の何者か、まあ、そのようなものが本当に居るのならば、ですが。それはともかく、恐らくは、そのような経緯でここを定期的に訪れるイタクァに気付いた人間が、イタクァが定期的かつ一定時間逗留したが故に、ある意味奴の鋳型となったこの洞窟を信仰の中心地とした、それがいつ頃の事かは分かりませんが、大体そんなところでしょう」

「定期的に凍らせる?」

「はい。なんとなれば、この『私』は勿論死んでなどいませんから。ほとんど凍り付いているから、動くのが面倒くさくてじっとしているだけです。その証拠に……」

 黒い男は、足下から視線を上げ、壁から生える木の根のような構造物の一本に目をやる。視線を辿ったオーガストが目をこらすと、その木の根のような何かから、細い何かが壁を垂直に這い上るのが見えた。

「……私の意思に、この『私』は応じます。勿論、ごく末端の一部だけ、ですが」

 オーガストに振り向いて、黒い男は、再び薄く嗤ったようだった。

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