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「君は……」
私は、そのスーツの男に誰何した。
「ああ、私は、名乗るほどの者ではありませんし、名乗るような名前もありません」
その男は、うやうやしくも気障な仕草で帽子に手を触れ、私に一礼した。
「どうぞ、ご自由に呼んでいただいて結構です」
私は、その口ぶりに強い既視感を覚えた。
「鍋が冷めます。暖かいうちが美味しいのでしょう?どうぞ、私は気にせず召し上がって下さい」
そう言われて、私はポーク&ビーンズの事を思い出し、言われるままにリビングに鍋を持ち帰って、ソファに腰を下ろした。しかし、空腹感などどこかへ飛んで行ってしまったのも感じていた。
「ずいぶんと軽装だが、その格好でこの雪の中を来たのかね?」
私は、まったく当たり前の事のように、聞いた。それは、内心感じている感覚を否定するための、自分は平静であり、ここには危険なものは何も無いのだという事を自分に言い聞かせるための方便だったのかも知れない。
「私がここに来た時は、まだ雪はさほどではなかったです。私の足跡も、きっと残っていないでしょう」
何が面白いのか、その男はにやつきながら、答えた。私は、その人をからかうような顔つきに不快感を覚えつつも、匙を口に運びながら、重ねて聞いた。
「では、知っていたら教えてくれまいか?ここにはご婦人がいたと思うのだが」
「ご婦人……はい、年齢の高い女性なら、はい」
「ここはそのご婦人の持ち物なのだろうか?であれば、私は相応のお礼をしなければならない」
「お礼など結構でございます、旦那様」
私は、耳を疑った。口を動かしたのはその男だが、聞こえたのは確かに先ほどの老婆の声だった。
思わず瞬きしてから、私は目を疑った。そこに立っていたのは、白いスーツを着た気障な男ではなく、最前の老婆だったから。
私は、口に運んだポーク&ビーンズの味など、もはや分からなくなっていた。
思わず数回瞬きし、私は、そこに立っているのが白いスーツの、浅黒い肌をした痩身の男である事を確認した。
「どうかしましたか?」
男は、実に心配そうに、私に聞いた。
「いや……ちょっと、自分で思っているより、疲れているようだ」
「それはいけない。よく食べて、よくお休みになるといいでしょう」
「あ、ああ……」
私は、のろのろと匙を動かしながら、曖昧に頷く。
「そうそう、今宵、音楽など少々催したいと思っております。お気に召すとうれしいのですが」
夜の、音楽。私は、ある音を、そのキーワードで思い出した。
「薪が足りなければ運んでおきましょう。水も、必要ならば。私には、あなたが何を必要とするのかよく分からないのですが、教えていただければ」
「それは大変有り難いが……」
「なあに、お礼などいらねえですだよ」
まただ。今度こそ、口を動かしているのはその男なのに、私の鼓膜は、納屋に居た下男の声を聞いていた。私は、今度は瞬きをしなかった。あらゆる精神の力を結集し、一時も逃さず、見ていた、つもりだった。
だから、確かに見たのだ。ほんの一瞬だったが、その男の姿が、下男のそれに置き換わったのを。耳からの音に惑わされた目の錯覚などではなく、確かに、姿が変わったのだと、私は神に誓って断言する。
「その代わりと言っては何ですが、少々お願いがあります」
男は、そう言って一歩私に近づいた。私は、極力外にそれが伝わらないように努めつつも反射的に警戒を強めた。
「あなたがお持ちのものを、少しだけ、見せて頂きたいのです」
「私の、持ち物?」
鍋をすくう匙を止めて、私は聞き返した。
「はい。これと」
男は、スーツの内懐に手を入れて何かを取り出しつつ、言った。
「よく似たものを、あなたはお持ちのはずです」
それは、直径4インチ程の、ゆらゆらと輝く黒い
だが、私は、その男の言わんとする事を即座に理解し、どうするべきかを考えていた。その男の言わんとする事は単純明快だった。ミスタ・ニーマントのペンダント。まさに、男はそれのことを言っているに違いなかった。
「隠し立てするのは無駄のようです」
今度こそ、ミスタ・ニーマントの声がした。
「ミスタ・モーリー。この場は、私を見せる方が賢明のようです」
私は、既視感の正体に気付いた。その男と、ミスタ・ニーマントの口調と声質が、瓜二つなのだと。違いがあるとすれば、ミスタ・ニーマントの声は耳に直接響き、男の声は男の口の位置から発せられている、その違いはあった。
私は、ミスタ・ニーマントの助言に従う事にした。この男は、我々の事を知っており、我々の知らない何かを知っている、直感的にそう思えたからだ。
「なんと。口がきけるとは。これは驚きました」
私が首元から引き出した二つのペンダント、漆黒の
「それに、その水晶玉……失礼ですが、あなた、お名前は?」
「エマノン・ニーマントと名乗っています」
二つのペンダントを見つめながら聞いた男に、ミスタ・ニーマントが答えた。
「
くつくつと、ひとしきり男は含み笑いし、言った。
「私にも、そのような気の利いた名前があると良かったのですが……まあいいです。それで、ニーマントさん、あなたは何故その
「残念ですが。私は、自分がエマノン・ニーマントと名乗っていたということ以外、ほとんど何も知らないのです」
男の質問に、ミスタ・ニーマントは素直に答えた。
「おや……フムン。失礼、そちらのあなた、お名前はなんとおっしゃいますか?」
男は、ミスタ・ニーマントの答えに一瞬だけ考え込んでから、話の矛先を私に変えた。
「オーガスト・モーリー合衆国陸軍軍医大尉です」
「これはご丁寧に。して、モーリーさん、あなたは、それらのものについて何か御存知で?」
その聞き方から、私は、男が、私が何かを知っている事はほとんど期待していない事を悟った。
「残念ですが、私も何も。私はこれらを入手したのは偶然ですが、合衆国陸軍軍人として、わたしはこれらを然るべき研究機関に引き渡し、合衆国陸軍のために役立てなければなりません」
「なるほど……結構」
腕を組み、組んだ右腕を上げて手のひらを右頬に当てながら、男は言った。
「あわよくば、譲って頂けないかとも思いましたが、そう言うことであれば無理強いは出来ますまい。実を言えば、私はその二つがここに来ることを知ったので、あなた方をお待ちしていたのです……少し見せて頂いてもよろしいですか?」
私は、躊躇した。この得体の知れない男に、こんな大事なものを、一瞬たりとも渡して良いものか、と。
「ああ、心配ありません。力尽くで奪うとか、だまし取るとか、そんな無粋なことはいたしません」
男は、両手を開いて胸の前で振る。
「見せて頂ければ、私の知っている事をお教えできるかも知れません」
取り引き。しかも、情報。それは、今私が一番欲しいものでもある。しかし……
「私も知りたいですね。私の、知らないことを」
ミスタ・ニーマントが言った。虎穴に入らずんば虎児を得ず、そんな言葉が東洋にあると聞く。今が、どうやらその時らしい。
「分かりました」
私は、二つのペンダントを首から外し、男に渡した。
「ありがとうございます……どうぞ、お食事をお続けになって下さい。ちょっとだけ、お時間を戴きます」
男は、私にそう言った後は、私など居ないかの如くに
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