305

 パニックを起こし、浮揚のまじないが消失した上に翼を失った際にバランスも崩し、錐揉みどころか不規則な三次元的回転運動で落下するユモは、改めて落下を止めるためのまじないを立ち上げようと試みるも、その精霊を召喚するための精神集中すらおぼつかない状態にあった。

「ち、父と子とせい、精霊の御名のも、もとに!……」

 不規則な回転に慌て、さらには落下の恐怖に押しつぶされそうな心と体を無理矢理動かし、油断すると悲鳴を上げてしまいそうな喉を必死に抑えてユモは呪文を唱え、唱える事でかろうじて集中する意識で、自分のすぐ目の前にイメージの魔法陣を描く。

「……精霊よ!星の縛りから解放されしかりそめの、だ、大地となりて、我を受け止めよ!アテー……」

 如何に類い希な才を持つユモとは言え、この状態では呪文を唱えるにも印を結ぶにも無駄が多くなり、それが故に源始力マナの持ち出しが非常に多くなる。だが、今のユモにそこを気にする余裕は無い。

「……アーメン!」

 とにかく、墜落したくない一心で、ユモは半ば強引にまじないをおこす。呪文を唱え終わると同時に、ユモが目の前に展開した魔法陣が輝きを増し、二回りほども大きくなる。それまでユモと同じスピードで落ちていた――同じ加速度で落下速度を速めていた――魔法陣は、大きくなると同時にその加速度を減じ、ユモは柔らかい皿のような、堅いマットレスのような独特の感触のその魔法陣の面に顔から突っ込む。

「停まって!停まってえ!」

 体が魔法陣に貼り付く事から、確実に落下速度は減じているはずだが、ぐんぐん近づく地表はユモの恐怖心をいやが上にもかき立てる。

「嫌あ!停まってえ!」

 魔法は、超能力の類いではない。正しき術式の元に術者を取り巻く『世界のことわり』に精霊の力を借りて干渉する技術である。思えば成る、というものではない。だが同時に、魔法とは、起爆剤と爆薬の関係であるとも説明される。精霊という爆薬を、如何に効率良く、術者自身の源始力マナを起爆剤として反応させるか、そこが術者の、魔法使いの力量であると。

 そして、起爆剤も爆薬の一種であるから、精霊を使役せずとも術者自身の源始力マナだけでも、その量に応じた効果は得ることが出来る、とも。

 必要十分な精霊を使役出来ていないと直感的に悟ったユモは、この時無意識に、本能的に、不足する分を自らの源始力マナで補い、まじないを補強した。

「停まってぇぇぇ!」


 鈍く、さほど大きくない音と共に舞い上がった雪煙を見て、ユキは歩調を緩めた。

「……ったく……」

 毒づいて、一息大きくため息をついてから、ユキはその雪煙の中心めがけて、大股に歩き出した。


 体の厚み分ほども雪に埋まり込んで、大の字になったユモは鉛色の空を見上げていた。

 どうにか怪我もないようだが、そこそこに源始力マナを消費したらしく、また一度に大量に源始力マナを放出した事もあって脱力感がおびただしい。体を、動かす気になれない。起き上がれない。

 背中が冷たくなってくるせいなのか、体の芯が、芯だけが震えるような、縮むような、情けない感触を感じる。見上げる鉛色の空が、わずかに歪む。

 ユモは、鼻をすすり上げる。二度ほど。


 ずぐ。ずぐ。ずぐ。はじめは小さく遠く、だんだんに、大きく、近く。規則的な音が近づいてくる。降り積もった雪を踏みしめる、足音。

 その足音が、頭のすぐ横で、停まる。

「……気が済んだ?」

 上から見下ろす、その聞き覚えのある声は、抑揚が薄い。

「なら、テント帰るわよ」

 その声の主は、膝を折り、ユモの手を取って起こそうとする。

「……嫌」

 一言だけ、しかし確かにそう言い放って、ユモはその手を振りほどく。

「あたしが帰るのは、ママムティのところよ」

 ユモは、そう言って、見下ろすユキの目を下から見上げる。

「……いい加減にしなさいよ」

 ユキの声から、さらに抑揚が消える。

「あたしは、帰るの!そのためには、あの多面体トラペゾヘドロンが必要なの!」

 大声を出し、その勢いで膝立ちまで体を起こし、ユモは全身で訴える。

「あれはきっと道標になるものよ!きっとあれ無しじゃ帰れない!だから!取り返しに行くの!今すぐ!誰も手伝ってくれないなら、一人で行くしか無いじゃない!何が悪いのよ!」

 ユモは、喉の奥が熱くなり、何かが詰まるような感覚を覚えた。それほど寒いわけではないのに、体が震える。声も、震えている。

「あたしなら、一っ飛びで追いつける!追いついてみせるわよ!」

 吐き捨てるように、ユモは言う。何故かはわからないが、酷く苦しい。体が、震える。

 頭の奥で、ユモは分かっている。自分は、飛べない。飛ぶ事自体は出来ても、追いつけるほどの速度と高度で飛ぶ技量が、経験が、ない。だから、出来もしない事を、さも出来るように、嘘をついている。誰に?ユキに?違う。自分に、だと。

「追いついて、多面体トラペゾヘドロンを取り戻して、ニーマントから聞き出して、そして、絶対に帰るの……あたしは……あたしは、あたしの家に帰りたいのよ!早く、今すぐにでも!」

 ママムティパパファティの居る、あの家なら。あたしは、嘘なんかつかなくていい。出来ない事は、出来るようになれば良い。寒い思いも、辛い思いもしなくて良い。ひたすら勉強して、練習して、たまに村の人の手助けして、そしていつか、ママムティのような大魔女になればいい。あの家なら。あたしの、あの家に居たなら。

 ユモは、自分が涙を流していることに、まだ気付かず、続ける。

「こんな、ママムティパパファティも居ない世界じゃなくて……あったかいあたしの家に、帰るの!」

「いい加減にしてよ!」

 ユキが、怒鳴った。語気も鋭く。その圧に押されて、ユモは思わず一歩後じさる。両足を踏みしめ、両手を握りしめたユキは、まるでそうして耐えていないと爆発してしまいそうにも見える。

 そのユキが、下を向いたまま、怒鳴る。

「わがままもいい加減にしてよ!あたしだって帰りたいのよ!こんなのもうたくさんよ!大体あんた、魔女なんでしょ!自分の魔法で時間と空間を飛び越えて帰れば良いじゃない!」

「出来るならとっくに……」

「それに!」

 とっくにやってる、咄嗟にそう言い返そうとしたユモに割り込むいとまを与えず、ユキは続ける。

「あんたのママも魔女でしょ!長生きだって言ってたじゃない!」

 二人きりの時の雑談で、ママムティは見た目よりずっと長い時を生きてる、と言う意味のことを話した記憶は、ユモにもあった。

「だったら、今この時だってどっかで生きてるんでしょ!そこまで行けば良いじゃないの!あんたが生まれる前だって、きっと助けてくれるわよ!とても偉大な大魔女様なんでしょ!魔法とは奉仕の御業なんでしょ!」

 そうだけど、ユモは思う。何か言い返したいが、反論できない。そもそも、反論する隙がない。

「あんたのパパだって、暗算したけどもう生まれてるはずよ!いいじゃない!ちょっと早く会いに行くだけじゃない!」

 ハッとして、ユモは気付く。反論しようとして、ユキの言葉尻を捉えようとしていたからこそ、その事実に気付く。ユキの言いたいのは、その事ではないと。そして。

 ユモは、顔を上げたユキも、涙を流していることにも気付いた。

「あたし、あたしなんか、あたしのママもパパも、まだ生まれてないんだから!ママのママだって……あたしは……」

 涙を流し、ユモを睨みつけていたユキの目が、緩む。食いしばっていた歯が、表情が、歪む。

「あたしは……誰も知らない……誰もいない……どこも行けないのよ……」

 ボロボロと、ユキは涙を流す。憎まれ口は叩いても、いつもどこか余裕を見せて笑っていたユキの、そんな辛そうな泣き顔は、ユモは初めて見た。

 見て、胸の奥が痛んだ。

「……あんたは……魔法使いだから……きっと自分で何とか出来るだろうけど……あたしは、あんたに頼らないと帰れないのよ……帰り方なんて、何一つ分からない……」

 ぼそり。ユキが、雪原に膝をつく。両手に、顔を埋める。

「あたしだって……帰りたい、のに……」

 後は、言葉にならない。ユキはただ、肩をふるわせ、嗚咽を漏らす。

 その姿を見て、ユモは立ち尽くす。考えが、まとまらない。帰りたい。今すぐにでも。帰りたい。何をしてでも。でも?

 でも……置いていくの?置いていって、いいの?

「あたしだって……あたしだって!帰りたい!……でも……どうしたらいいのよ……」

 絞り出すように、ユモが言う。

 帰る事だけ考えてた。多面体トラペゾヘドロンを、ニーマントを取り返すことだけ考えてた。それが、誰かを泣かすなんて、悲しくさせるなんて。でも、取り返さないと、きっと帰れない。今行かないと、どんどん離れちゃう。追わなきゃいけないけど、追ったら、置いてく事になる。

 選べない。答えが、正解が分からない。

「……どうしたら……あたし、どう……どうしよう……ねえ、どうしたら、いいのよぅ……」

 ユモは、胸の中が熱くて、痛くて、ギリギリと握り潰されるようで、どうにもたまらなくなる。いろんな事が一度に頭に浮かび、何一つまともに考えられない。

 ボタボタと、涙が落ちる。立ち尽くしたまま、ユモは大声で泣き始めた。天を仰いで。幼い子の、ユモの年相応の子供のような泣き顔で、泣き声で。

 ユキも、嗚咽が泣き声に変わる。互いの泣き声が互いを刺激し、共感し、二人はただ、号泣した。

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