204
洞窟ではどう考えても持て余すので、
洞窟に入り始めた男達の背中を見つつ、ちょっとだけ腰の退けているユモの背中を軽く叩いたユキは、ニカッと笑って、言う。
「……さあ行くぞ!しゅっぱーつ!」
現代のフラッシュライトから比べたら、頼りない事この上ないランプの明かりだけを頼りに、一行は洞窟を奥へ進む。
まだ入り口の灯りがわずかに差す所で一旦立ち止まったスティーブは、洞窟の傍らの窪みをランプで示す。
何かと思って覗き込んだユモが、ハッと息を呑む。
「ここが、夕べ言ってた、誰かの住み処、って事?」
ユキが、スティーブに問う。ランプに照らされたその顔は、少しだけ厳しい。
「そうだ……新しいのが、増えてる?」
「ええ……入ってすぐから、血の臭いが淀んでたわ」
昨日との違いに眉を上げたスティーブに、ユキが返す。
「そりゃ気付かなかったな」
「……行きましょう、長居は無用だわ」
左手を腰の薪雑把に当てつつ、周りを気にする様子でユキは提案した。低めの、硬い声で。
「……同感だ」
同意するチャックの声も、堅い。
「見られている、ような感じだ……」
洞窟は縦横とも直径3m前後の円形、その壁面は驚くほど綺麗で「まるでボーリング機で掘り抜いたよう」とオーガストが評したほどだった。水際の洞窟で心配される水没の気配もなく、しかし、地上より厳しく思える冷え込みのせいか、壁という壁は凍りつき、あるいはつららを垂らす。あるいはその凍結のせいで水没を免れているのかもしれないが、当然ながら床も滑りやすく、小石や岩の凹凸がなければ転倒は免れないと誰もが思った。そんな洞内を進む事三十分ほど。一行は、急に広い空間に出る。
その空間は、おおまかに垂直方向の長径10m弱、水平方向の短径5m弱ほどのいびつな楕円体で、洞窟はその空間の上三分の一程の所に開口しており、ランプの光をかざしてみれば、床あるいは底と思われるところまで高低差5mはあり、当然、そのまま洞窟から空間に飛び出すのは無謀と考えられた。
スティーブとチャックは洞窟の凍った床面に苦労してペグを打ち込み、これに器用に梯子状に結んだロープをかけて足場を確保する。
最初にチャックが降りて強度を確認、下端を確保して揺れないようにした上でユモとユキを降ろし、次にオーガスト、最後にスティーブが降りる。もしこのロープがダメになるとここで野垂れ死になので、スティーブはもう一本別にペグとロープを確保するのも忘れない。
降りてみれば、最下端はいつ作ったものか分からないがとにかく板張りの、隙間だらけでやっつけ仕事だがとにかく人が落ちない程度の強度をもった床がしつらえてあった。
「……誰が、いつ、作ったんでしょうな?」
皆の意見を代表するように、スティーブが独りごちる。あまりに寒冷な環境に置かれているせいか、腐敗が進んでいるようではないが、あまり強度も安全も信用できるとは言えないその床板の上をおっかなびっくり歩きながら、一同は三々五々、周りを観察する。すぐに、一同のそれぞれが、それぞれ別に、しかし意味する事は同じある物体を発見する。
「こりゃ、御遺体だな?」
「こっちにもある」
「うあ、踏んじゃった」
「やだ!ここにも!」
「冷気と乾燥で半ばミイラ化してますね」
革手袋を付けた手で、ピンセット越しに死体の衣服などをめくりながら、オーガストが言う。
「詳しく調べれば、時代や人種その他は鑑定出来そうです」
うれしそうに、オーガストは立ち上がる。
「つまり、この人達が、イタクァだかウェンディゴだかを崇拝していた、悪魔崇拝の邪教徒のなれの果て、って事ですか?大尉?」
壁の一部に残されたペインティングを見ていたスティーブが、オーガストに尋ねる。
「そう決めつけるのは早計ですが、その可能性は充分に高いと言えるでしょう。何か文章的なものが残っていると話が早いのですが……」
「ネイティブアメリカンは文字を持たない。ここに居るのがそうだとしたら、残っているとは思えない」
オーガストの言葉に、チャックが否定的な見解を述べる。と、さらにその言葉を否定するように、ユモが、
「……そうでもなさそうよ」
厳しい顔で、振り向かず壁面の一部を見つめたまま、一行全員に聞こえるような声で、言った。
「少なくとも、絵文字レベルの何かを残す程度の文化はあったみたい。見て」
ユモの示す先には、壁面に刻まれた、
「これはあたしも知らないから読めないけど、こっちは読めるわ……誰か、読んでみる?」
ユモは、ちょっと挑戦的な表情でそう言って、壁面に刻まれた違う刻みに、自分のペンダント――ほの明るく光る水晶玉、もはや隠しておく必要も無い――を近付けて示す。
ぎしぎしと床板をきしませ、オーガストがユモに――床の中央には直径1mほどの穴がぽっかりと空いている、そこを避けて――近寄って、しばし、示された壁面に目をこらす。
「……ギリシャ文字の逆さ文字だ」
やや興奮気味の声でそう言ったオーガストは、その文字を読み始める。
「汝 イタカと旅立つなら 長旅になると心せよ あらゆる驚異と刮目に満ちるべくあれかし……」
「明らかに、ネイティブアメリカンの仕業じゃないわ、よ……え?」
自分のすぐ横のオーガストと、後ろにいる皆にそう言いつつ振り向いたユモは、目に入った光景を瞬時には理解出来なかった。
最初にユモの目に入り、かろうじてユモが理解出来たのは、自分の方にユキが跳んでくる、その事実だけだった。
だが、それでもなお、ユモはそれがユキである事を理解するのに、わずかに時間を要する。何故なら、そのユキの表情は、目つきは、この二日ほどでユモが見慣れた、いつも優しげな垂れ目でも強く当たっても怒らない笑顔でもなく、見た事のない、何かを射すくめる目、噛み砕く犬歯を見せた哄笑だった。
ユモは、すぐに理解出来ていた。ユキが見ているのは自分ではないと。自分のすぐ側に居る、何かを威嚇しているのだ、と。
そうでありつつも、そのユキの姿に、どこかで見た、記憶の奥底にある何かに重なるその目に、牙に、ユモは瞬時に、恐怖すら覚えた。
人間の視野は、水平に広く、垂直に狭い。故に。ユモの視野には、ユキが狙うその『何か』はまだ入っていなかった。
「チィェストォォォー!」
示現流のそれのようなかけ声と共に突進し、その途中で体をひねり、ユキは空中で仰向きに、ユモの視野の外にある何かに向けて木刀――に見立てた薪雑把――を抜き付ける。その太刀筋はユモの眼前を駆け抜け、ユモの視野の外から伸びてきた何かを弾き飛ばす。着地も受け身も眼中にない様子のユキは、そのまま背中から壁面に激突する。
「……ユキ?!」
「何だ!?」
自分のすぐ側の壁面に激突したユキにユモは振り向いて声をかけ、それがユキである事に気付いてすらいなかったオーガストも、何かが激突した壁に目を向ける。
「ごめんなさい!」
その激突した、オーガストから見れば何か、ユモにすればユキは、一言そう言うと、崩れた姿勢からオーガストの膝裏をつま先で軽くひっかけて転ばせ、次のアクションで体当たりするようにユモを抱きかかえ、一回転前転する。
「な?」
膝裏を蹴られて腰が砕けたオーガストの上半身があった位置を何かが横に薙ぎ、続けてユモが居た位置にその何かは着地する。複数の石油ランプの十分とは言えない光量に照らされたそれは、ボロボロのダスターコート、土気色の肌、落ちくぼんだ眼窩、そして、長く伸びた鋭く黒い爪と、剥き出しの黄色い乱杭歯。
「……え?」
やっとのことで思考が事態に追いついたスティーブは、それでも事態を飲み込みきれずにやや抜けた声を出すが、体は反射的に銃を抜き、既に腰だめに構えている。チャックもそれに習うが、
「……人、か?」
常に冷静なチャックをして、その声には戸惑いの色があった。人のプロポーションをしたそれは、しかし、少なくとも『生きた人』の肌色、目の色には思えなかった。
瞬間、皆の動きが停止した。左手にユモを抱き、右手の薪雑把を突き出して構えるユキは、それを見据えながら、誰ともなく、聞く。
「これが、ウェなんとかってヤツ?」
床に尻餅をついた状態から、後ろずさりにはいずって『それ』から距離を置いたオーガストが、答える。
「間違いありません、ここまで症状の進んだ患者は初めて見ましたが」
「なら、殺しちゃまずいな」
片手で、拳銃を目の高さまで上げて構えるスティーブがオーガストの後を引き取り、チャックも軽く頷く。その二人の拳銃の構え方は、現代っ子であって、父親の影響で近代CQBの構え方を見慣れたユキには奇異な、素人臭い構え方にも見えてしまう。
そんな周りの戸惑いに気付いたのか、中腰になって周囲の様子を窺っていた『それ』、オーガストに曰くウェンディゴ症候群の重症患者の男は、予備動作なしに、ユモとユキに向けて、跳ぶ。
「……マジか!」
小さく呟いたユキは、膝をついた状態から右片手だけで中段に構えていた薪雑把を一度軽く引きつけ、タイミングを合わせて突く。低い姿勢から伸びたその突きは、狙い違わず、避ける事も払う事もしない男の胸板を、そのほぼ真ん中を貫く。
無論、貫通どころか皮膚一枚切り裂かない胸突きの打突だが、瞬間、突進する男の全体重と突進力が薪雑把の切っ先に乗り、受けるユキの真っ直ぐに突き出した腕からユキとユモの体重を上乗せして踏みしめた足へ流れ、床に逃げる。
みしり。いやな音がユキの足下から聞こる。
「え?いやちょっと、マジ?」
いわゆる心臓打ち、ハートブレイクショットとなったユキの一撃で麻痺状態の男の体が薪雑把にのしかかり、結果として床のほぼ一点に三人分の体重がのしかかる。加えて、打突の衝撃も反作用として受け取っていた床板は、
壊滅的な破砕音と共に、複数の床板が崩壊する。
「まずい!」
「いかん!」
スティーブとチャックは同時に声を出すが、距離もあり、ましてや床板の中央の穴を避ける関係もあって、飛び出しても到底間に合わない事を理解している。
「いけない!」
ユモとユキのすぐ側に居たオーガストだけが、咄嗟に飛び出し、かろうじて間に合う事が出来る距離に居た。すべり込むように飛び出し、延ばしたオーガストの右手を、ユキに抱きとめられたままのユモも右手を伸ばして掴む。
「あっ!」
その右手から、握りしめていた光る水晶玉が離れる。
「嫌、ダメ!」
それを視線で追うユモの右手を、かろうじて間に合ったオーガストが掴む。
「……だあっ!」
致し方なし、そんな苦渋の表情で、ユキは薪雑把の先端にのしかかっている男を振り落とす。如何にオーガストが成年男性で、軍人であっても、また自分達が年端もいかない少女であっても、二人分を支えるのは容易ではない。ましてや三人は。咄嗟の判断だが、それが正しかったのかどうかは、ユキには結論は出せない。
「……重い!」
ユモの手首を掴むオーガストだが、流石に少女二人分は重い。咄嗟に左手も出してユモの右手首を掴む。
「痛ったー!」
二人分の体重が右手首にかかったユモが、悲鳴を上げる。
「ゴメン!」
すぐさま、ユキは右手の薪雑把を捨て、その右手でオーガストの左手を握る。
下の方から、何か重くて大きくて中途半端に柔らかいものが堅い何かに激突する音と、棒きれが堅い物に当たる音が続けて響く。
「大尉!すぐ行きます!」
一刻も早く駆け寄ろうと、助けようと、スティーブとチャックが駆け出そうとした、その時。
……みしり。
オーガストの下の床板が、再び、不吉な音をたてる。先般、三人分の体重を支えきれなかった古い床板が、今また三人分を支えられないのは、道理であった。
「え?」
「嘘ちょっと、マジ?」
「これは、いけません」
ユモとユキ、それにオーガストの三人が、自分達の置かれた状況を理解した、その直後。
再び壊滅的な破砕音を立てて、砕け散った。
「きゃー!」
「マジかー!」
「うあっ!」
三者三様の悲鳴が漆黒の床下に消えていくのを見て、聞いて、スティーブとチャックは、しばし呆然とするしかなかった。
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