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 結局、テントはそのまま、ただし食料は置いていかない、と言う方針はその場で決まった。熊は基本、臆病な動物だから、人を含めて大型の動物を襲う事は、実はほとんどない。熊が人を襲うのは、人が簡単に狩れる獲物だと気付いた時、気付いた個体だけ、というのが野外で活動する者の常識だった。とはいえ熊は雑食だから、肉は勿論穀物その他も置いていかない方が良い。

 それでも、留守を荒らされる可能性はゼロではないが、そこはローテクで、ロープとまきと、鍋釜とを組み合わせて即興の『鳴子』を作り、テントの周りに仕掛ける。現代っ子のユキとしては、いっそトリップワイヤーからの催涙スプレーメイスでも仕掛けたいところで、「通学鞄には防犯ブザーもメイスも入ってるのに」とユキは悔しがるが、今ここに無いものはどうにもならない。

 まあ、ちょっと強めに風が吹いた程度でも鳴るようにしてあるから、人の気配を感じて動物は近づきたがらなかろう、と言う事で、ないよりマシ程度の安心感を得た一行だが、それでも今ひとつ安心しきれないユモは、こそっとまじないを仕掛けておいたが、勿論誰にも気付かれてはいない。

 荷役用で乗馬用の鞍が無い馬の問題も、荷役用の鞍自体はあるので、その上に毛布などを積み、あぶみもロープでとにかく足かけだけ作ってなんとか歩いて洞窟の往復くらいは出来るようにでっち上げた。乗馬用のくつわと手綱はないが、そもそも引き歩き前提ならそこは問題にならないと判断、とにかくやってみようという事に決定する。


「……ホント、びっくりさせないでよね」

 翌日の準備として、荷役用の鞍に載せる毛布の調整をしながら、ユキは隣で同じ事をしているユモに言う。

「何言い出すかと思った。全部言っちゃうのかと思ったわよ」

ママムティが言ってた。嘘はついても、つかれてもダメって。でも、ホントのことを全部言うのはバカのすることだわ」

 振り向きもせず、ユモが手を動かしながら答える。

「あたしは、嘘は言ってないわ。信じてもらえるレベルはこのくらい、って思った事だけをいっただけ。あたしは、間違ってないわ」

「……そうね、あんたは、間違ってない」

 ユモの声に、何か切羽詰まるものを感じたユキはそれ以上追求するのを止める。

「だから、還る方法、協力して探しましょ」


 翌朝は立つのが早いので前夜の準備はほどほどにして一行は就寝、翌朝は時計もなしに起きたチャックの声で全員起床、準備の続きが終わり次第、まだ明け切らぬ冬の遅い朝日を見ながら出発する。

 現在、彼らがテントを張っているのは、北米大陸の五大湖の一つ、スペリオル湖に突き出すベイフィールド半島の北端近くの東岸、ベイフィールドとレッドクリフの二つの漁村から等しく5マイル程内陸に入った位置、現在のビーバーホロー周辺にあたる。距離だけならどちらの漁村も馬で二時間程度だが、途中に湿地帯がある為これを避けて往復するとどちらも丸一日行程、しかもレッドクリフはネイティブアメリカンのオジワブ族の居留地、ベイフィールドは白人の町だが非常に小規模、これがスティーブ達がユモとユキを送るのを躊躇った理由でもある。今、彼らは湿地帯のきわに沿って北北東、半島ほぼ北端の湖畔、ラズベリーポイントに向かっている。

 馬の背に揺られる事、二時間ほど。人の足では、雪に阻まれて時速2~3kmが精いっぱいだろうが、馬ならばこの条件でも時速5kmは維持出来る。このところ天候は安定していて気温も厳しくはないが、それでも氷点を大きく超える温度ではない。男達に借りた外套を着ているが、ユモがかけた寒気除けのまじないがなければ、馬に跨がる為にスカートをまくり上げなければならない、そのために素足を曝さざるを得ない――男達のズボン下を借りるアイデアは、即座に却下された。洗濯が成されていないためである。代わりに、あり合わせの毛布と毛皮でチャップス的なオーバーパンツを作り、腰の前後にも前垂れ後ろ垂れもつけているが、パンツを見えづらくする効果はあっても、ウーリィと呼ばれる寒冷地用チャップスに比べれば隙間だらけで寒気除けには気休め以下のものでしかない――ユモとユキは、とっくに根を上げていただろう。


 道中、スティーブは饒舌だった。とりとめもない話を、それは『お嬢さん達』を退屈させないためだったのかも知れないが、ずっと話していた。自分の祖父はいわゆるカウボーイだった事、だが鉄道網が敷かれて廃業し、父はその鉄道関係の労働者だった事。カウボーイへの憧れだけで家を出て数年、結局食い詰めた挙げ句に折からの徴兵で欧州へ出兵した事。すぐに戦争は終わり、払い下げの銃を持ってこのあたりで便利屋をやっていてチャックと知り合った事。

 この国は、かつての開拓時代から、産業の時代に変化している最中なんだ。スティーブは言う。俺たちは、その時代の波に乗り損なったはぐれもの、こういう生き方しか選べなかったのさ、と。だが、後悔はしていない、とも言う。

 次の戦争・・・・と、その後の時代を知るユモとユキは、共に無言で思う。その産業の時代の先、ここ、アメリカは地球上で最強の国家になる。少なくとも、そういった一つの時代を築く。だが、その事は、ユモとユキが程度の差はあれどこの先の世界を知るという事は、今まで一言も口に出していないし、この先も決して、特にオーガストには絶対に言ってはならない、悟られてはならない事だ。だから二人は、自分達の家族についてスティーブから話を振られた時、曖昧に答えるしかなかった。


「あたしの両親は……どっちも、今は外国に働きに行ってます」

 言葉を選びながら、ユキは答える。

「腑に落ちませんね。あなたをそれ程しっかりした学校に入れた御両親が、出稼ぎに出るような方というのは」

 珍しく、オーガストが話に入ってくる。

「出稼ぎ、ってのはちょっと違うかな」

 ユキは、苦笑する。

「言い方が悪かったかな、父は、外資系の会社に勤めていて、今はヨーロッパのどっかの研究所に居るはずです。母は日本の企業ですけど、商談でやはりヨーロッパをあっちこっち飛んで歩いているはず」

「ああ、そういう事でしたか。これは失礼、早合点でしたね」

 笑顔で訂正し、ちょっと考える風な様子のオーガストは、質問を重ねる。

「しかし、そうすると、あなたは御両親と離れて暮らしている?」

「ええ、まあ、ていうかあたしの学校は全寮制なんで。だから、家は普段は空き家同然です」

 ユキは、馬の背に視線を落とす。

「だから、週末に家に帰っても誰もいなくて。まあ、叔母さん家とか近所なんで、むしろ最近はそっちに入り浸ってますけど、まあ、寂しいっちゃ寂しいですね」

 へへへっ、とユキは笑う。

――ママムティと離れて暮らすなんて、考えた事もなかった。ううん、考えられない。だって、ママムティはあたしの先生レーレリンで、いつも家に居て、何でも教えてくれて……――

 ユモは、照れ笑いしながらとりとめもない事を話しているユキを見つつ、思う。

――……ダメ。ママムティの居ない世界なんて、考えられない――

 ユモは、空の向こうに目をやる。今、ここから真東に7000km弱ほどの所に、ママムティは居る、この時代のママムティが。あたしが生まれる20年以上前、あたしの事を知るはずもないけれど、でも、まごう事無きママムティが、そこに。

 そう思った途端、ユモの胸はきゅっと、切なく、痛む。胸の奥が満たされないような、それでいて何かが詰まっているような、硬いものがつっかえている感触。じわりと、目頭が熱くなる。

「……モー?ジュモー?」

「……え?」

 声をかけられているのに気付くのが遅れたユモは、慌てて声の方に向く。心配そうなユキと、目が合う。

「大丈夫?」

「え、ええ。大丈夫よ、って何が大丈夫じゃなさそうに見えたのよ?」

 つい強く返してしまったユモから視線を外し、ユキは言った。

「……大丈夫なら、いいんだけどさ……」


「……ここだ」

 まばらな高木から灌木のそれにうつった、林と呼ぶのも少々抵抗のある茂みを抜けた先、スペリオル湖を望む崖の際で、スティーブは馬を停めた。

 ベイフィールド半島のほぼ北端、ラズベリー湾から200mほど北東に茂みをかき分けて進んだ先の、それ程高くない崖の上。スティーブは、目印に残した、太めの立木に縛ったロープを示す。

「この崖の下に、洞窟がある。そこが、目的地さ」

 言いながら、スティーブは馬を下りて、手綱を手近な木に繋ぐ。チャックもオーガストもそれにならう。ユモとユキも、慣れない上にそれ用ではない即席の鞍からおっかなびっくり降りる。二人の少女が、慣れない鞍上で固まってしまった足を叩き、屈伸して柔軟性を取り戻している間に、男達は洞窟に潜る準備を整える。

「……馬はここで大丈夫なの?」

 足の調子が戻って来たユモが、当然の疑問を口にする。

「本当から言うと、誰かを見張りに残したいところだけれど」

 言いながら、スティーブは腰の拳銃を抜き、空に向けて三発、撃つ。耳を押さえるユモに微笑むと、撃ちガラの空薬莢を取り出し、木の皮を剥いだものの上に乗せて地面に置く。

「鉄と、人と、あと火薬の匂いのするところには、臆病で慎重な獣は近づきたがらない。経験則だけどね」

「なら、いいけど……」

「今まではこれで大丈夫だった、多分、今日も大丈夫さ」

 話している間に、チャックが手早く拾った石を地面に並べ、乾いた木をそこにまとめて火を点けはじめる。

「……戻って来るまで、もちます?」

 チャックのしている事の意味に気付いたユキが、聞く。

「炎はもたないかもしれないが、炭なら、もつ。気休めにはなる」

 広葉樹の焚き木をいくつも並列に並べ、上から下に長く燃えるように仕組みつつ、チャックは答える。

「……勉強になります」

 キャンプファイアー的な焚き木の組み方しか知らないユキの言葉の意味を知ってか知らずか、チャックは微笑んだ。


 元々は船で来るような所だったのか、それとも梯子か何かがあったのか。とにかく、洞窟は、かなり以前は崖の下端付近にあり、恐らくは入り口は長い事意図的に塞がれたままで、崖そのものももっとオーバーハング気味だったらしい。その崖が風化で崩れ、塞がれていたはずの入り口がわずかばかり、人一人がやっと通れる程度に開口し、また崩れたおかげで何とかそこまで下れるようにもなっていた。

「何故、塞がれていたって言えるの?」

 その崩れた崖を下りきったユモが、息を整えながら、聞く。

「発光現象が最近まで発見されなかったから。このあたりは夏場はネイティブの小舟から客船商船まで、結構な数の船が通るから、あんな光、見つからないわけがない」

 厳冬期、アメリカ五大湖は平均で五割ほどの面積が氷結する。セント・ルイス川河口にあって五大湖最大の港湾都市でもあるウィスコンシン州ダルースから五大湖を通って大西洋に抜ける航路自体は塞がる事はまず無いが、沿岸部に船が近づく事も滅多に無くなる。とはいえ、夜間にあれだけ光っていれば、湖の中央を走っている船からでも見えないわけがないし、実際、この付近に目星をつけたのも、カウンティにその手の報告が上がってきたからだ。

「俺たちがその光を見たのはおととい、お前達が『飛ばされて』来た晩が最初だが、どうもそれ以前はもっと光も弱かったらしい。強くなったのがあの晩なのか、その前なのかはわからない」

 ハリケーンランプ――シェードを二つの柱で支える、悪天候に強いランプ――に火を点けながら、チャックが付け足す。

「準備が出来たようなら、行きますか?」

 撃鉄を起こして安全装置をかけたコック&ロックしたM1911自動拳銃をフラップ付きホルスターにしまいながら、オーガストが皆に声をかけた。

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