プロローグ 3
「ユキ、何それ?」
歩みを停め、おかしなサングラス風なものを顔に当てて空を見上げていた同級生に気付いて、数歩先を歩いていた二人の少女の片割れが声をかけた。
「これ?パパ特製の日食グラス」
そういって、ユキと呼ばれた少女は振り向き、顔から外したその手作りの日食グラス――厚紙を切り抜き、太陽観察専用のフィルターを挟み込んだだけの手作り感満載の代物――をひらひらさせる。
「昨日届いたんだ。間に合ってよかった」
言って、中学二年の女子としては大柄でガッシリ目の体つきの少女は笑顔を見せる。やや眠たげな、やさしそうに垂れた目元、真ん中分けにした背中まであるセミロングの黒髪。今時珍しくなった黒のセーラー服のリボンが、スカートが、春風に揺れる。
「えー?見せて見せて」
「なにそれ、どんな風に見えるの?」
踵を返して食いついてきた同級生に、ユキと呼ばれた少女は笑顔のまま日食グラスを渡す。
日曜の午前。剣道部の朝練の後。コーチの「今日は日食だそうだから、全員早上がりして観測しとけ」とのお達しで、いつもなら昼までの練習は、二時間ほど早く切り上げられた。
文武両道、並び立つことを良しとする
とはいえ、ただでさえ重装備で冬でも汗だく、ましてや面や小手は長年染み込んだ汗が化学反応を起こし、えもいわれぬ香りを漂わせる剣道部のこと。同じ汗だくでもさほど気にしない男子や、シャワーと着替え一発で平常復帰できる他の運動部女子部員よりも念入りに汗とにおいを落とし、コロンも使ってなんとか気にならない程度に仕上げて部室棟を出たのは、もう日食が始まる直前という頃合いだった。
そうは言っても、必ずしも全員が日食などに興味を持ち観測したがるわけでもない。そもそも肉眼で直接太陽を見ることは厳禁、巷の普通のサングラスでもまるで役不足、ほとんど光を透過しない、特殊な専用の日食グラスを通してでなければ、せっかくの天体ショーも観測は困難。数日前から急にマスコミが取り上げだしたせいで値段が高騰する上に品薄な市販の日食グラスなど、女子中学生がこの日のためになけなしのお小遣いをはたいて買うわけがない。
必然、興味の薄い大多数はライブ配信や事後のネット画像でお茶を濁し、興味があるものは天文部その他設備のある所に潜り込ませてもらって観測する、という図式が出来上がる。全く無視する生徒も居なくもないがそこは名門大学に連なる中学校、ほとんどの生徒は何らかの形で――後日の定期テストに、絶対に時事問題として投入されるとの読みもあって――観測にいそしんでいた。
そんな状況で、部活を終えて学校から寮に戻る通学路、石神井川沿いの既に葉桜を極める散歩道で、ユキは部活仲間と空を見上げていた。
運動後の体にさわやかな春風が心地よく、空は抜けるように青く、太陽は蝕など気にしないかのように燦然と輝く、そんな日曜のお昼前。
ユキは、背負っていた防具袋と竹刀袋を一旦肩から降ろすと、一つしかない手作り日食グラスを仲間と交互に使いながら、本腰を入れて空を見上げ始めた。
この日の、東京での日食の食分は最大で0.88。皆既日食には程遠いが、部分日食としてはかなり大きな食分と言えた。
そんな、日食の進行、月による太陽の最大蝕に差し掛かろうという、その時。
異変は、起こった。
最大蝕を間近にして薄暗くなった石神井川の川沿いの並木道に、突如、一陣のつむじ風が吹いた。
ユキの傍の剣道仲間も、三々五々周りにいた人々も、それぞれ髪を、顔を、服の裾をとっさに抑える。
だが。ユキは、ユキだけは、違った。
「……マジか!」
一言つぶやいて、ユキはあらぬ方に駆け出した。
「え?ちょ!」
「ユキ!」
つむじ風が吹く直前。
ユキは、彼女の鋭敏な感覚は、
とっさに、天を仰いでいた視線を、
その行動は、吹き出すつむじ風を真正面から顔に受けることになったが、それでもユキは目をつぶることはしなかった。
なぜなら。その視線の先に、直前に感じたもののおそらく正体、誰かがイメージした魔法陣が、一瞬だけだが、見えたから。
それは、魔法陣としか呼びようがないものだった。
ユキの記憶にある――と言っても日本語と片言の英語くらいしかないが――どんな言語とも一致しない文字で書かれた、いびつにゆがんだ、何か。強いて近いもので例えろと言われれば、魔法陣、としか答えようのないものだった。
一瞬だけ視界にとどまり、こことは違うどこか別のにおいのする場所の空気を噴出させてそれはかき消すように消え、しかし、それがあったことを示すかのように、物証を残した。
その魔法陣らしき何かがあった空間に、コートを着た金髪の少女が立っていた。
高さにしておよそ20メートル。ビルで言えば四階か五階に相当する高さの空間に、その少女は忽然と現れた。
足元には、何もない。あるのは、20メートルと少々下の、石神井川の川面だけ。突然のつむじ風に目を、顔を覆った周りの人々は、当然のようにその少女には気づいていない。そして。
少女が、落ちた。
少女は、立っていたのではなかった。立った姿勢で、その場所に出現した、そう考えるしかなかった。
だから、支えのない空中では、万有引力の法則に従って、落ちる。当たり前のことだった。
だが、約20メートルを何もせずに落下すれば、落着時の速度はおよそ時速70キロメートルほど、普通の人間ならただでは済まない。
「…マジか!」
考えるより先に、ユキの体は動いた。
人前では自重しろと、きつく言われてはいるし、人目のある所ではいろいろ控えてきた、その自覚も自負もある。
けど。今は、これはもうどうしょうもない。それができるのは多分あたしだけ、だったら、やるしかない。後のことは後で考える。今はやれることをやる、明日思いつく最高より、今できる最良を。パパの口癖だっけ。
そんなことを思いつつ、ユキは、駆けた。文字通り、目にも止まらない
駆けて、遊歩道と川を隔てる欄干に飛び乗り、そのままの勢いで跳ぶ、少女の落下予想位置をめがけて。
体当たりするようにして、しかし衝撃は自分の体に逃がすようにして、ユキは少女を抱きかかえる。ユキの水平方向の運動エネルギーと少女の落下による運動エネルギーの合成ベクトルが、ユキの体に衝撃となって跳ね返り、ほぼ水平に跳んだ軌跡を一気に斜め下に引き下ろす。
――いける!――
しかし、ユキはそのエネルギーを丸ごと受け止め、川の対岸側のコンクリ壁の下端あたりを着地点に見定める。見定めて、もう一度の衝撃に備えて、抱え込んだ少女を落っことさないようにしっかり抱きしめ、その瞬間、ほんの僅か開いていた少女の目と、碧の瞳と視線が合う。
時間が止まったかのような一瞬。複雑な、いろいろな思いが、感情が、思考が、その目に浮かんだように見えた、思えた。
が。それを咀嚼している余裕はない。両足を斜め前に向けて――スカートを気にする余裕なんてどこにもない――ユキはコンクリ壁への激突に備える。
激突に備えて強く少女をかかえた、ユキの手が無意識に少女の手に触れたその瞬間。
予想もしていなかった猛烈な脱力感がユキを襲う。そして。
ユキは、見た。
さっきと同じ『魔法陣』らしきものが、真正面に出現したのを。
つむじ風にあおられて、ユキの竹刀袋が、ぱたりと倒れた。
「……え?」
「……あれ?」
ユキの剣道仲間の二人は、きょとんと周りを見回す。
消え失せてしまった、「早大学院中の戦闘妖精」の二つ名を持つ剣道部二年のエースの姿を探して。
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